限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第181回目)『リベラルアーツは保険(追記)』

2012-09-30 21:15:53 | 日記
来月(2012年10月13日)に東京で、
 『第7回リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム』
を開催する。この席での私は『リベラルアーツとしての哲学』というテーマで話しをする予定である。話の内容は先日のブログに書いたとおり、私が学生時代から読み、多大な影響をうけた古代ギリシャと古代中国の哲学者たちについてである。

当日の話の内容は既にまとめてあるのだが、念のために古代ギリシャの哲学者の学説や伝記をまとめたディオゲネス・ラエルティオの『ギリシャ哲学者列伝』を読み返した。
これは日本語では加来彰俊氏の訳で岩波文庫から3冊本として出版されている。また英語とギリシャ語の対訳本では、Loeb Classical Library から2冊本で出ている。ドイツ語ではレクラム文庫にも収められている。今回は時間の関係で、岩波文庫の日本語訳を読みながら、ところどころで、Loeb のギリシャ語の単語をチェックしながら読んだ。またレクラムも都度参照した。

さて、先日のブログ
 沂風詠録:(第176回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その7)』
でも書いたように、外国語で原典を読むと『我々の知らない単語や概念に数多くでくわす。』
その例をこの本から2つばかり挙げてみたい。

【1】おなら
第6章(6-94)にメトロクレスが弁論の練習をしている最中におならをしてしまって、すっかりしょげて、家に閉じこもってしまった、という件(くだり)がある。


この部分を Loeb と Reclam ではそれぞれ次のように訳している。
Loeb:... when he made a breach of good manners in the course of reharsing a speech, it drove him to despair, and he shut himself up at home, ...
Reclam: ..., als er einst während einer Schulübung einen Furz fahren ließ, sich aus Verzweiflung zu Hause einschloß, ...

つまり、英訳では『オナラをした』と言うのを婉曲的に "made a breach of good manners "(良俗に反した)と訳しているのだ。というのは、このLoebの英訳は今からほぼ百年前の1925年の訳であるので、当時、英語では、オナラ(fart)という単語があまりにも卑猥語で出版禁止用語的な取扱いを受けていたことが分かる。現在でも、その意識はあるようで、OED(Oxford English Dictionary)においては "fart -- A breaking wind. (Not in decent use.)"と記されている。

一方、同じゲルマン語であるドイツ語のReclamで使われている Furzという単語も Wahrig Deutsches Wörterbuch では"Furz -- abgehende Blähung. (vulgär)"と説明されていて、英語と同じく卑猥語とみなされていることが分かる。

そもそも、元のギリシャ語では、このオナラをする(屁をひる)というのはαποπαρδωνという形(現在分詞)で出ているが、 Liddell & Scott のギリシャ語辞典には動詞の原形はなく、αποπαρδαξという単語しか載っていない。それもラテン語で "qui crepitum ventiris emittit"(腹からごろごろという音を出す人)と説明されているだけである。

以上のことから、ヨーロッパ文化圏では、オナラというのは単語だけでなく行為そのものも非常に下品だと見なされていることが分かる。(要注意ですぞ!)

【2】男色(?)

第7巻(7-172)に、ある美形の若者が『腹をさすっている人は、満腹しているのだとすれば、両股をさすっている人は股のあたりがうずうずしているのだ』と言ったのにたいして、クレアンテスは『若者よ、それなら君は、股のあたりをうずうずさせておくんだね。似せて作った言葉が必ずしも似た意味をもつとはかぎらないのだよ』と言い返した、という件(くだり)がある。


この部分を Loeb と Reclam ではそれぞれ次のように訳している。
Loeb:... cum adulescens quidam formosus dixisset, Si pulsans ventrem ventrizat, pulsans coxas coxizat,dixisse, Tibi habeas, adulescens, coxizationes: nempevocabula quae conveniunt analogia non semper etiam significatione conveniunt.
Reclam: ..., ein schöner junger Mann habe bemerkt; "Wenn, wer sich auf den Bauch bumst, Bauchbumserei betreibt, dann betriebt Schenkelbumserei, wer auf die Schenkel bumst", worauf Kleanthes sagte, "Laß deine Schenkelbumsereien,mein Lieber, denn die gleichen Worte bezeichnen nicht immer die gleichen Dinge."

驚いたことに、Loebでは、この部分には英語の訳がなくラテン語で訳されている。つまり、余りにも卑猥過ぎて訳せないのだ。 ReclamではSchenkelbumsereieという単語(多分筆者の造語)を用いて卑猥さを感じさせずに(?)どうやら切り抜けている。もっとも、この部分は、"obszöne Anspielung"(卑猥な暗示)と注記されている。加来氏の日本語訳はなんとなく曖昧模糊としていて内容の理解に苦しむ。

私の個人的な解釈では、ドイツ語の Bauchbumserei と Schenkelbumserei の対比から、この部分は男色(陰間)を指しているものと思われる。そうすると男色が殺人と同程度の極悪罪と見なされていた時代背景なので、 Loeb では英訳できなかったのだと納得できる。

さて、まくらが長くなったが、先日のブログ
 沂風詠録:(第175回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その6)』
で、『リベラルアーツは、まさかの時に備える保険のようなもの』だという理由を下記のように説明した。

 =================================
 リベラルアーツで学ぶ内容は、別に普段の仕事に直結するわけでもないし、資格試験のように勉強したからといって給料の上がる可能性がある訳でもない。さらに具合の悪いことに、どれぐらい理解したかを測る目安となるテストもないので、自分はいったいどの程度進歩したのだろうか、また、あとどれぐらいすればよいのだろうか、が皆目分からない。まるで大海を小さいボートで漂っているような心境に陥る。その上、学んだことがいつ、どのような状況で、どう役立つのかも分からない。このような不安の状態が続くのがリベラルアーツの学習である。しかし、人生のいつかの段階でリベラルアーツを必要とする時がくるが、事故を起こしてから自動車保険に加入をしたいと思っても手遅れなのと同様、リベラルアーツを必要とする場面に遭遇してからリベラルアーツの知識を得たいと思ってももう遅いのだ。
 =================================

これに関してこの『ギリシャ哲学者列伝』の巻5(5-19)にアリストテレスが言った次の言葉が見える。
 『教養は、順境にあっては飾りであり、逆境にあっては避難所である。』


この部分を Loeb と Reclam ではそれぞれ次のように訳している。
Loeb:He used to declare education to be an ornament in prosperity and a refuge in adversity.
Reclam: sagt er: "Bildung galt ihm als schmuck im Glück, im Unglück aber als Zuflucht."

インターネットで調べると、これは英語ではかなり有名な成句となっていて、大抵は次の形で表れている。
 Education is an ornament in prosperity and a refuge in adversity.
ただ、不思議なことに、どのサイトを見てもこの成句の出典が Aristotle としか出ていなく、どの本か分からない。

しかし、何はともあれ私の主張する『リベラルアーツは、まさかの時に備える保険のようなもの』というのは、アリストテレスの言葉と比較すると何とも垢抜けしていない感は否めないものの、その意味するところは同じである。
本論はこのことを言いたかったにすぎない。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする