限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第85回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その20)』

2012-09-13 19:27:40 | 日記
 『2.02  浮華より篤実な部下を評価せよ。』

前回は儒将・裴行倹の大度について述べたが、今回は彼の別の面について述べたい。

旧唐書の第84巻に裴行倹の伝があるが、そこには彼の書の腕前が名人級であったことが述べられている。

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旧唐書(中華書局):巻84(P.2802)

唐の第三代皇帝の高宗は裴行倹の草書の腕前をほめ、絹布を100ロール(巻)を与え、文選の全文を草書で書くよう命じたことがあった。その優れた出来栄えに対し、布を 500段(幅30cm x 長さ5000m)褒美として与えた。裴行倹は書の名手、褚遂良を評してこう言っていた。『褚遂良は良い筆と墨がなければ、書こうとはしなかった。筆や墨にこだわらず、さっと見事に書けるのは私と虞世南ぐらいなものだ。』

高宗以行儉工於草書,嘗以絹素百卷,令行儉草書文選一部,帝覽之稱善,賜帛五百段。行儉嘗謂人曰:「褚遂良非精筆佳墨,未嘗輒書。不擇筆墨而妍捷者,唯余及虞世南耳。」

高宗、行倹をもって草書に巧みとなす。嘗て、絹素、百巻をもって,行倹に草書・文選を一部、書かしむ。帝、これを覧て善しと称し、帛五百段を賜う。行倹、嘗て人に謂いて曰く:「褚遂良、精筆と佳墨にあらざれば、いまだ嘗てすなわち書せず。筆墨をえらばずして妍捷なるは、ただ余、および虞世南のみ。」
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 【出典】倪寛賛

裴行倹は書の他に、占い(陰陽の術)や暦学にも造詣が深かった。その上、予知能力もあったようで、戦争の時はいつも勝利する日を予言したが、いつもその通りになったと言われている。(新唐書・巻108:行儉通陰陽、暦術,毎戰,豫道勝日)しかし、何と言っても裴行倹がリーダーとして優れていたのは人の価値を一目で見抜く眼力であろう。

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資治通鑑(中華書局):巻203・唐紀19(P.6408)

裴行倹は人の器を見抜く力があった。その昔、吏部侍郎(文部次官)になった時、部下に前進士の王劇や鹹陽尉欒城の蘇味道がいたが、まだ無名であった。裴行倹はこの二人を一見するや、こういった「君たちは将来、相次いで人事部長になるだろう。私には幼い息子がいるが、どうぞよろしく頼む。」

この時、若手で、名文で有名な4人がいた:王勃(王劇の弟)、華陰の楊炯、范陽の盧照隣、義烏の駱賓王。司列少常伯の李敬玄はこの4人を高く評価し、この若者たちは必ず高位に昇ると思っていた。裴行倹はそれに対して言った。「出世する士の条件は、一番目は器識で、文才は二の次だ。王勃たちは名文を書くと言っても、ちゃらちゃらとして軽薄だ。とうてい爵位を受ける器ではない。楊炯はやや落ち着いているので令長(県知事)程度にはなれるであろう。しかし、他の3人は碌な死に方をしない。」

果たして、王勃は渡海の最中に水死したし、楊炯は盈川の令(知事)になった。盧照隣は長い間病気が治らず、川に身を投じ自殺した。駱賓王は反乱を起こしたが敗れて誅せられた。

一方、王劇と蘇味道は裴行倹の言った通り出世した。裴行倹は将軍になってから引き上げた部下たち、程務挺、張虔勗、王方翼、劉敬同、李多祚、黒歯常之、は後年、みな名将となった。

行儉有知人之鑒,初爲吏部侍郎,前進士王劇、鹹陽尉欒城蘇味道皆未知名。行儉一見,謂之曰:「二君後當相次掌銓衡,僕有弱息,願以爲托。」是時劇弟勃與華陰楊炯、范陽盧照鄰、義烏駱賓王皆以文章有盛名,司列少常伯李敬玄尤重之,以爲必顯達。行儉曰:「士之致遠者,當先器識而後才藝。勃等雖有文華,而浮躁淺露,豈享爵祿之器邪!楊子稍沈靜,應至令長;餘得令終幸矣。」既而勃渡海墮水,炯終於盈川令,照鄰惡疾不愈,赴水死,賓王反誅,劇、味道皆典選,如行儉言。行儉爲將帥,所引偏裨如程務挺、張虔勗、王方翼、劉敬同、李多祚、黒齒常之,後多爲名將。

行倹、人の鑑を知るあり。初め、吏部侍郎たりし時,前進士・王劇、鹹陽尉欒城・蘇味道、みな未だ名を知られず。行倹、一見して、これに謂いて曰く:「二君、後にまさに相い次いで銓衡を掌すべし。僕に弱息あり。願くは以って為托せん。」是の時、劇の弟・勃と華陰・楊炯、范陽・盧照隣、義烏・駱賓王、みな文章をもって盛名あり。司列少常伯・李敬玄、もっともこれを重んじ、おもえらく、必ず顕達せんと。行倹、曰く:「士の遠くを致す者,まさに器識を先にし、才芸を後にすべし。勃ら、文華あるといえども,浮躁にして浅露。豈に爵禄を享ける器ならんや!楊子やや沈静、まさに令長にいたるべし。余は終わりを得しなば幸いならん。」既にして勃、渡海に水に堕つ。炯、終に盈川の令たり。照隣、悪疾、愈えず、水に赴むきて死す。賓王、反して誅せらる。劇、味道、皆、選に典するは、行倹の言のごとし。行倹、将帥たるや,引く所の偏裨、程務挺、張虔勗、王方翼、劉敬同、李多祚、黒歯常之、のごとき、後に多く名将となる。
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ここに出てくる王勃や駱賓王などの4人は、いわゆる初唐四傑と言われる詩人・名文家であった。それで、皆は彼らは必ず出世するに違いないと思っていた。しかし、裴行倹はそうは思わなかった。人の良しあしは文才や話しぶりなどのタレント性ではなく、どっしりとした所(器識)があるかどうか、という点であると考えていた。つまり裴行倹は、浮ついた(浮華)人より篤実な人を評価したのだ。そして実際、国を背負って立つような人はそういった人だったのだ。

中国の歴史書を読んでいると、この裴行倹のように、人を判断する目の確かな人がよく出てくる。今のように偏差値や学歴のような客観性な判断基準はなく、すべて属人的かつ主観的である。現在の世の中では、何もかも数値化して客観的に判断するのが正しい、あるいは、多数決で決めることが正しい、と考えているようだが、人の評価に関して言えば、数字には表れない所を重視しなければいけないと私は思っている。

人の器というのは、数値では測れない所がある。ましてや、多数決である人気投票のようなもので測れるものではない。意志の堅さや包容力、知性のひらめき、などその人が全体として醸しだす雰囲気をもっと鋭敏にとらえることのできる感覚(観相術)を磨く必要がある。人を肩書でなく、本質を見抜いて正しく判断できる人こそがリーダーとして相応しいのだ。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第9回目)『さんじゅつを極める』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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