限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第129回目)『身ごなしの美学』

2012-09-09 18:13:52 | 日記
最近のファーストフード店やコンビニ店の店員の融通のないマニュアル的対応にいらだつことはないだろうか?常識で考えて明らかに場違い、あるいは不要な質問にしばしば、なさけなくなる思いがする。この現象は明らかにアメリカ式のマニュアル化のネガティブな面が強調的に出ている。私がアメリカに暮らして経験した範囲では、アメリカの店員はマニュアルの規定を最低限の守り事と考えているのに対して、日本のパート店員は最低限であると同時に最大限と考えているようだ。つまり自分には行動の裁量がないと考えているので、言動が融通がきかなくなるのだ。

このようなマニュアル化の被害は何もコンビニなどのパート店員に限らず、かなりハイレベルのホテルやレストランの店員にも見られる。ホテルやレストランの優雅さを考えた場合、立地場所や内装、庭園など、ハード面ばかりに注意が向きがちであるが音響や照明などのソフト面も重要だろう。しかしそれにも増して、接客する人達の優雅な身ごなしが大切ではないだろうか。この点について私の経験を述べてみたい。

以前、都内のある賀詞交換会に出席した時のことである。ホテルの立地、ホールの内装や食事など全く申し分なかった。ところが式の進行が全くげんなりさせるものであった。まず、乾杯の前に、来賓二人の長い長い挨拶があった。始めは、かしこまって聞いていた出席者も途中から、そこかしこで雑談を始め、挨拶などだれも気にしないで盛り上がっていた。さて、退屈な挨拶も終わったのもつかの間、乾杯の音頭をとった人も負けじとばかり、これまた長々と自社の宣伝をするありさまだった。その内に、周りの雑談の声はいっそう高まり、挨拶の声もそれに対抗してキンキンとなり、それはそれは、まるで地下鉄の轟音を聞いているような有様であった。

ようやくのことで乾杯も終わり、プロの手品師の余興が始まったのだが、バックで演奏しているロックミュージックのやかましかったこと。あたかも皆が補聴器をつけわすれてきた耳の遠い人達であるかのごとくボリュームを最大限に上げていた。悪口ついでに言うと、轟音を発するスピーカーも高音だけが妙に歪みカシャカシャなる薄っぺらい音質であった。会は始まったばかりで、おいしい食事もまだ十分には味わっていなかったのだが、私は早々に退出した。

外にでて、酒と騒音でほてった顔を浜風で冷やしながら、考えた。『この宴会はハード面は立派なのに、なぜソフト面をチェックしなかったのだろうか?仏を作って魂を入れずだな。』この会に限った訳ではなく、一般的に言って、日本人はハード面(つまり、建物、内装、食事など)の整備は得意であるが、ソフト面(つまり、式の進行、音、照明など)は不得手であるように思う。

たとえば、ホテルを考えるとハード面のそれぞれの部分、例えば部屋の装飾と家具の調和もさることながら、ハードとソフトの全体としての調和も十分に考慮する必要がある。喩えていえば、着物は高級な大島紬だが、足にはフェラガモの革靴を履いているようなものだ。各パーツは非のつけどころがなくとも、上と下が調和がとれていないと、全体的にはぶち壊しだ。ソフト面に関して言えば、ホテル・レストランにかぎらず公共の設備で過剰な音量や音質の悪いスピーカーに辟易する場所が数多くある。さらに装飾に関して言えば、室内装飾の人と照明の人がお互いに全くすりあわせをせずに設計したのではないか、と思わせる場所も多い。



音や照明以外に、ホテルのような接客業のソフト面の大切なポイントを挙げたい。それは、接客する人達の『身ごなし』だ。その例を挙げれば、私は以前、兵庫県が神戸に誘致したアメリカのカーネギーメロン大学日本校のプログラムディレクターをしていた。この大学は日本にありながら、全てアメリカ式に運営されていて、授業はもちろん英語で行われていた。日本に常駐している先生の他に、アメリカのピッツバーグにある本校はもちろんのこと、世界中からいろいろな先生が訪れてきていた。その中に、ある時インドから一人の若い女性がやってきた。私はかつてアメリカに留学していたので、インド人は幾人も知っていたが、彼女の身ごなしは、それまでに見たこともない、全く人を魅了するものだった。文章ではうまく表現できないが、挨拶のときに首をすこし横にかしげるしぐさ、握手の時にやさしく手を差し伸べるしぐさなど、ちょっとしたしぐさのひとつひとつが何とも言えない優雅さを感じさせるのだ。

かつて、江戸時代の末期から明治の初期にかけて日本を訪問した欧米の人たちの感想に、日本人の、特に裃をつけた武士の立ち振る舞いを非常に優雅に感じたとあったが、まさにそれと同様の感慨を私はこのインド人女性の身ごなしに感じた。優雅さを一枚のジグゾーパズルとするなら、ハードやソフトの観点はそれぞれがひとつのピースに該当する。そして画龍点晴を完成する最後のピース、それこそが『身ごなしの美学』であると言える。身ごなしの美学は日本のよき伝統であると私は思うが、冒頭で述べたように、最近のパートタイムの店員から始まって徐々に社会から消えつつあるのは残念である。
コメント
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