限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第87回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その22)』

2012-09-27 22:50:49 | 日記
『2.04 帝位について、子孫に微賤の形見を残す。』

鎌倉時代の第五代執権の北条時頼は名君との世評が高い。しかし、 30歳にもならない内に病気のため引退し、水戸黄門のように諸国を巡察した。大日本史にはその様子が次の様に描かれている。

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大日本史(巻201、列伝第128)

時頼が執権を辞職した。地方の役人が庶民をいじめていないかを見るため、粗末な服を着て僧の風体で諸国を巡回した。たまたま摂津の難波に来たが、日が暮れたので、ある家に泊めてもらった。その家の壁は傾きくずれていた。年老の尼が一人住んでいたが、自ら飯を炊いて出してくれた。時頼はその尼が食事の用意が不慣れなのを怪しんで尋ねたところ、尼は、はらはらと涙を落とし、こういった。『私の家は、先祖代々この村を治めていました。しかし夫を息子が亡くなってから没落し、とうとう他人に奪われてしまいました。どこにも訴えようがなく、ひとりで20年住んでいます。財産と言えばこの身ひとつです。』時頼はこれを聞いて不憫に思い、鎌倉に戻ると早速その村を老尼に取り返してあげた。

時既解職,恐諸國吏或有挾私害民者,身自羸服,陽為遊僧,間行四方,潛察風俗。。。行抵攝津難波浦,日暮投宿。其家屋璧傾頽,有老尼獨居,躬親爨炊進飲。時見尼不慣賤役,怪而問之。尼潸焉垂泣曰:「我家世食斯邑,不幸喪夫失子,門戸殄瘁,遂為人所奪。無所告訴,孤棲二十餘年,財保殘躯而巳。」時憫之,及歸鎌倉,命復其舊邑。

時頼、既に職を解く。諸国の吏、或いは私を挟んで民を害する者あるを恐れ、身、自ら羸服し、いつわりて遊僧となり,四方に間行し、ひそかに風俗を察す。。。行きて摂津・難波浦に抵る。日、暮れて投宿す。その家屋の璧、傾頽す。老尼の独り居むあり。躬、親しく炊を爨ぎ飲を進む。時頼、尼の賤役に慣れざるを見、怪んでこれに問う。尼、潸焉として垂泣して曰く:「我が家、世々、この邑を食す。不幸にして夫を喪い子を失う。門戸、殄瘁し,遂いに人の奪わるところとなる。告訴する所なし。孤棲すること二十余年,財は残躯を保つのみ。」時頼、これを憫み,鎌倉に帰るに及びて,命じてその旧邑を復せしむ。
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この時頼の母・松下禅尼の美談が、徒然草の第184段に載せられている。

(要旨)禅尼が古い障子の破れた所の紙を張り替えていた。それを見た、兄の城介義景が、全部一遍に張り替えればいいではないか、と言った所、禅尼は、息子の時頼に倹約の大切さを教えたい、と答えた。この話を聞いた兼好が禅尼を次のように誉めている。
 女性(にょしょう)なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。

政界の頂点に立てば、おべっか使いばかりで、親身になって耳の痛い忠告をしてくれる人は少なくなる。知らず知らずのうちに贅沢に染まり、倹約など忘れてしまう。そして、いつの間にか国家財政が危機に瀕し、ついには破滅してしまうのが、歴史の常であろう。賢明な松下禅尼は、堤防は蟻の穴から崩れるの例えのように、倹約も些細とも思える所から始めないとだめだという理(ことわり)を無言で教えたのだった。

資治通鑑にも、同様の話が見える。三国志の後、晋から禅譲を受け、劉裕が南朝の宋を420年に建国する。劉裕は豊臣秀吉と同じく、微賤から身を起こし、一代で皇帝まで昇りつめた人物だ。松下禅尼と同様、子孫が慢心しないように、自分が苦労した跡を残しておいた。

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資治通鑑(中華書局):巻120・宋紀2(P.3791)

乙卯、宋の第三代皇帝・文帝(劉義隆)が丹徒に行って、父の京陵を拝謁した。以前、父の高祖(劉裕)が帝位に就いてから、貧乏だったころの農具を子供たちに見せよと役人に命じた。文帝は故宮に着いてそれを見て恥ずかしく思った。お付の一人が申し上げた。『あの聖人の舜ですら歴山に居た時は、畑を耕したと言います。禹は水利事業では自から土を運搬したと言います。陛下も、このような農具を見なければ、父帝の苦労や偉業をとうてい分からないでしょう!』

乙卯,帝如丹徒,己巳,謁京陵。初,高祖既貴,命藏微時耕具以示子孫。帝至故宮見之,有慚色。近侍或進曰:「大舜躬耕歴山,伯禹親事水土。陛下不睹遺物,安知先帝之至徳,稼穡之艱難乎!」

乙卯、帝、丹徒に行く。己巳,京陵に謁す。初め、高祖、すでに貴きに,蔵に命じ、微の時の耕具を以って子孫に示す。帝、故宮に至り、これを見、慚色あり。近侍、或るもの進みて曰く:「大舜、躬ずから歴山に耕す。伯禹、親しく水土に事う。陛下、遺物を見ざれば、いづくんぞ先帝の至徳、稼穡の艱難を知らんや!」
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先祖の苦労を忘れないで子孫に伝えるという点では、ユダヤ人に勝るものはいないであろう。

ユダヤ人は今でも、数千年も前の先祖の苦労をしのび、過ぎ越しの祭り(Pesach, Passover)を祝う。旧約聖書によると、ユダヤ人達は奴隷として酷使されていたエジプトをモーゼに率いられて脱出した。

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旧約聖書:出エジプト記(12.39)

彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。(1987年、新共同訳)

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先祖のこの時の苦労を忘れないようにするため、過ぎ越しの祭りでは、酵母なしの不味いパンを先祖と同じく七日間食べなければいけないと定められた。

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旧約聖書:申命記(16.3)

その際、酵母入りのパンを食べてはならない。七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさなければならない。(1987年、新共同訳)

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ユダヤ人がモーゼに率いられてエジプトを脱出したのは紀元前13世紀のことだと言われている。それから数千年、彼らは毎年ずっと先祖の苦労を偲んできたわけだ。それに比べると、時頼の鎌倉幕府にしろ、劉裕の宋にしろ、先祖の苦労を偲んだのは一過性だった。彼らの政権はどちらもかなり短命であった。(宋は60年、鎌倉は140年)これに対し、ユダヤ人は過去数千年にわたる過酷な迫害にも耐え、現在もなお繁栄している。

先祖が使った粗末な農具を眺めるだけで、先祖の苦労が子孫に伝わると考えた劉裕と、毎年毎年の過ぎ越しの祭りで、実際に酵母なしパンを七日間食べて追体験しなければ先祖の苦労は子孫には伝わらないと考えたユダヤ人の思考との質的な差を考えて見る必要がある。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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