(前回)
【291.危懼 】P.4098、AD466年
『危懼』(きぐ)とは「悪いことがおこらないか、びくびくと恐れること」という意味。現在、「危懼」ではなく「危惧」と書くが「惧」は「懼」の異体字(俗字)であるので、漢文をこの字(危惧)で検索しても見つからない。「懼」とは辞海(1978年版)には「恐也」と説明するので、理論的には「危恐」という字もあることになる。ところが、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)を検索すると、「危懼」は150件以上も見つかるが、「危恐」はわずか4件しか見つからない。(しかもこの内、宋史の1件は、「憂危恐懼」なので、除外する必要がある。以前からもそうだが、私のこの統計表は、機械的な検索にひっかかった件数を示すので、大雑把な目安にしかならない。)
さて、資治通鑑で「危懼」が使われている場面を見てみよう。ローマのカリグラの向うを張る暴君振りを通した南朝・宋の劉子業もとうとう弑逆されてしまって、「豬王」(豚野郎)とあだ名された湘東王・劉彧が即位して明帝となった。
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この年、全国からの貢租(租税)は尋陽に集められて、朝廷に入ったのはわずか丹楊や淮南など、わずか数郡だけであった。他の地方は劉子勛に貢租を送ったりした。東からの軍隊はすでに永世県に到着したので、宮廷では危懼した。劉彧(明帝)は群臣を集めて、対策を協議した。蔡興宗がいうには「今、天下の人々はこぞって反乱しています。これを鎮めるには、じっと待つことです。人を信じ、至誠をもって待ちましょう。反乱している者の親族が宮廷にいますが、これらを捕えて投獄すれば、天下が大混乱し必ずや王朝が転覆してしまうでしょう。反乱者の親族の罪は問わない、と明言すれば皆安心するでしょう。安心すれば、反乱者を攻撃しようという気も湧いてくることでしょう。政府には精鋭部隊がいますし、鋭い兵器ありますので、反乱軍の雑兵どもを蹴散らすなど訳もないことです。陛下、どうかご安心なさってください。」 劉彧はこの言葉を聞いてほっとした。
是歳、四方貢計皆帰尋陽、朝廷所保、唯丹楊、淮南等数郡、其間諸県或応子勛、東兵已至永世、宮省危懼。上集群臣以謀成敗。蔡興宗曰:「今普天同叛、宜鎮之以静、至信待人。叛者親戚布在宮省、若縄之以法、則土崩立至、宜明罪不相及之義。物情既定、人有戦心、六軍精勇、器甲犀利、以待不習之兵、其勢相万耳。願陛下勿憂。」上善之。
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劉子業のでたらめぶりに世の中が混乱して、至るところで反乱が起こったが、流石に中国の政治家は戦乱慣れしている。蔡興宗の進言は、老子のいう「治大国如烹小鮮」(大国を治めるは小鮮を煮るがごとし)の極意そのものだ。
資治通鑑を通して言えるのは、難治の大国・中国を治めるにはどういうやり方がよいかというヒントが、そこかしこにちりばめられている。日本人は得てして正々堂々たる正攻法を好むが、そのようなやり方では中国はうまく治まらないことがよく分かる。この意味で、私は何度も述べているが
「『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして中国人を理解することも不可能である」
と強く感じている。
(続く。。。)
【291.危懼 】P.4098、AD466年
『危懼』(きぐ)とは「悪いことがおこらないか、びくびくと恐れること」という意味。現在、「危懼」ではなく「危惧」と書くが「惧」は「懼」の異体字(俗字)であるので、漢文をこの字(危惧)で検索しても見つからない。「懼」とは辞海(1978年版)には「恐也」と説明するので、理論的には「危恐」という字もあることになる。ところが、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)を検索すると、「危懼」は150件以上も見つかるが、「危恐」はわずか4件しか見つからない。(しかもこの内、宋史の1件は、「憂危恐懼」なので、除外する必要がある。以前からもそうだが、私のこの統計表は、機械的な検索にひっかかった件数を示すので、大雑把な目安にしかならない。)
さて、資治通鑑で「危懼」が使われている場面を見てみよう。ローマのカリグラの向うを張る暴君振りを通した南朝・宋の劉子業もとうとう弑逆されてしまって、「豬王」(豚野郎)とあだ名された湘東王・劉彧が即位して明帝となった。
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この年、全国からの貢租(租税)は尋陽に集められて、朝廷に入ったのはわずか丹楊や淮南など、わずか数郡だけであった。他の地方は劉子勛に貢租を送ったりした。東からの軍隊はすでに永世県に到着したので、宮廷では危懼した。劉彧(明帝)は群臣を集めて、対策を協議した。蔡興宗がいうには「今、天下の人々はこぞって反乱しています。これを鎮めるには、じっと待つことです。人を信じ、至誠をもって待ちましょう。反乱している者の親族が宮廷にいますが、これらを捕えて投獄すれば、天下が大混乱し必ずや王朝が転覆してしまうでしょう。反乱者の親族の罪は問わない、と明言すれば皆安心するでしょう。安心すれば、反乱者を攻撃しようという気も湧いてくることでしょう。政府には精鋭部隊がいますし、鋭い兵器ありますので、反乱軍の雑兵どもを蹴散らすなど訳もないことです。陛下、どうかご安心なさってください。」 劉彧はこの言葉を聞いてほっとした。
是歳、四方貢計皆帰尋陽、朝廷所保、唯丹楊、淮南等数郡、其間諸県或応子勛、東兵已至永世、宮省危懼。上集群臣以謀成敗。蔡興宗曰:「今普天同叛、宜鎮之以静、至信待人。叛者親戚布在宮省、若縄之以法、則土崩立至、宜明罪不相及之義。物情既定、人有戦心、六軍精勇、器甲犀利、以待不習之兵、其勢相万耳。願陛下勿憂。」上善之。
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劉子業のでたらめぶりに世の中が混乱して、至るところで反乱が起こったが、流石に中国の政治家は戦乱慣れしている。蔡興宗の進言は、老子のいう「治大国如烹小鮮」(大国を治めるは小鮮を煮るがごとし)の極意そのものだ。
資治通鑑を通して言えるのは、難治の大国・中国を治めるにはどういうやり方がよいかというヒントが、そこかしこにちりばめられている。日本人は得てして正々堂々たる正攻法を好むが、そのようなやり方では中国はうまく治まらないことがよく分かる。この意味で、私は何度も述べているが
「『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして中国人を理解することも不可能である」
と強く感じている。
(続く。。。)