世の中一般のリベラルアーツでは科学や技術に言及されることは至って少ない。たまに、この分野に話が及んでも、個別の分野、例えば生物学や遺伝、素粒子や宇宙論など、言ってみれば今をときめく分野の成果を得々と述べるに止まる。科学技術を全く無視するよりは幾分かは良いとは思うものの、それでは単に「○○を知っている」というトリビア的雑学とたいして変わらない。科学技術は個別の分野ではなく、科学史・技術史というトータル的な観点からとらえないといけないと私は以前から考えているし、このブログでもしばしば発言している。
参照ブログ:
沂風詠録:(第223回目)『真夏のリベラルアーツ3回連続講演』(その11回から17回)
科学技術史を学ぶ、リベラルアーツの観点から言えば、複数の文化圏での科学史・技術史の比較が必要だ。というのも、世の中の事象では、人間系、社会系のもの、たとえば宗教、文学、言語などでは各地で異なるのは文化そのものと言えようが、自然現象、たとえば雨、滝、風、日光、などは世界中どこにでも同じように存在しているが、文化圏ごとにそれの利用形態が異なる。材料にしても、鉄、鉛、銅、金、銀、ケイ素、岩石、木なども多かれ少なかれどこにでも存在しているが、その利用の仕方が文化圏によって大きく異なる。つまり、同じ物に対して、非常に異なった考え方をするところに各文化圏の特徴がよく表れるといえる。
抽象論では分かりにくいので、具体的に「西欧はなぜルネッサンスになってから科学が伸展したのか?」を考えてみよう。
一切の説明や詳細は省略して、結果だけを述べると
「それは、ルネッサンスになってから西欧にギリシャ語を読める人が大幅に増加したから」
だと言える。なぜギリシャ語が読めると科学が発展するのか?それは、当時は科学文献(あるいは科学的記事)は、ほとんど全てギリシャ語で書かれていたからに他ならない。本質的に、言語ができる/できない、は科学だけでなく文化全般の受容に非常に大きな影響を与える。例えば、日本の状況を考えてみればすぐに分かるが、奈良時代、平安時代に中国文化が大量に移入できたのも、漢文が読める人がたくさん出たからに他ならない。また、江戸時代の蘭学の発展もオランダ語を熱心に学ぶ人が多くいたからに他ならない。(それにしては、 TOEICに代表される現在の英語の勉強している人が多い割には国際的に日本の評価が年々沈下しているのはどういうことか、考えてみる必要があろう。)
西欧では、古代ギリシャ・ローマにおいて、ギリシャは科学と技術の両面にまたがって非常に高度なレベルに達していた。ところが、ギリシャの軍事力が低下したのとは逆に、軍事力が強力になり、政治的にギリシャを引き継いだはずのローマは、実利的に長じた民族で、科学的な方面(彼らにとっては、「暇人のタワゴト」)には全くの無関心を貫き通した。ローマが東西に分裂してからは、コンスタンチノープルを首都とした東ローマ帝国はギリシャの正統的な伝統を引き継いだが、元のギリシャに輪をかけて技術を低く見た。それ故、科学に関しては、発展はさせかなったものの、維持し、ギリシャの科学古典の写本もせっせと作ったが、技術的な発展はとうてい西ローマ帝国には及ばなかった。東ローマ帝国の文化遺産は、最終的にはイスラム・アラビア科学の苗床(セミナリウム)となった。
一方、西ローマ帝国はといえば、4,5世紀にかけて野蛮人に蹂躙されてからは、すっぱりと科学とは縁を切ってしまった。その後は、「ギリシャ、それ誰?」とギリシャ由来の文化全般に対して、実にそっけなく振る舞った。その後、8世紀にスペインが、ついでシチリアがイスラム・アラブに占領されると、あたかも蝶が蜜に誘われるように、ヨーロッパの文化人はこぞって華やかなイスラム文化にあこがれ、イスラム化されたギリシャ科学に興味を持つにいたった。しかし、その興味も一部の学者に止まり普遍性を持つまでには至らなかった。それというのも、萩原朔太郎ではないが「ぎりしあへ行きたしと思へども、ぎりしあはあまりに遠し」であったからだ。
ところが、オスマントルコがコンスタンチノープルを占領したおかげでギリシャ語がばりばりに出来る一流の学者が一挙にイタリアの北部、ベネチア、フィレンツェ、などに押しかけてきた。願ってもない幸運にめぐまれたイタリア人はこれで一挙に、ギリシャ語をマスターすることができた。それだけでなく、中央ヨーロッパはスペイン南部やシチリアとは経済的には縁遠かったが、これらのイタリア諸都市とはかなり頻繁に交易があったおかげで、ギリシャ語は西ヨーロッパには極めてすみやかに浸透した。
以上、ヨーロッパの科学史をかなり簡略化して述べたが、結局、ルネッサンス期にヨーロッパ人が科学に目覚めたのは、ギリシャ語が読める文化人が増えたのが大きな要因の一つであったことが分かる。(当然のことながら、これだけが科学が西欧に発展した唯一の原因でないことは言うまでもないことだ。)このように、言葉の持つ影響を知ると、漫然と大学入試のためや、TOEICの点数稼ぎのために英語をいやいやながら勉強していることがなんだか非常にもったなく思えてくるのではなかろうか?
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沂風詠録:(第223回目)『真夏のリベラルアーツ3回連続講演』(その11回から17回)
科学技術史を学ぶ、リベラルアーツの観点から言えば、複数の文化圏での科学史・技術史の比較が必要だ。というのも、世の中の事象では、人間系、社会系のもの、たとえば宗教、文学、言語などでは各地で異なるのは文化そのものと言えようが、自然現象、たとえば雨、滝、風、日光、などは世界中どこにでも同じように存在しているが、文化圏ごとにそれの利用形態が異なる。材料にしても、鉄、鉛、銅、金、銀、ケイ素、岩石、木なども多かれ少なかれどこにでも存在しているが、その利用の仕方が文化圏によって大きく異なる。つまり、同じ物に対して、非常に異なった考え方をするところに各文化圏の特徴がよく表れるといえる。
抽象論では分かりにくいので、具体的に「西欧はなぜルネッサンスになってから科学が伸展したのか?」を考えてみよう。
一切の説明や詳細は省略して、結果だけを述べると
「それは、ルネッサンスになってから西欧にギリシャ語を読める人が大幅に増加したから」
だと言える。なぜギリシャ語が読めると科学が発展するのか?それは、当時は科学文献(あるいは科学的記事)は、ほとんど全てギリシャ語で書かれていたからに他ならない。本質的に、言語ができる/できない、は科学だけでなく文化全般の受容に非常に大きな影響を与える。例えば、日本の状況を考えてみればすぐに分かるが、奈良時代、平安時代に中国文化が大量に移入できたのも、漢文が読める人がたくさん出たからに他ならない。また、江戸時代の蘭学の発展もオランダ語を熱心に学ぶ人が多くいたからに他ならない。(それにしては、 TOEICに代表される現在の英語の勉強している人が多い割には国際的に日本の評価が年々沈下しているのはどういうことか、考えてみる必要があろう。)
西欧では、古代ギリシャ・ローマにおいて、ギリシャは科学と技術の両面にまたがって非常に高度なレベルに達していた。ところが、ギリシャの軍事力が低下したのとは逆に、軍事力が強力になり、政治的にギリシャを引き継いだはずのローマは、実利的に長じた民族で、科学的な方面(彼らにとっては、「暇人のタワゴト」)には全くの無関心を貫き通した。ローマが東西に分裂してからは、コンスタンチノープルを首都とした東ローマ帝国はギリシャの正統的な伝統を引き継いだが、元のギリシャに輪をかけて技術を低く見た。それ故、科学に関しては、発展はさせかなったものの、維持し、ギリシャの科学古典の写本もせっせと作ったが、技術的な発展はとうてい西ローマ帝国には及ばなかった。東ローマ帝国の文化遺産は、最終的にはイスラム・アラビア科学の苗床(セミナリウム)となった。
一方、西ローマ帝国はといえば、4,5世紀にかけて野蛮人に蹂躙されてからは、すっぱりと科学とは縁を切ってしまった。その後は、「ギリシャ、それ誰?」とギリシャ由来の文化全般に対して、実にそっけなく振る舞った。その後、8世紀にスペインが、ついでシチリアがイスラム・アラブに占領されると、あたかも蝶が蜜に誘われるように、ヨーロッパの文化人はこぞって華やかなイスラム文化にあこがれ、イスラム化されたギリシャ科学に興味を持つにいたった。しかし、その興味も一部の学者に止まり普遍性を持つまでには至らなかった。それというのも、萩原朔太郎ではないが「ぎりしあへ行きたしと思へども、ぎりしあはあまりに遠し」であったからだ。
ところが、オスマントルコがコンスタンチノープルを占領したおかげでギリシャ語がばりばりに出来る一流の学者が一挙にイタリアの北部、ベネチア、フィレンツェ、などに押しかけてきた。願ってもない幸運にめぐまれたイタリア人はこれで一挙に、ギリシャ語をマスターすることができた。それだけでなく、中央ヨーロッパはスペイン南部やシチリアとは経済的には縁遠かったが、これらのイタリア諸都市とはかなり頻繁に交易があったおかげで、ギリシャ語は西ヨーロッパには極めてすみやかに浸透した。
以上、ヨーロッパの科学史をかなり簡略化して述べたが、結局、ルネッサンス期にヨーロッパ人が科学に目覚めたのは、ギリシャ語が読める文化人が増えたのが大きな要因の一つであったことが分かる。(当然のことながら、これだけが科学が西欧に発展した唯一の原因でないことは言うまでもないことだ。)このように、言葉の持つ影響を知ると、漫然と大学入試のためや、TOEICの点数稼ぎのために英語をいやいやながら勉強していることがなんだか非常にもったなく思えてくるのではなかろうか?