探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

戦国の名家・小笠原家のこと

2014-01-26 02:46:01 | 歴史

もともとの、このブログの立ち上げのきっかけは、伊奈熊蔵忠次の祖先と保科正之につながる保科家が、1500年前後に関係があったらしい、それは本当だろうか、どんな経緯があったのだろうか、の興味が”きっかけ”でした。

伊奈熊蔵忠次は、江戸幕藩体制初期において、民政のエキスパート官僚として、利根川の東遷・荒川の西遷を構想実行した土木工事や新田開発などで名を残し、資料は豊富でした。保科家が歴史に名を残すのは、保科正之の時、家光の弟として幕政に参加し名君として実績を残しており、あとは徳川幕府最後の時、京都守護職として、新撰組の後ろ盾の会津藩主松平容保が特筆できます。特に最後は、維新軍との会津戦争は、悲劇の物語として有名です。

ですが、遡ること室町時代の文明の頃となると、極端に資料が乏しくなり、僅かな証左もなかなか見つからず、ただいま難儀中になっています。そこで、傍証から、”搦め手”として、関係がありそうな小笠原家を見ていこうと思っています。この前段階は、傍証からと思い、諏訪家・諏訪大社の歴史を観てきました。宗教とか神社とか、自分とは無関係な、当初理解不能だと思われる世界を覗いてきました。するとどうでしょう、神社や神教のことなど、いまだ訳が分からないことだらけですが、少しだけ見えてくるものがあります。

戦国・小笠原家も、読み込んでいく内に見えてくるものがあるのでしょうか。小笠原家の歴史は、1300年ぐらいから今日まで、極めて長い歴史を持ち、勢力拡大で優秀な指揮官のときも、あわや滅亡の危機の時も幾度も経験しながら、生き残ってきた歴史があります。そして、「弓馬の儀」を奥義として奉じる、という特異な性質を持った大名でもありました。これは、京都小笠原家は、弓馬の儀から通じる、武家社会の礼儀作法の宗家となり、今日にも生き残る”小笠原流”と呼ばれる礼儀作法を一般にも広めながら、存続しております。戦国の世に、武家社会の”天一の弓取り”とか”東海一の弓取り”で表現されるところの、あの弓馬の”弓”は、どうも武家社会の棟梁の象徴のようです。

小笠原家は、「弓馬の儀」の奥義をもって、足利幕府の儀式の師範として、長く京都に駐在します。ときには、この弓馬の儀式で、天皇家の師範にもなったりします。同族でありながら、兄の系列の甲斐守護の武田家よりも、弟の信濃国守護の小笠原家の方が、ずっと格上の守護大名として存在したのは、武力の力よりも、武家社会の儀式を司る師範の性格からのようです。小笠原家を探る場合、「弓馬の儀」は避けて通れそうもありませんが、なんとも”しんどそう”な問題です。その”しんどそう”な証拠に、歴史家の徒は、この部分の分かりやすい解説をしてくれていません。分からないのか、面倒を避けたのか・・・面倒だったのでは、と勝手に思っています。

では、次回から少しずつ・・・



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