限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第20回目)『中国四千年の策略大全(その 20)』

2023-01-01 10:29:36 | 日記
前回

「背水の陣」という故事成句は、韓信が弱兵を使って強敵を打ち破った時の戦略に由来する。川を背後にして、陣地を敷いたので、兵士たちは逃げ場が無いので、前から攻めてくる敵を倒すしか生きる道がないという絶対絶命の状況を追い込まれた。そういう状況をわざと作り出すことで、韓信は弱兵の力を十二分に発揮させ、誰も予想できなかった勝利をものにした。

韓信は、戦いに勝ったあとで、孫子の言葉《九地編》「これを亡地に投じてしかる後に存し、これを死地に陥れてしかる後に生く」(投之亡地然後存、陥之死地然後生)を引用して、自分の戦略はとっくの昔に言われていることだと解説した。「死地に陥れ」るとは、非情に徹しないとだめということだ。隋の楊素もこの故智にならい、兵士を過酷な状況に追い込んで戦に勝利したが、その戦法はおいそれと真似のできるものではない。

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 馮夢龍『智嚢』【巻11 / 471 / 楊素】(私訳・原文)

楊素が陳を攻撃しようとした時、兵士300人に陣営を守らせようとした。敵兵がすこぶる強いという噂を聞いていたので多くの兵士が前線に出るのを嫌がり、兵営の守備に残ることを希望した。楊素はそれを聞くや即座に残留希望の300人全員を斬り捨て、再度、残留者を募ったが、今度は誰一人として残留を希望する者はいなかった。前線に着くと、まず100人から200程度の兵士を敵に向かわせたが、敵陣を落とせずに戻っきた者の首をことごとく刎ねた。更に200人から300人の兵士を送ったが、勝てずに帰還したので同じく、全員の首を刎ねた。将兵は皆、処罰の恐ろしさに震えあがり、必死の思いで戦った。楊素はこれ以降、戦争で負けることは一度もなかった。

〔馮夢龍の評〕
楊素の処罰は過酷すぎると思えるかもしれないが、長年、だらけていた兵を統御するにはこの方法しか無かった。厳格な処罰が待っていると知ったなら、兵士は必死の思いで戦うものだ。平原での戦いでもあたかも背水の陣を敷くようなものだ。

楊素攻陳時、使軍士三百人守営。軍士憚北軍之強、多願守営。素聞之、即召所留三百人悉斬之、更令簡留、無願留者。又対陣時、先令一二百人赴敵、或不能陥陣而還者、悉斬之。更令二三百人復進、退亦如之。、将士股栗、有必死之心、以是戦無不克。

〔馮評〕
素用法似過峻、然以御積惰之兵、非此不能作其気。夫使法厳於上、而士知必死、雖置之散地、猶背水矣。
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現在進行形のロシアとウクライナの戦争を見ていても、当初ウクライナの東部4州が強制的にロシアに編入されてしまったが、それによって、ウクライナの反撃に国際世論が一斉に傾いた。穿った見方をすれば、この強制的編入がゼレンスキーにとって図らずもウクライナ軍を死地に陥れる戦略となった、と後知恵で言うことができる。



さて、現代の法治国家では、犯罪者を見つければ官憲に渡して、法律に従って処罰してもらうのが常識だ。この際には、暗黙の内に次の前提条件が成立すると考える。
1.法律は厳正に適用される。つまり、裁判は公正に行われる。
2.官憲は正義を貫く。つまり、こっそりと賄賂を受け取って犯罪者の罪を覆い隠したり、逃亡の手助けをしない。

しかし、このような社会正義が粛々と実行されるのは現在でも至って稀なケースといえよう。しばしば腕利きの弁護士の釈明に裁判官、陪審員、裁判員が知らず知らずの内になびくことも無きにしもあらずだ。昔は、適性な法の適用が今とは比較にならない位、期待できなかった。そのような時に、法になり替わって正義を貫くのが「強きを挫き、弱きを助く」という義侠心だ。

現在の中国では庶民の読み物のなかでは「任侠物」が絶大な人気であるという。これは中国社会において、適性な法の適用が歯がゆいまで少ないことの反映ではなかろうか。

次の話は、官憲に代わって義を顕わす義侠の話だが、中国的臭いのぷんぷんとする実に空恐ろしい話だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻11 / 478 / 張詠柳仲途】(私訳・原文)

柳仲途が科挙の受験のために都に登って行く途中の宿で、夜に婦人の泣き声を聞いた。泣き声の主は臨淮の知事の娘だった。知事は墨の熱心なコレクターで下僕に命じて人々から数多くの銘墨を献上させていた。しかし、任地を離れるに際して、下僕から墨の強制献上をネタに強請られて娘を取られてしまった。翌日、柳仲途は知事を訪問し、この下僕を一日借して欲しいと申し入れた。下僕が柳仲途の宿に来たので、酒とあてを買いにやらせた。夜になって下僕をよびつけて、強請(ゆすり)の件について問い詰め、匕首(あいくち)で首を刺して殺して、煮た。翌日になって、知事を宿舎に呼び、酒を酌み交わしながら「珍しい肉でも一緒に食べましょう」と誘った。散々、飲み食いをしたあとで、知事はお礼を言い、「ところで昨晩お貸しした下僕はどこに?」と尋ねると、柳仲途は「さっき、一緒に食った肉がそれです」と答えた。

柳仲途赴挙時、宿駅中、夜聞婦人哭声、乃臨淮令之女。令在任貪墨、委一僕主献納、及代還、為僕所持、逼娶其女。柳訪知之、明日謁令、仮此僕一日。僕至柳室、即令往市酒果。夜闌、呼僕叱問、即奮匕首殺而烹之。翌日、召令及同舎飲、云「共食衛肉」。飲散亟行、令追謝、問僕安在、曰:「適共食者是也。」
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この話に対して、馮夢龍は「智とも侠ともいえるが、まるで水滸伝の中のストーリーのようだ」(亦智亦侠、絶似《水滸伝》中奇事)とのコメントを付けている。

私の『本当に残酷な中国史 ― 大著「資治通鑑」を読み解く』には、資治通鑑に載せられている食人の話を取り上げた。読者の中には「冒頭から食人の話がでて、げんなりした」という感想を書いている人がいた。日本では食人といえば、究極の飢餓状態でも起こるか/起こらないか、という超非現実的な話なので、食人の話に対して全く免疫がなく、つい過剰反応してしまうのだろう。しかし、この話を読むと、中国の食人は水滸伝のようなフィクションの世界だけの話ではないということがよく分かるだろう。情緒的に囚われず、中国や中国人を客観的に見ることの重要性を知ってほしい。

続く。。。
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