限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第361回目)『可愛いネコがいつの間にか獰猛な虎に!』

2024-04-28 10:56:40 | 日記
私は現在までに、8冊の単著を出版した。テーマは全てリベラルアーツ、つまり「文化のコア」を掴むことを目的としている。ただ、最初の本『本当に残酷な中国史 ― 大著『資治通鑑』を読み解く』が処女作にもかかわらず、思いのほか好評で多く売れたため、私が昔から中国史に精通していて、漢文をすらすらと読み解いていたかのように思っている人もいるかもしれない。

しかし、すでにこのブログや著著のところどころに書いたように、高校時代、漢文は大の苦手で、返り点のつけ方の規則がまるでちんぷんかんぷんであった。その原因は、当時の(そして現在でも尚!)漢文の授業ではパズル式に、一、二、三、レ点、上、下、甲乙丙などを順を追って読むだけで、学生が自分で返り点をつける訓練はしない。今から思えば、漢字だけといっても漢文は、日本人にとっては立派な外国語である。そして外国語の修得の唯一の方法は、口と耳を駆使して音ベースで訓練することだ。音を無視して、視覚だけを頼りにパズル式に漢文を訓読しようとする方法はこの点では「労多くして、実り無し」と破綻している。



私が返り点の規則を習得して漢文を自由に読めるようになったのは、王陽明の文集を読んでいる時の偶然のできごとによる。王陽明は孟子の文章を頻繁に引用するが、私は、当時はまだ孟子をあまりよく覚えていなかったので、何度も本文を参照しなければいけなかった。それが面倒なので、本文参照の手間を省くために、耳から孟子を暗記することにした。驚いたことに数ヶ月、耳の訓練をすることで、返り点なしの漢文がすらすら読めるようになった。それに力を得て、「とうてい一生の間に読めはしないだろう」と積読状態にあった資治通鑑を実質1年で、カバートゥカバーで読了することができた。

資治通鑑の初めの巻は戦国策や史記とダブっている話なので、内容は熟知していた。そこを飛ばして、王莽が漢王朝を簒奪して新を建国する辺りから読み始めた。後漢建国にまつわる争乱が収まると中国は俄然、儒教一色に染められた。正直な話、この辺りまで私は所謂『漢文ファンタジー』的心情で資治通鑑を読んでいた。もっとも、この『漢文ファンタジー』的心情は、後に私自身が自著(『資治通鑑に学ぶリーダー論』(河出書房新社)や『中国四千年の策略大全』(ビジネス社)で厳しく糾弾したが、そ由来は資治通鑑を通読したことによる。

ところで、『資治通鑑』は司馬光をはじめとした北宋の儒者たちの書いた歴史書であるから、文学的にも人格形成の面においてもすぐれた書であるに違いないと当時の私は思いこんでいた。ところが、三国志の末期あたりから、西晋の八王の乱に至ると、それまでの読書では全く経験したことのない極めて衝撃的な光景が次から次へと現出してきた。『本当に残酷な中国史』にはこの情景を次のように表現した。。

「資治通鑑には、次々と発生する盗賊や軍閥の理不尽な寇掠と暴行、それに引き続いて起こる大飢饉、まさに広大な生き地獄の世界が際限なく描かれている。つかの間の平和も、官吏の底なしの苛斂誅求と宦官や悪徳官僚の桁違いの賄賂政治。どこを見ても、義などは存在しないように見える悖乱の世界、それが、文化栄えたる中華と言われた所なのだ。」

当時、兵庫県の外郭団体で働いていたので、週の5日は仕事に取られていたので、資治通鑑を読めるのは週末の2日だけであった。それで週末は、毎日10時間程度集中して、資治通鑑を読んだ。短期間に集中して読むと、事件の流れが記憶に残っているので、あたかも3DのIMAXシアターを見ているようだった。しかし、かなり多くの残酷な情景があり、一日の内にに何度も桁違いの残酷シーンに出会うたびに、一人「ひょえ~~!!」と叫び声を挙げていた。

「資治通鑑はなんというおそましき現実を書き残してくれたのだ!」

司馬光たちは、何ら躊躇することなく、中国社会の悲惨で残酷な情況を余すところなく剔出した。ここまで読んできて、私は「可愛いネコを飼っていたつもりが、がいつの間にか獰猛な虎に変身」したことに呆然とした。そこまで、私は中国は徳を重視する儒教が倫理観の柱だと思い込んでいた。これはまさに「漢文ファンタジー」そのもので、資治通鑑は私の甘っちょろい考えを完全に木っ端みじんに吹き飛ばしてくれた。それは、あたかも熱心なキリスト教者が急に無神論者(atheist)に転向したようなものだ。この落差はとても「眼からうろこが落ちる」どころの生半可なものではなく、眼に望遠と顕微鏡を兼ねた赤外線カメラに置き換わったようなものだ。森羅万象がこれ以上ないほど鮮明な画像となって見えてきた。そうなって、過去を振り返ってみると、「一体自分は何を勘違いしていたのか!」とあきれ果てた。

李朝の末期にスウェーデン人のジャーナリスト、アーソン・グレブストは朝鮮に渡り、李朝の実態を記述した『悲劇の朝鮮』を出版した。その中には、彼が実見した公開処刑の様子も隠すことなく詳細に描いた。処刑の記述が余りにも残酷で生々しいので出版後、非難が殺到したという。しかし、それに対しグレブストは李朝の残酷な一面を公表する意図を次のように説明した。

「ある者はこの世の明るい面だけを見ようとして片方の目を閉じたまま人生を送っていくかもしれないが、そんな人たちの抱く人生の理解は明るく美しいものであってもも、けっして正しいものではありえない」

私は、図らずも『資治通鑑』を読破することによって、ぼんやりと閉じていた片目を大きく見開かされた。その意味で私は生涯の内に『資治通鑑』を読むことができたことに感謝しつつも、アンビバレントの感情としては、資治通鑑を読まずに片目を閉じたまま送れたはずの無邪気さを永遠に喪失させられたことに、一抹の哀感も覚えている。ついで、言わずもがなのことをいえば、戦争や災害の実態を語り部として伝えようという活動は、日本でも数多い場面で見られるが、資治通鑑のような人類最高水準の描写力を知ってしまった後では、どうも素人の語り部の言葉では、残念ながら惻惻と胸に迫るものを感じられない。
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