限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第219回目)『知的関心、Up or Perish』

2018-03-18 19:53:40 | 日記
外資系企業では、「Up or Out」という言葉がある。日本語に訳すと「昇進か退社か」という意味となる。つまり、「会社の中で出世できないなら、辞めてどこかへ転ってしまえ」という半ば、脅し文句である。首の前に人参はぶら下がってはいるので、頑張るのではあるが、期間内に業績が挙げられないないなら、人参は召し上げられてしまう。そうだから、他人なんかに構っておれず、ひたすら目標に向かって誰もが必死に働かざるを得ないという仕組みだ。

私は外資系で働いた経験がないので、想像でしか話ができないので、このような表現はひょっとして間違っているかもしれない。しかしこのような論理をもう少し一般化すると、仕事だけでなく「人間の関心事項というのも、必ず Up or Perish のいづれかしかない」ということが言える。一般論では何のことか理解しにくいと思うので、私の個人的な経験をお話しよう。

私が所謂「リベラルアーツ」に目覚めたのは以前のブログ『徹夜マージャンの果てに』で述べたように、20歳のころであった。その後ドイツへの留学試験に合格したため、ヨーロッパで生活することができ、ヨーロッパ人の物の考え方を、本や人づてではなく、実体験を通して知ることができた。ドイツ国内はいうに及ばず、ヨーロッパ全土にわたり約8ヶ月も旅行した間、びっくりすることや感心することだけでなく、嫌なことや幻滅するようなことも数多く体験した。これらのことを通して日本人の価値観を再検討する必要を非常に強く感じた。「日本人の間で通用している価値観が果たして本当に唯一で、正当と言えるのか?」という疑念が常に頭によぎった。ソクラテスは、当時のギリシャ人のもつ価値観をどこまでも徹底的に再検討したため、皆から嫌われ「アブ」とあだ名されたが、結局、その後の哲学の歴史が示すように、ソクラテスの持っていた健全な批判精神が真の社会の発展には必要だということが分かった。

ヨーロッパ滞在で気づかされてから、その後ずーっと日本人の価値観の再検討をしていく中で、私の取った方法論が「ブツを通して文化のコアを探る」と「比較を通して文化のコアを探る」というものであった。「ブツ」というのは tangible(手に触れることのできるもの)と言う意味で、観念論的な議論をするのではなく具体的なものについて議論することである。さらにこの時、目に見えるもの(ブツ)を互いの文化圏で「比較」することが非常に有意義だと分かった(この点については、科学史や技術史を学ぶ必要性はブログでたびたび説明した通りである)。

さて、このように文化を多面的な観点から探っていこうとすると、当然のことながら対象とする項目が増えてくる。それも、単純に増えていくのではなく、「幾何級数的に、つまり、爆発的に」増えてくる。その様子をグラフで示すと次のようになる。


このグラフの一番上の線のように、幾何級数的に増える(Up)というのは、臨界点を超えた原子核分裂のように、止まる所を知らない。このような状態になると ― 喩えが悪くて恐縮だが ― 「知の色情魔」のような感覚になる。つまり、本屋や図書館に行き、並んでいる本を眺めていると、中味を見ずに、タイトルだけでも読みたくなる本が幾つも目に飛び込んでくる。それで、次から次へと買う破目になり、読書時間を作るのに苦労する。普通に考えると、本を読むと知識が増えるのであるから、そのうちに知るべきことが減少するように思うかもしれないが、実際に「知の色情魔」になってみると分かるが、全く逆である。本のタイトルを見るだけでも「これも知らない、あれも知らない」ということだらけである。ただ、全く知らない時と比べると、違っている点は、単に「これを知っています」という表面的な知識を求めているのではなく、それぞれの事柄の裏に潜む考え方の根本を理解するように意識が働く。

さて、知的欲求にはこのように「幾何級数的」に増加する(Up)ものもあれば、逆に減少するものもある。学生時代には、衒って教養的なことをかじっていたが、社会人になってからは仕事の忙しさにかまけて、リベラルアーツなどというややこしいものを遠ざける人は多い。しかし、日常的な事だけしか関心が無いようになると、そこには恐ろしい事態が待ち受けている。それは、上図の一番下の線で示されているように知らず知らずの内に知的欲求が下降していき、ついには全く消滅してしまう(Perish)ことになるケースは私の周りの友人・知人などにもみられる。確かに、このような生き方は、それはそれで一つの人生であり、他人がとやかくいうことではないだろう。しかし、個人レベルではなく国レベルで考えてみると、このような知的関心の下降線を辿る人間が増えれば増えるほど、最終的に国家の活力が衰えるのではないだろうか。

歴史を振り返ってみるに、ペリクレスの時に全盛を迎えたギリシャのポリスの人口を見ると、びっくりするほど少ない。何万人(あるいは、せいぜい十数万人)というレベルの人間の思想がその後の2000年の世界の思想の指針ともなっているのだ。もっと卑近な例で言えば、幕末・明治を動かした志士たちは推定するに、せいぜい数千人規模ではなかっただろうか。即ち、国の勢いを左右するのは、単に人口という人間の頭数ではなく、とてつもなく強い知的好奇心・知的関心を抱いている人数に拠るのではないだろうか。国会の場で、質問時間が余ったからと言って、悪びれもせず般若心経を唱える国会議員が出てくる昨今の風潮では日本の国力が消滅の方向に向かっているとしか思えない。これは、単に一国会議員の問題ではなく、そういった議員を選んだ何万人もの選挙民の問題でもあるからだ。
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