『2.03 迎合する部下を見抜け』
私は、従来から漢文を学ぶのに、韓非子を読むことを勧めている。その理由は、沂風詠録:(第30回目)『漢文を読むときの注意点』でも述べたように、
【4】コンテンツではなくレトリック的な観点で読む
点にある。とりわけ、『説林・内儲説・外儲説』などには、説話が多く載せられている。そこには現在でも使われている『蛇足』『矛盾』のような有名な成句がある。しかし、それ以外には、『巧詐不如拙誠』(こうさは、せっせいにしかず)のような句もある。
この句が出来た経緯を説明しよう。
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韓非子:巻22・説林(上)
楽羊が魏の将軍となって中山を攻めた。中山の領主は、怒って捕えていた楽羊の子供を殺してスープを作って、楽羊に送った。楽羊は涙も見せずにそのスープを残さず食べた。魏の文侯が部下の堵師賛に『楽羊はすごいヤツだな。魏のためならわが子の肉ですら食べたのだから。』 堵師賛はそれに答えていった:『自分の子供ですら食べるのだから、他の誰でも食らうでしょう!』 楽羊が中山を攻め滅ぼして帰還した。文侯は楽羊の功績に対して褒美を与えたものの、要注意人物として遠ざけた。
昔、孟孫が狩りにいって小鹿を捕まえた。秦西巴に持ち帰らせたが、途中、その小鹿の母鹿がずっと後を追って鳴いた。秦西巴は忍び難くなって、小鹿を離した。孟孫が館に帰って秦西巴に小鹿を出すように言ったが、秦西巴は『余りに母鹿がかわいそうになって小鹿を離しました。』と答えた。これを聞いて、孟孫は大いに怒って、秦西巴を追い出した。それから三ヶ月が過ぎて、孟孫は子供の教育係として秦西巴を呼び戻した。孟孫の馬車の御者がその理由を尋ねた。孟孫が言った。『小鹿でも情をかけるのだから、私の子供であればなおさらのこと目をかけて教育してくれるであろう。』
以上のことから、『巧詐不如拙誠』(偽善はたとえうまくつくろっても、拙くとも真心をこめた行いには勝てない)。楽羊はせっかく大功があるのに敬遠され、秦西巴は罪を犯したにも拘らずますます信頼された。
樂羊爲魏將而攻中山,其子在中山,中山之君烹其子而遺之羹,樂羊坐於幕下而啜之,盡一杯,文侯謂堵師贊曰:『樂羊以我故而食其子之肉。』答曰:『其子而食之,且誰不食?』樂羊罷中山,文侯賞其功而疑其心。
孟孫獵得麑,使秦西巴持之歸,其母隨之而啼,秦西巴弗忍而與之,孟孫歸,至而求麑,答曰:『余弗忍而與其母。』孟孫大怒,逐之,居三月,復召以爲其子傅,其御曰:『曩將罪之,今召以爲子傅何也?』孟孫曰:『夫不忍麑,又且忍吾子乎?』
故曰:『巧詐不如拙誠。』樂羊以有功見疑,秦西巴以有罪益信。
楽羊、魏の将たりて中山を攻む。その子、中山にあり。中山の君、その子を烹て、これに羹を遺れり。楽羊、幕下に座し、これを啜って,一杯を尽くせり。文侯、堵師賛に謂いて曰く:『楽羊、我の故をもってその子の肉を食らえり。』答えて曰く:『その子すら食う,はた誰か食らわざらんや?』楽羊、中山を罷む,文侯、その功を賞すもその心を疑えり。
孟孫、猟りして麑を得たり。秦西巴(しんせいは)をしてこれを持たしめ帰る。その母、随いて啼く。秦西巴、忍ぶなくしてこれを与う。孟孫、帰り至りて麑を求む。答えて曰く:『余、忍ぶなくしてその母に与う。』孟孫、大いに怒り,これを逐う。居ること三月,また召してその子の傅となさんとす。その御、曰く:『先には、まさに罪せんとし,今、召して子の傅となさんとするは何ぞや?』孟孫、曰く:『それ、麑に忍ばず。またはた吾が子を忍ばんや?』
故に曰く:『巧詐不如拙誠』(こうさは、せっせいにしかず。)楽羊は功あるをもって疑われ、秦西巴は罪あるをもって、ますます信ぜらる。
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楽羊は魏の為に、自分の子供が中山に捕虜となっているのを知りつつ中山を攻めた。そして、案の定、子供は殺されたが、その悲しみに輪をかけるように、子供を煮たスープが送られてきた。それを見た楽羊は心が張り裂ける思いがしたに違いないが、無表情のままそのスープを残らず食べた。その行いが世人には、非人情(巧詐・巧偽)だと映った。それで、大功があるにも拘らず、評価されなくなった。一方の秦西巴は母鹿の哀れな鳴き声に負けて領主の捕えた小鹿を離したが、その行いが人情味あると好感をもたれた、という内容である。
【出典】National Geographic
世の中では、韓非子は荀子の系統で『性悪説』を唱える冷酷な法律至上主義者と思われているが、私はこのようなステレオタイプの見方は正しくないと考える。韓非子がここで指摘したかったのは、人の統率における理念と情念の使い分けの難しさである。韓非子が考えるに、人間は本来的に自己本位である。いくら理念的に正しいことだと頭で分かっていても、情念に負けてしまうのが人間だ。そういった人間の集団を統御するには、理性に頼ってだめで、情念を上回る強制力が必要だということだ。それが厳格な法体系の整備であり、厳正な法(賞罰)の執行である。
韓非子の本音を理解すると、『巧詐不如拙誠』はまた違った意味を持って見えてくる。韓非子が言いたかったのは、『楽羊が非人情と誤解されたのは可哀想だ。人情味ある秦西巴は高く評価された』という点ではなく、世の中を正すために彼が考えた『法治思想を阻むのは、まさに世人の人情そのものだ』という点であった、と私には思える。
しかし、こういった韓非子の真意とは関係なく、『巧詐不如拙誠』の成句はそれ自体の意味を携えて使われることとなった。例えば、三国志に登場する魏の劉曄の言動がこの句で評された。劉曄は『膽識過人』(たんしき、ひとにすぐ)と言われたが、その子供のころのエピソードを三国志に見てみよう。
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三国志(中華書局):巻14(P.442)
劉曄の父を劉普という。母は劉脩といい、渙と曄の二人を生んだ。渙が九歳、曄が七歳の時、母が病気になった。臨終に際して、母は、渙と曄の二人にこういった。「お父様には性悪の家来がいる。私が死んでからきっと騒動を起こすに違いない。お前たちが大人になったら、この人を殺しておくれ。そうすれば私も安心だ。」曄が13歳になった時に、兄の渙にいった。「亡母の言葉を実行しようよ。」渙は「お前、本気か?」と言った。曄は、直ちに部屋にいた家来を殺した後、母の墓に詣でた。家の中は大騒ぎになり、父の普も聞き、大いに怒った。そして、人をやって曄を追わせた。曄が戻ってきて言うには、「これは、亡き母の遺言です。父の許諾を得ず行った罰は受ける積りでいます。」普は曄をただ人ではないと思い、不問にした。
父普,母脩,産渙及曄。渙九歳,曄七歳,而母病困。臨終,戒渙、曄以「普之侍人,有諂害之性。身死之後,懼必亂家。汝長大能除之,則吾無恨矣。」曄年十三,謂兄渙曰:「亡母之言,可以行矣。」渙曰:「那可爾!」曄即入室殺侍者,徑出拜墓。舍内大駕,白普・普怒,遣人追曄。曄還拜謝曰:「亡母顧命之言,敢受不請擅行之罰。」普心異之,遂不責也。
父は普,母は脩。渙、及び曄を産む。渙、九歳,曄、七歳にして母、病困す。臨終に渙、曄を戒めるに「普の侍人、諂害の性あり。身、死して後,懼らくは必ず家を乱さん。汝、長大して能くこれを除かば,則ち吾が恨なけん。」曄、年十三,兄の渙に謂いて曰く:「亡母の言,もって行うべし。」渙、曰く:「なんぞ可ならん、なんじは!」曄、即ち室に入り、侍者を殺す。径を出で、墓を拝す。舎内、大いに駕き,普に申す。普、怒り,人を遣り曄を追わす。曄、還りて拝して、謝して曰く:「亡母の顧命の言,擅行を請わざるの罰を敢えて受けん。」普、心にこれを異とし、遂に責めざるなり。
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母の遺言とは言え、劉曄は13歳で殺人を犯した。『膽識過人』の評、つまり度胸があり、果断な行動力があった、がぴったり当てはまる。
劉曄はその後、曹操、曹丕の二代の王に参謀として仕え、重んじられた。魏の三代目の皇帝である明帝(曹叡)の時に、蜀を討つかどうかで、明帝と家臣の意見が分かれた。明帝は蜀は討つべしと考え、家臣は不可と考えた。劉曄は明帝に会っている時には、明帝に同調するが、家臣と議論する時は、家臣の意見に同調するという、二枚舌を使った。そしてウソがばれると開き直って、『敵国のスパイを攪乱するためにわざと言ったまでだ。所かまわず本心をさらけだす、あなた達こそ反省しなさい。』と明帝や家臣達を逆に威圧するありさまだった。
しかし、劉曄の裏表のある性格が暴かれる時が来た。
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資治通鑑(中華書局):巻72・魏紀4(P.2278)
ある人が明帝に入れ知恵をした:「劉曄には忠義が感じられません。ただ、帝の言うところを察して、相槌をうっているだけです。試に、わざと思っている事の反対を言ってみてください。もしそれに同意するようなら、劉曄はいつも帝の意向に合わせようとしていることになります。何回尋ねても同じ答えなら、劉曄が偽りの発言を押し通していることになるでしょう。」明帝は、言われた通りにしたが、思ったとおり、劉曄は帝の意に迎合した発言をすることが分かった。これ以降、明帝は劉曄を疎んずるようになった。劉曄はついに発狂して死んだ。
或謂帝曰:「曄不盡忠,善伺上意所趨而合之。陛下試與曄言,皆反意而問之,若皆與所問反者,是曄常與聖意合也。毎問皆同者,曄之情必無所復逃矣。」帝如言以驗之,果得其情,從此疏焉。曄遂發狂,出爲大鴻臚,以憂死。
或るひと、帝に謂いて曰く:「曄、忠を尽さず。善く、上意の趨くところを伺いこれに合す。陛下、試みに曄と言うに,皆、意に反してこれに問え。もし、皆、問う所と反するは、これ曄、常に聖意と合わすなり。毎、問うに皆、同じくば曄の情、必ずまた逃るところなし。」帝、言の如くし、もってこれを験す。果してその情を得たり。これより、疏ず。曄、遂に発狂す,出でて大鴻臚となり、もって憂死す。
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戦国策に『騏驥の盛壮なる時、一日に千里を馳すも、その衰うに至るや、駑馬、これに先んず』(騏驥盛壯之時、一日而馳千里。至其衰也,駑馬先之)という言葉がある。どのような俊足の名馬も年をとると、駄馬にも勝てなくなるというのだ。少年期から『膽識過人』と評された劉曄も老年期に入って、その大胆さを失ってしまったようだ。世の中となるべく摩擦を起こさず、やり過ごそうと考えたのか、風見鶏的な態度を取るようになった。結局そういった態度に疑念をもたれて、お役御免となってしまった。
資治通鑑には、この話の総括として晋の傅玄(傅子)の言葉が載せられている。
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資治通鑑(中華書局):巻72・魏紀4(P.2279)
傅子に、『巧詐不如拙誠』とあるが、誠にその通りだ。劉曄には、溢れるほどの『明智と権計』があったが、これに加えて徳義と忠信があったなら、歴史上の名賢たちにも引けをとらなかったであろう。自分の才智を過信し、誠実さを欠いた言動で、帝からは見放され、世間からは排撃され、終には気が狂ってしまった。誠に惜しいことだ。
傅子曰:巧詐不如拙誠,信矣!以曄之明智權計,若居之以徳義,行之以忠信,古之上賢,何以加諸!獨任才智,不敦誠愨,内失君心,外困於俗,卒以自危,豈不惜哉!
傅子、曰く:巧詐は拙誠にしかず。信なるかな!曄の明智と権計をもって,もし居るに徳義をもってし、行うに忠信をもってすれば,古の上賢といえども,何をもってこれに加えんや!ひとり才智に任じ,誠愨にあつからず。内に君心を失い,外に俗に困す。ついに、もって自ら危うし。あに惜しからずや!
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詩経に『初めあらざることなし、よく終りあることすくなし』(靡不有初、鮮克有終)という言葉があり、易経に『狐、水をわたるに、その尾をぬらす』(狐渉水、濡其尾)という言葉がある。どちらも終わりが難しいということだ。劉曄の言動が、この『晩節を汚す』と言うに該当するであろう。
(目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』)
私は、従来から漢文を学ぶのに、韓非子を読むことを勧めている。その理由は、沂風詠録:(第30回目)『漢文を読むときの注意点』でも述べたように、
【4】コンテンツではなくレトリック的な観点で読む
点にある。とりわけ、『説林・内儲説・外儲説』などには、説話が多く載せられている。そこには現在でも使われている『蛇足』『矛盾』のような有名な成句がある。しかし、それ以外には、『巧詐不如拙誠』(こうさは、せっせいにしかず)のような句もある。
この句が出来た経緯を説明しよう。
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韓非子:巻22・説林(上)
楽羊が魏の将軍となって中山を攻めた。中山の領主は、怒って捕えていた楽羊の子供を殺してスープを作って、楽羊に送った。楽羊は涙も見せずにそのスープを残さず食べた。魏の文侯が部下の堵師賛に『楽羊はすごいヤツだな。魏のためならわが子の肉ですら食べたのだから。』 堵師賛はそれに答えていった:『自分の子供ですら食べるのだから、他の誰でも食らうでしょう!』 楽羊が中山を攻め滅ぼして帰還した。文侯は楽羊の功績に対して褒美を与えたものの、要注意人物として遠ざけた。
昔、孟孫が狩りにいって小鹿を捕まえた。秦西巴に持ち帰らせたが、途中、その小鹿の母鹿がずっと後を追って鳴いた。秦西巴は忍び難くなって、小鹿を離した。孟孫が館に帰って秦西巴に小鹿を出すように言ったが、秦西巴は『余りに母鹿がかわいそうになって小鹿を離しました。』と答えた。これを聞いて、孟孫は大いに怒って、秦西巴を追い出した。それから三ヶ月が過ぎて、孟孫は子供の教育係として秦西巴を呼び戻した。孟孫の馬車の御者がその理由を尋ねた。孟孫が言った。『小鹿でも情をかけるのだから、私の子供であればなおさらのこと目をかけて教育してくれるであろう。』
以上のことから、『巧詐不如拙誠』(偽善はたとえうまくつくろっても、拙くとも真心をこめた行いには勝てない)。楽羊はせっかく大功があるのに敬遠され、秦西巴は罪を犯したにも拘らずますます信頼された。
樂羊爲魏將而攻中山,其子在中山,中山之君烹其子而遺之羹,樂羊坐於幕下而啜之,盡一杯,文侯謂堵師贊曰:『樂羊以我故而食其子之肉。』答曰:『其子而食之,且誰不食?』樂羊罷中山,文侯賞其功而疑其心。
孟孫獵得麑,使秦西巴持之歸,其母隨之而啼,秦西巴弗忍而與之,孟孫歸,至而求麑,答曰:『余弗忍而與其母。』孟孫大怒,逐之,居三月,復召以爲其子傅,其御曰:『曩將罪之,今召以爲子傅何也?』孟孫曰:『夫不忍麑,又且忍吾子乎?』
故曰:『巧詐不如拙誠。』樂羊以有功見疑,秦西巴以有罪益信。
楽羊、魏の将たりて中山を攻む。その子、中山にあり。中山の君、その子を烹て、これに羹を遺れり。楽羊、幕下に座し、これを啜って,一杯を尽くせり。文侯、堵師賛に謂いて曰く:『楽羊、我の故をもってその子の肉を食らえり。』答えて曰く:『その子すら食う,はた誰か食らわざらんや?』楽羊、中山を罷む,文侯、その功を賞すもその心を疑えり。
孟孫、猟りして麑を得たり。秦西巴(しんせいは)をしてこれを持たしめ帰る。その母、随いて啼く。秦西巴、忍ぶなくしてこれを与う。孟孫、帰り至りて麑を求む。答えて曰く:『余、忍ぶなくしてその母に与う。』孟孫、大いに怒り,これを逐う。居ること三月,また召してその子の傅となさんとす。その御、曰く:『先には、まさに罪せんとし,今、召して子の傅となさんとするは何ぞや?』孟孫、曰く:『それ、麑に忍ばず。またはた吾が子を忍ばんや?』
故に曰く:『巧詐不如拙誠』(こうさは、せっせいにしかず。)楽羊は功あるをもって疑われ、秦西巴は罪あるをもって、ますます信ぜらる。
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楽羊は魏の為に、自分の子供が中山に捕虜となっているのを知りつつ中山を攻めた。そして、案の定、子供は殺されたが、その悲しみに輪をかけるように、子供を煮たスープが送られてきた。それを見た楽羊は心が張り裂ける思いがしたに違いないが、無表情のままそのスープを残らず食べた。その行いが世人には、非人情(巧詐・巧偽)だと映った。それで、大功があるにも拘らず、評価されなくなった。一方の秦西巴は母鹿の哀れな鳴き声に負けて領主の捕えた小鹿を離したが、その行いが人情味あると好感をもたれた、という内容である。
【出典】National Geographic
世の中では、韓非子は荀子の系統で『性悪説』を唱える冷酷な法律至上主義者と思われているが、私はこのようなステレオタイプの見方は正しくないと考える。韓非子がここで指摘したかったのは、人の統率における理念と情念の使い分けの難しさである。韓非子が考えるに、人間は本来的に自己本位である。いくら理念的に正しいことだと頭で分かっていても、情念に負けてしまうのが人間だ。そういった人間の集団を統御するには、理性に頼ってだめで、情念を上回る強制力が必要だということだ。それが厳格な法体系の整備であり、厳正な法(賞罰)の執行である。
韓非子の本音を理解すると、『巧詐不如拙誠』はまた違った意味を持って見えてくる。韓非子が言いたかったのは、『楽羊が非人情と誤解されたのは可哀想だ。人情味ある秦西巴は高く評価された』という点ではなく、世の中を正すために彼が考えた『法治思想を阻むのは、まさに世人の人情そのものだ』という点であった、と私には思える。
しかし、こういった韓非子の真意とは関係なく、『巧詐不如拙誠』の成句はそれ自体の意味を携えて使われることとなった。例えば、三国志に登場する魏の劉曄の言動がこの句で評された。劉曄は『膽識過人』(たんしき、ひとにすぐ)と言われたが、その子供のころのエピソードを三国志に見てみよう。
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三国志(中華書局):巻14(P.442)
劉曄の父を劉普という。母は劉脩といい、渙と曄の二人を生んだ。渙が九歳、曄が七歳の時、母が病気になった。臨終に際して、母は、渙と曄の二人にこういった。「お父様には性悪の家来がいる。私が死んでからきっと騒動を起こすに違いない。お前たちが大人になったら、この人を殺しておくれ。そうすれば私も安心だ。」曄が13歳になった時に、兄の渙にいった。「亡母の言葉を実行しようよ。」渙は「お前、本気か?」と言った。曄は、直ちに部屋にいた家来を殺した後、母の墓に詣でた。家の中は大騒ぎになり、父の普も聞き、大いに怒った。そして、人をやって曄を追わせた。曄が戻ってきて言うには、「これは、亡き母の遺言です。父の許諾を得ず行った罰は受ける積りでいます。」普は曄をただ人ではないと思い、不問にした。
父普,母脩,産渙及曄。渙九歳,曄七歳,而母病困。臨終,戒渙、曄以「普之侍人,有諂害之性。身死之後,懼必亂家。汝長大能除之,則吾無恨矣。」曄年十三,謂兄渙曰:「亡母之言,可以行矣。」渙曰:「那可爾!」曄即入室殺侍者,徑出拜墓。舍内大駕,白普・普怒,遣人追曄。曄還拜謝曰:「亡母顧命之言,敢受不請擅行之罰。」普心異之,遂不責也。
父は普,母は脩。渙、及び曄を産む。渙、九歳,曄、七歳にして母、病困す。臨終に渙、曄を戒めるに「普の侍人、諂害の性あり。身、死して後,懼らくは必ず家を乱さん。汝、長大して能くこれを除かば,則ち吾が恨なけん。」曄、年十三,兄の渙に謂いて曰く:「亡母の言,もって行うべし。」渙、曰く:「なんぞ可ならん、なんじは!」曄、即ち室に入り、侍者を殺す。径を出で、墓を拝す。舎内、大いに駕き,普に申す。普、怒り,人を遣り曄を追わす。曄、還りて拝して、謝して曰く:「亡母の顧命の言,擅行を請わざるの罰を敢えて受けん。」普、心にこれを異とし、遂に責めざるなり。
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母の遺言とは言え、劉曄は13歳で殺人を犯した。『膽識過人』の評、つまり度胸があり、果断な行動力があった、がぴったり当てはまる。
劉曄はその後、曹操、曹丕の二代の王に参謀として仕え、重んじられた。魏の三代目の皇帝である明帝(曹叡)の時に、蜀を討つかどうかで、明帝と家臣の意見が分かれた。明帝は蜀は討つべしと考え、家臣は不可と考えた。劉曄は明帝に会っている時には、明帝に同調するが、家臣と議論する時は、家臣の意見に同調するという、二枚舌を使った。そしてウソがばれると開き直って、『敵国のスパイを攪乱するためにわざと言ったまでだ。所かまわず本心をさらけだす、あなた達こそ反省しなさい。』と明帝や家臣達を逆に威圧するありさまだった。
しかし、劉曄の裏表のある性格が暴かれる時が来た。
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資治通鑑(中華書局):巻72・魏紀4(P.2278)
ある人が明帝に入れ知恵をした:「劉曄には忠義が感じられません。ただ、帝の言うところを察して、相槌をうっているだけです。試に、わざと思っている事の反対を言ってみてください。もしそれに同意するようなら、劉曄はいつも帝の意向に合わせようとしていることになります。何回尋ねても同じ答えなら、劉曄が偽りの発言を押し通していることになるでしょう。」明帝は、言われた通りにしたが、思ったとおり、劉曄は帝の意に迎合した発言をすることが分かった。これ以降、明帝は劉曄を疎んずるようになった。劉曄はついに発狂して死んだ。
或謂帝曰:「曄不盡忠,善伺上意所趨而合之。陛下試與曄言,皆反意而問之,若皆與所問反者,是曄常與聖意合也。毎問皆同者,曄之情必無所復逃矣。」帝如言以驗之,果得其情,從此疏焉。曄遂發狂,出爲大鴻臚,以憂死。
或るひと、帝に謂いて曰く:「曄、忠を尽さず。善く、上意の趨くところを伺いこれに合す。陛下、試みに曄と言うに,皆、意に反してこれに問え。もし、皆、問う所と反するは、これ曄、常に聖意と合わすなり。毎、問うに皆、同じくば曄の情、必ずまた逃るところなし。」帝、言の如くし、もってこれを験す。果してその情を得たり。これより、疏ず。曄、遂に発狂す,出でて大鴻臚となり、もって憂死す。
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戦国策に『騏驥の盛壮なる時、一日に千里を馳すも、その衰うに至るや、駑馬、これに先んず』(騏驥盛壯之時、一日而馳千里。至其衰也,駑馬先之)という言葉がある。どのような俊足の名馬も年をとると、駄馬にも勝てなくなるというのだ。少年期から『膽識過人』と評された劉曄も老年期に入って、その大胆さを失ってしまったようだ。世の中となるべく摩擦を起こさず、やり過ごそうと考えたのか、風見鶏的な態度を取るようになった。結局そういった態度に疑念をもたれて、お役御免となってしまった。
資治通鑑には、この話の総括として晋の傅玄(傅子)の言葉が載せられている。
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資治通鑑(中華書局):巻72・魏紀4(P.2279)
傅子に、『巧詐不如拙誠』とあるが、誠にその通りだ。劉曄には、溢れるほどの『明智と権計』があったが、これに加えて徳義と忠信があったなら、歴史上の名賢たちにも引けをとらなかったであろう。自分の才智を過信し、誠実さを欠いた言動で、帝からは見放され、世間からは排撃され、終には気が狂ってしまった。誠に惜しいことだ。
傅子曰:巧詐不如拙誠,信矣!以曄之明智權計,若居之以徳義,行之以忠信,古之上賢,何以加諸!獨任才智,不敦誠愨,内失君心,外困於俗,卒以自危,豈不惜哉!
傅子、曰く:巧詐は拙誠にしかず。信なるかな!曄の明智と権計をもって,もし居るに徳義をもってし、行うに忠信をもってすれば,古の上賢といえども,何をもってこれに加えんや!ひとり才智に任じ,誠愨にあつからず。内に君心を失い,外に俗に困す。ついに、もって自ら危うし。あに惜しからずや!
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詩経に『初めあらざることなし、よく終りあることすくなし』(靡不有初、鮮克有終)という言葉があり、易経に『狐、水をわたるに、その尾をぬらす』(狐渉水、濡其尾)という言葉がある。どちらも終わりが難しいということだ。劉曄の言動が、この『晩節を汚す』と言うに該当するであろう。
(目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』)