限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第361回目)『可愛いネコがいつの間にか獰猛な虎に!』

2024-04-28 10:56:40 | 日記
私は現在までに、8冊の単著を出版した。テーマは全てリベラルアーツ、つまり「文化のコア」を掴むことを目的としている。ただ、最初の本『本当に残酷な中国史 ― 大著『資治通鑑』を読み解く』が処女作にもかかわらず、思いのほか好評で多く売れたため、私が昔から中国史に精通していて、漢文をすらすらと読み解いていたかのように思っている人もいるかもしれない。

しかし、すでにこのブログや著著のところどころに書いたように、高校時代、漢文は大の苦手で、返り点のつけ方の規則がまるでちんぷんかんぷんであった。その原因は、当時の(そして現在でも尚!)漢文の授業ではパズル式に、一、二、三、レ点、上、下、甲乙丙などを順を追って読むだけで、学生が自分で返り点をつける訓練はしない。今から思えば、漢字だけといっても漢文は、日本人にとっては立派な外国語である。そして外国語の修得の唯一の方法は、口と耳を駆使して音ベースで訓練することだ。音を無視して、視覚だけを頼りにパズル式に漢文を訓読しようとする方法はこの点では「労多くして、実り無し」と破綻している。



私が返り点の規則を習得して漢文を自由に読めるようになったのは、王陽明の文集を読んでいる時の偶然のできごとによる。王陽明は孟子の文章を頻繁に引用するが、私は、当時はまだ孟子をあまりよく覚えていなかったので、何度も本文を参照しなければいけなかった。それが面倒なので、本文参照の手間を省くために、耳から孟子を暗記することにした。驚いたことに数ヶ月、耳の訓練をすることで、返り点なしの漢文がすらすら読めるようになった。それに力を得て、「とうてい一生の間に読めはしないだろう」と積読状態にあった資治通鑑を実質1年で、カバートゥカバーで読了することができた。

資治通鑑の初めの巻は戦国策や史記とダブっている話なので、内容は熟知していた。そこを飛ばして、王莽が漢王朝を簒奪して新を建国する辺りから読み始めた。後漢建国にまつわる争乱が収まると中国は俄然、儒教一色に染められた。正直な話、この辺りまで私は所謂『漢文ファンタジー』的心情で資治通鑑を読んでいた。もっとも、この『漢文ファンタジー』的心情は、後に私自身が自著(『資治通鑑に学ぶリーダー論』(河出書房新社)や『中国四千年の策略大全』(ビジネス社)で厳しく糾弾したが、そ由来は資治通鑑を通読したことによる。

ところで、『資治通鑑』は司馬光をはじめとした北宋の儒者たちの書いた歴史書であるから、文学的にも人格形成の面においてもすぐれた書であるに違いないと当時の私は思いこんでいた。ところが、三国志の末期あたりから、西晋の八王の乱に至ると、それまでの読書では全く経験したことのない極めて衝撃的な光景が次から次へと現出してきた。『本当に残酷な中国史』にはこの情景を次のように表現した。。

「資治通鑑には、次々と発生する盗賊や軍閥の理不尽な寇掠と暴行、それに引き続いて起こる大飢饉、まさに広大な生き地獄の世界が際限なく描かれている。つかの間の平和も、官吏の底なしの苛斂誅求と宦官や悪徳官僚の桁違いの賄賂政治。どこを見ても、義などは存在しないように見える悖乱の世界、それが、文化栄えたる中華と言われた所なのだ。」

当時、兵庫県の外郭団体で働いていたので、週の5日は仕事に取られていたので、資治通鑑を読めるのは週末の2日だけであった。それで週末は、毎日10時間程度集中して、資治通鑑を読んだ。短期間に集中して読むと、事件の流れが記憶に残っているので、あたかも3DのIMAXシアターを見ているようだった。しかし、かなり多くの残酷な情景があり、一日の内にに何度も桁違いの残酷シーンに出会うたびに、一人「ひょえ~~!!」と叫び声を挙げていた。

「資治通鑑はなんというおそましき現実を書き残してくれたのだ!」

司馬光たちは、何ら躊躇することなく、中国社会の悲惨で残酷な情況を余すところなく剔出した。ここまで読んできて、私は「可愛いネコを飼っていたつもりが、がいつの間にか獰猛な虎に変身」したことに呆然とした。そこまで、私は中国は徳を重視する儒教が倫理観の柱だと思い込んでいた。これはまさに「漢文ファンタジー」そのもので、資治通鑑は私の甘っちょろい考えを完全に木っ端みじんに吹き飛ばしてくれた。それは、あたかも熱心なキリスト教者が急に無神論者(atheist)に転向したようなものだ。この落差はとても「眼からうろこが落ちる」どころの生半可なものではなく、眼に望遠と顕微鏡を兼ねた赤外線カメラに置き換わったようなものだ。森羅万象がこれ以上ないほど鮮明な画像となって見えてきた。そうなって、過去を振り返ってみると、「一体自分は何を勘違いしていたのか!」とあきれ果てた。

李朝の末期にスウェーデン人のジャーナリスト、アーソン・グレブストは朝鮮に渡り、李朝の実態を記述した『悲劇の朝鮮』を出版した。その中には、彼が実見した公開処刑の様子も隠すことなく詳細に描いた。処刑の記述が余りにも残酷で生々しいので出版後、非難が殺到したという。しかし、それに対しグレブストは李朝の残酷な一面を公表する意図を次のように説明した。

「ある者はこの世の明るい面だけを見ようとして片方の目を閉じたまま人生を送っていくかもしれないが、そんな人たちの抱く人生の理解は明るく美しいものであってもも、けっして正しいものではありえない」

私は、図らずも『資治通鑑』を読破することによって、ぼんやりと閉じていた片目を大きく見開かされた。その意味で私は生涯の内に『資治通鑑』を読むことができたことに感謝しつつも、アンビバレントの感情としては、資治通鑑を読まずに片目を閉じたまま送れたはずの無邪気さを永遠に喪失させられたことに、一抹の哀感も覚えている。ついで、言わずもがなのことをいえば、戦争や災害の実態を語り部として伝えようという活動は、日本でも数多い場面で見られるが、資治通鑑のような人類最高水準の描写力を知ってしまった後では、どうも素人の語り部の言葉では、残念ながら惻惻と胸に迫るものを感じられない。
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智嚢聚銘:(第54回目)『中国四千年の策略大全(その54 )』

2024-04-21 09:00:35 | 日記
前回

中国の戦争の話を読むと、よく遭遇するのが、相手に油断させて攻撃するやり方、つまり「虚を討つ」という作戦だ。この作戦の一つの例として、漢の将軍・李広の話が思い出される。

李広は匈奴との戦いの前線にいて、下級兵士と同じような粗末な食事と寝床で我慢した。それゆえ、全軍の兵士からは大変篤い信頼を得ていた。ある時、少数の兵と共に匈奴の陣地の偵察に出たところ、思いがけなく匈奴本体の大軍に出会った。自分たちの数少ない兵士だけでは、とうてい並みいる敵の大軍に勝てないと考えた李広は全員に馬から降りて、馬の鞍と轡を取り外すよう命じた。兵士たちは、その命令を聞いた時は心臓が凍る思いであったに違いない。馬の鞍と轡を外せば、取り囲まれても逃げ出すことができず、絶対に生き延びる可能性がなくなった。

ところが、匈奴は李広のこの指示は自分たちを欺く策略に違いないと考えた。つまり、ここで攻め込んでいけば、どこからともなく、漢の大軍が現れてきて、自分たちを逆襲するに違いないと考えたのだ。結局、朝から夕方に至るまで、漢の軍隊を取り囲んで対峙していた匈奴の大軍は夜の到来とともに、の暗闇に紛れ去って行った。

相手の油断を反撃の手がかりにすることは中国では春秋戦国の時代からよく用いられた作戦なので、それまで漢民族に散々な目に遭わされてきた匈奴としては、用心に用心を重ねたわけだ。結局、匈奴は李広の度胸ある作戦を見破ることができなかった。

これに類した話が今回取り上げる話である。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 855 / 裴行倹】(私訳・原文)

唐の調露元年、大総管の裴行倹が突厥の討伐を命じられた。これ以前、突厥との国境あたりでしばしば食糧輸送車が強奪されていた。裴行倹はそこで、車の中に兵士5人を隠すことのできる食糧輸送車を300台、新たに作った。兵士たちには大きな刀と強い弓を与え、車の中に潜ませた。そうして貧弱な兵士たちに車を曳かせて行かせた、敵に気付かれないよう、精兵を後から護衛させた。案の定、敵が輸送車を強奪しに来たので、貧弱な兵士たちは一斉に逃げた。敵は輸送車を曳いて水草が生えている所までくると、馬を輸送車から外して車の中の食糧を取ろうとしたところ、中から兵士が飛び出して敵を撃った。と、同時に後から付けてきた味方の精兵たちも到着して、敵を皆殺しにした。これがあってから輸送車に近づいてくる敵はいなくなった。

調露元年、大総管裴行倹討突厥。先是餽糧数為虜鈔、行倹因詐為糧車三百乗、車伏壮士五輩、齎陌刀勁弩、以羸兵挽進、又伏精兵踵其後。虜果掠車、羸兵走険、賊駆就水草、解鞍牧馬、方取糧車中。而壮士突出、伏兵至、殺獲幾尽、自是糧車無敢近者。
 ***************************


上の文に登場する、裴行倹という武将は、あまり知られていないが、中国の史書『唐書』や『資治通鑑』では何度も登場し、その気高いふるまいから『儒将』と称えられている。つまり、武将でありながら、名臣の器であるということだが、そのエピソードを紹介しよう。

 ***************************
資治通鑑(中華書局):巻203(P.6408)

西突厥の阿史那都支を打ち破った時に、直径が二尺もの瑪瑙の皿を得た。その大皿を軍隊の皆に見せて回っていたが、王休烈がそれを捧げ持ったまま階段を登っている時に躓つまずいて割ってしまった。王休烈は血が出るまで頭を地面に打ち付けて許しを懇願した。それを見た裴行倹は笑って「お前はわざと割ったのではなかろう。気にするな」と、割れた瑪瑙の大皿のことなどは全く気にかけるそぶりもみせなかった。

破阿史那都支、得馬脳盤、広二尺余、以示将士、軍吏王休烈捧盤升階、跌而砕之、惶恐、叩頭流血。行倹笑曰:「爾非故為、何至於是!」不復有追惜之色。
 ***************************

以前、河出書房新社から出版した『資治通鑑に学ぶリーダー論』には裴行倹に関するエピソードを幾つか紹介した。これもそのひとつであるが、私はこの話が一番印象深く記憶に残っている。裴行倹の部下に対する暖かい思いやりと磊落さがよく分かる話である。

続く。。。
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百論簇出:(第279回目)『シニア・エンジニアのPython事始(その5)』

2024-04-14 09:04:10 | 日記
前回

長年GmailをメインのEmailとして使ってきた。その理由は、私のように、所属がしばしば替わるような状況では、退職した途端に、組織の独自のメールボックスに入っているデータはアクセスできなくなるので、どこからでもアクセスできるGmailのようなツールは使い勝手がよいからだ。

これに加えて、Gmailはつい最近まで、簡易形式のメールシステムを提供してくれていたのも長年使っていた理由の一つだ。簡易形式の利点は、とにかく、立ち上げが早いことだ。それに加え、私のように基本的にデータを自分のHD(オンプレミス)に格納するための必要データ(発信者メールアドレス、CC受信者メールアドレス、本文など)が簡単に取れたからである。

簡単というのはGmailの受信画面全体をコントロールA+コントロールCで、バッファーにいれて、それをテキストエディターに吐き出し、それを一旦格納してから、固定不要文字部分を取り除くとメールデータが格納できるからだ。言葉で説明すると長たらしく何だか難しそうに聞こえるかもしれないがが、Windowsのバッチコマンドで処理すると、1本あたり僅か数秒で処理できる(というか、できていた。)

ところが、昨年(2023年)の暮(12月)ごろから、簡易形式は廃止するという警告がGoogleから何度も出されていた。無視して使い続けていたが、とうとう最近、2024年3月になって強制的に簡易Gmailから標準Gmailに切り替わってしまった。標準Gmailに切替したくなかったのは、上述のテクニック、つまり、「受信画面全体をコントロールA+コントロールCで、バッファーにいれて、それをテキストエディターに吐き出す」とメールの一部の情報が欠落するからだ。具体的には、送り先のメールアドレスが脱落し、送信者の名前しか分からない。さらに悪いことにCCのアドレスもとれない。そうなると、後になってメールを見返して、送信者に連絡を取ろうとしても、オンプレミスに蓄積されてデータからでは不可能で、Gmailのデータにアクセスしないといけない。一般のGmail契約では数年経つとメールは規定バイト数を超過して古いメールは削除されてしまうであろう。

この問題を解決する方法としては、少なくとも次の2つの方法が考えられる。
1.かつての簡易Gmailのようなメールサービスを見つけ、Gmailを転送し、転送されたデータから必要情報を取り出して保存する。
2.Gmailのデータから直接、送信メールアドレス、CCメールアドレスを取り出す。

今回、Pythonの本やWeb情報を見ていると2.の方法で、私の望む処理が出来そうなことが分かった。

ところが、いざ始めてみるとWeb上の記事のタイトルにもなっているが、
 「Gmail API を使ってメールを取得すると結構大変だった話(前編)」
とまさに同じ状態に陥った。そう、Gmailのデータを取り出すのは、そう簡単ではないのだ。

技術的に正しいか自信はないが推測で言うと、Gmailのデータを取り出すのが難しいのは通常のPOP3のコマンドではGmailの受信データにはアクセスできないからだ。Gmailのセキュリティが堅いのである。Gmailのメールボックスにアクセスするには、予め認証(Certificate)の token を取得しておく必要がある。このtokenを持っているユーザーだけがアクセスできる。このtoken を得るまでが一苦労であったが、何とか達成した。

次の難関は、Gmailだけでなく、現在のメールシステムというのはどうやらスパゲッティらしく、本文の場所が、何ヶ所かに別れているという。Web上のPythonコードを実行させてみると、本文の取り出しが場合によっては中途半端で終わってしまうようなこともしばしばあった。そうこうして、20ヶ所近くのWebサイトのPythonコードをチェックして、ようやく私が所望する処理ができるコードを次のサイトで見つけた。
PythonでGmailを取得し、件名や受信日をPandasを用いてExcelに書き込む方法
これを実装すると、ドンピシャ動いた。ただし、私の要望に合わせて、エクセルへの格納部分や添付ファイル取得部分などは削除した上に、若干変更したものを、以下に示す。

このコードでは、送信者データ、CCデータ、本文など、基本部分はきちんと取り出せたのであるが、いろいろと改造した。
1.HTMLファイルは、全体ではなく、文字部分のみを抽出する。
2.蓄積データの文字コードをUTF-8からShift-JISに変換する。
3.UTF-8 からShift-JISに変換するときに、Windowsの改行マーク(0x0d+0x0a)に 0x0d が1つ分余計に加わり、0x0d+0x0d+0x0a となるので、Windowsの平文に変換すると空白行が1行余計に出来てしまう。それで0x0d を1つ削除する。

 ************

今回は、Gmail の方針の変更で、簡易形式が使えなくなったので、その代用のシステムをWeb上の情報を基にして、すきま時間を使って20日ばかりで作成できた。(真剣にすれば数日の話かもしれないが。)この過程で、つくづく数十年前であれば、到底一人では、数ヶ月はかかったのではなかろうか、と感じた。私は以前にプロのシステムエンジニア・ソフトウェアエンジニアとして仕事をしていたので、このようなシステムの構築の難しさをよく分かっている。つまり、メールシステムのような複雑でスパゲティのシステムからデータを取り出すには仕様の細部まで十分に理解していないといけない。そのためには、かなりの量のドキュメントを丹念に読まないといけない。それには、数人(あるいは数十人)が取り組んで少しづつ理解している事柄を集積するのが一番の早道だ。ソフトウェアハウスでは、プロのソフトウェアエンジニアが周りに数多くいるので、聞いて回ることができるが、私のように一人で仕事をしている人間にはそういう情報入手ルートが全くない。それを救ってくれるどころか、それよりも幾倍も有益な情報を与えてくれる環境がWebだ。

私はプログラミング言語としては、Python自体は、別に好きでも嫌いでもない。それで、客観的立場から評価できる。PythonはWeb上に掲載される情報の多さとモジュールの豊富さで他の言語を遥かに凌駕している(と感じる)。それゆえ、Python は現代人が真剣に取り組むべき言語だと考えている。
     ----------------------------

# -*- coding: Shift-JIS -*-
## Gmail データを取得する。
## 基本構造は、下記のサイトのコードを使った。
## https://teratail.com/questions/8wl34hy9x3iwi8

from google.oauth2.credentials import Credentials
from googleapiclient.discovery import build
import json
import base64
import pandas as pd
import sys

def get_header(headers, name):
  for h in headers:
    if h['name'].lower() == name:
      return h['value']

def base64_decode(data):
  return base64.urlsafe_b64decode(data).decode()

def base64_decode_file(data):
  return base64.urlsafe_b64decode(data.encode('UTF-8'))

def get_body(body):
  if body['size'] > 0:
    return base64_decode(body['data'])


def get_parts_body(body):
  if (body['size'] > 0
      and 'data' in body.keys()
      and 'mimeType' in body.keys()
      and body['mimeType'] == 'text/plain'):
    return base64_decode(body['data'])

def get_parts(parts):
  for part in parts:
    if part['mimeType'] == 'text/plain':
      b = base64_decode(part['body']['data'])
      if b is not None:
        return b
    if 'body' in part.keys():
      b = get_parts_body(part['body'])
      if b is not None:
        return b
    if 'parts' in part.keys():
      b = get_parts(part['parts'])
      if b is not None:
        return b

def get_attachment_id(parts):
  for part in parts:
    if part['mimeType'] == 'image/png':
      return part['body']['attachmentId'], 'png'
  return None, None



### ?100
def main():
  if len(sys.argv) < 1:
    print("gmail_getm.bat ");

  dir_gmaildata = "c:\xxx";
  ss_tmplst = dir_gmaildata +"tmplst.lst"
  ffout =open(ss_tmplst, "w", encoding='utf-8');

  dir_dosbin= "d:\yyy";
  tokenPath = dir_dosbin + "token.json"
  Read_maxResults=30; 

  scopes = ['https://mail.google.com/']
  creds = Credentials.from_authorized_user_file(tokenPath, scopes)
  service = build('gmail', 'v1', credentials=creds)
  output = []
  messages = service.users().messages().list(
    userId='me',
    labelIds='INBOX',
    maxResults=Read_maxResults,
    ).execute().get('messages')

  msg_counter = 0;  
  for message in messages:
    msg_counter += 1;
    print(" ");
    ss_tmptxt = dir_gmaildata + "tmp%02d.txt" %msg_counter;
    ff_tmptxt = open(ss_tmptxt, "w", encoding='utf-8');

    ffout.write("\n==== File [ aa%02d.txt ] ====\n"  %msg_counter);
    m_data = service.users().messages().get(
      userId='me',
      id=message['id'],
    ).execute()

    # ヘッダー情報
    headers = m_data['payload']['headers']

    # 日付
    message_date = get_header(headers, 'date')
    print(f'Date: {message_date}')
    ffout.write( f'Date: {message_date}' + '\n');
    ff_tmptxt.write( f'Date: {message_date}' + '\n');

    # 差出人
    from_date = get_header(headers, 'from')
    print(f'From: {from_date}')
    ffout.write( f'From: {from_date}' + '\n');
    ff_tmptxt.write( f'From: {from_date}' + '\n');

    # 宛先
    to_date = get_header(headers, 'to')
    print(f'To: {to_date}')
    ffout.write( f'To: {to_date}' + '\n');
    ff_tmptxt.write( f'To: {to_date}' + '\n');

    # 宛先 -- CC
    cc_date = get_header(headers, 'cc')
    print(f'Cc: {cc_date}')
    ffout.write( f'Cc: {cc_date}' + '\n');
    ff_tmptxt.write( f'Cc: {cc_date}' + '\n');

    # 件名
    sub_date = get_header(headers, 'subject')
    print(f'Subject: {sub_date}')
    ffout.write( f'Subject: {sub_date}' + '\n');
    ff_tmptxt.write( f'Subject: {sub_date}' + '\n');

    body = m_data['payload']['body']
    body_data = get_body(body)

    parts_data = None
    if 'parts' in m_data['payload'].keys():
      parts = m_data['payload']['parts']
      parts_data = get_parts(parts)

    body_result = body_data if body_data is not None else parts_data
    ff_tmptxt.write(str(body_result).rstrip());
    ff_tmptxt.close();

  ffout.close();
    
if __name__ == '__main__':
   main()
</code>

     ----------------------------
続く。。。
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智嚢聚銘:(第53回目)『中国四千年の策略大全(その53 )』

2024-04-07 08:27:17 | 日記
前回

日本では、武士魂の象徴といえば、刀が挙がるが、実際の戦争での活躍度合いは、残念ながら、弓にかなり劣る。つまり、戦場での勝負には剣術の達人よりも、弓矢の達人の方が勝つ率の方が圧倒的に高い。剣術の腕前より、弓矢の腕前が優れていたことで名高い武将といえば、徳川家康が挙がる。家康は、弓の腕前で有名で「海道一の弓取り」とも呼ばれていた。江戸時代でもそうだったが、遡って源平合戦の頃の源為朝は日本一の弓の達人だとして、「無双の弓矢の達者」(鎮西八郎者、吾朝無双弓矢達者也。)と称された。

弓は刀と違って、自分が傷付かずに相手を倒すことも可能であるが、いかんせん、矢が尽きると全く無力となってしまう。矢は無尽蔵にあるわけではないし、無くなったら即座に調達できるわけもない。戦場で、矢をどのように集めるかは知恵の見せ所だ。

矢を敵から調達するという離れ業を演じた話が残っている。時は、唐の土台を揺るがした天下の大乱である安史の乱の頃、唐の官僚であった令狐潮は安禄山に降伏し、旧知で、唐の武将である張巡が立て籠もる睢陽を攻めた。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 853 / 張巡畢再遇某督軍】(私訳・原文)

長期間の籠城で睢陽城の中の矢が無くなってしまった。それで、張巡はわら人形を作り、それに黒い衣を着せて、夜中に城壁から縄で吊るして下ろした、包囲していた敵兵はそのわら人形をめがけて一斉に矢を射かけてきたので、たちどころに矢が数十万本あつまった。その後、何度か同じようにわら人形を下ろしたが、敵兵は笑って見過ごした。そうして敵が油断した頃に、500人の決死隊をわら人形と同じような恰好をさせて縄で下した。決死隊は敵陣に殴り込み、火を放ち、数キロメートルも敵を追いかけた。

令狐潮囲睢陽、城中矢尽。張巡縛藁為人、披黒衣、夜縋城下。潮兵争射之、得箭数十万。其後復夜縋人、賊笑不設備。乃以死士五百斲潮営、焚塁幕、追奔十余里。
 ***************************



これによく似た話は、日本でも人気の『三国志演義』(第46回)にも登場する。三国志演義でも最大のハイライトシーンともいえる赤壁の戦いの場面で、呉の周瑜が諸葛孔明に矢を10万本調達するように命じた。諸葛孔明は動ずることなく、3日の内に集めましょうと確約した。だれもが、わずか3日で10万本の矢など集められるわけなどないと訝っていたが、孔明はわら人形を使って矢を集めた。原文は以下の通り。

 ***************************
 『三国志演義』【第46回】(私訳・原文)

孔明が周瑜に言うには「貴卿は黙ってみて入れ下さればよい。十万本の矢はいつ必要でしょう?」周瑜は「十日以内が望ましいが、出来るか、出来ないか?」孔明はからからと笑い、「曹操の軍隊は明日にも来ようかというのに、十日も掛かれば大変なことになりましょう。」周瑜はむっとして、「それでは、先生は何日で揃えられるというのですか?」孔明はきっぱりと「三日で十万本を揃えてみせましょう」周瑜は驚いて「軍中では戯言(ざれごと、冗談)は無ですよ!」孔明は落ち着いて「どうして貴卿にでまかせをいうでしょうか。軍命を出して下さい。3日でできなければ、甘んじて重罰をお受けいたします。」

孔明曰:「都督見委、自当効労。敢問十万枝箭、何時要用?」瑜曰:「十日之內、可辦完否?」孔明曰:「操軍即日将至、若候十日、必誤大事。」瑜曰:「先生料幾日可辦完?」孔明曰:「只消三日、便可拝納十万枝箭。」瑜曰:「軍中無戯言。」孔明曰:「怎敢戯都督!願納軍令狀:三日不辦、甘当重罰。
 ***************************

どうだろう、この『三国志演義』の文章はところどころに、正統な漢文には登場しないような言葉遣い(只、怎)は見えるとはいうものの、ほぼ漢文の文法通りに読めるのではないだろうか?中国は国土が広く、方言も数多くあるので、口語では通じにくいが文章語であれば、全国共通に通じる。それで、明代においてすら、この『三国志演義』のように、ほぼ伝統的な漢文的文章が使われていたということが分かる。

ところで、フィクションではなく、正史である『三国志』にはこの場面に関しては、「孫権が船の片面に矢を多く受けすぎたのでひっくり返し、両側の側板に矢を集めて、堂々と帰還した」との記述が見える(重將覆、權因迴船、復以一面受箭、箭均船平、乃還)。

このようにして矢10万本を集めたという、なんとも余裕綽々たる話ではないか!

続く。。。
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想溢筆翔:(第448回目)『現代のリベラルアーツのゴールは、文化のコア理解』

2024-03-31 10:01:47 | 日記
本ブログ(『限りなき知の探訪』)の主テーマはリベラルアーツである。この点に関してはブログだけでなく、今まで出版した8冊の本も全て同じ主題である。

とりわけ、『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)『教養を極める読書術』(ビジネス社)は私の考えるリベラルアーツの本質を述べている。この2冊の本でもとりわけリベラルアーツをタイトルにした本『社会人のリベラルアーツ』では、冒頭に「リベラルアーツのゴールは、世界各地の文化のコアをしっかりつかむこと」との確信を述べた。これは、20歳から人生の生き方を考えてきた私の到達したリベラルアーツ観そのものだ。私は、リベラルアーツのゴールをこのように定義をしたのだが、Amazonなどの書評では、この主張に対して「一人よがりの定義だ」との批判的意見が書き込まれている。この意見の妥当性について考えてみよう。

一例として仏教を考えよう。紀元前5世紀ごろにインドの釈迦牟尼(お釈迦さん)は仏教を開いた。釈迦は自分の言葉を、書き物として残すことなく、すべて口頭の説法であった。インドから中央アジアを経由して、中国に入ってから数多くの経典が漢文に翻訳されたが、これら仏教の経典の集大成が『大正新脩大蔵経』として読むことができる。

Wikipediaの『大正新脩大蔵経』の説明によると、
 「17字詰29行3段組、各巻平均1,000ページ…正蔵(中国所伝)55巻」
とあるので、ざっと6000万文字数もある膨大な書物だ。とても、この全てを釈迦が話したとは思えない。ましてや、禅などというのは、開祖は釈迦ではなく、釈迦の死後、1000年位あとに出た達磨大師が中国に来て始めた教えだが、それでも、仏教として認められている。禅に関する書物も含めすべてが仏教経典と認められているのは、釈迦の根本思想を共有しているからだ。つまりこれらの経典は、仏教の基本思想である「無常観」「縁起」を共有しているがために、仏教経典と呼ばれているのだ。

この伝でいえば、リベラルアーツの基本のポイントは「自由」であり「健全な懐疑心」である。ここを外したものはリベラルアーツと呼ぶに値しないということが納得できるであろう。そうなると、私が主張する「文化のコア」というのはこの2つに含まれていない。それでは「文化のコア」の探求はリベラルアーツと呼べないことになってしまうのだろうか?

ここで、リベラルアーツの発祥した時代のギリシャ時代に思いを巡らせてみよう。当時は「文化のコア」を探求しなければいけない必然性はなかった。というのは、リベラルアーツの実践者たちは、いずれもギリシャ文化圏で育っていたので、改めて自分たちの「文化のコア」とは何か、と考える必要がなかった。ところが、このような統一された文明圏の隣にはペルシャ文明があった。また、後にローマ帝国がヨーロッパや北アフリカを支配するようになって、ユダヤ人やゲルマン人のような別種の文化圏の存在に眼を見開かされることになるに及んで「文化のコア」を知る重要性に気づき、文書として残すことになる。その筆頭に挙げられるのがヘロドトスの『歴史』やカエサルの『ガリア戦記』であろう。

ヘロドトスやカエサルは自分たちのギリシャ・ローマ文明とは異質の文化に触れて、自分たちと彼らの思想の根源的な差に気づいた。それも単なる、珍奇な風習をトピック的にとりあげるのではなく、本質的な価値観の差にまで踏み込んで書き残した。ヘロドトスやカエサルの著述意図の根底にあったのが「人間と社会のあり方を考える」という姿勢だ。「人間と社会のあり方を考える」立場を突き詰めていくと、必然的に「文化のコア」の理解に到達しなければならないということになる。



冒頭で述べたように、私は20歳からリベラルアーツの探求、つまり「リベラルあアーツ道」に志したのであるが、22歳の時にドイツ留学を契機にヨーロッパ現地で、日本とヨーロッパとの価値観やものの考え方の大きな差にショックを受けた。それからその差がどこからくるのかを探っていくうちに、ようやく「文化のコアを理解すること」なしに、文明の差が分からないし、翻って、自分たちの生まれ育った国の文明も理解できないことに気づいた。これは私だけでなく、幕末・明治に欧米に出かけて行った人たちも強く感じた点だ。例えば、私のいう「文化のコア」を福沢諭吉は『西洋事情』では「通義」と定義して、イギリス文化の本質を次のように掴んでいる。
 「英国人民の通義とは何ぞや。即ち其一身の自由なり」

結局、リベラルアーツが最終的に「人間と社会のあり方を考える」ことを命題とするジグゾーパズルの探索であるとするなら、「文化のコア」というピースを見つけないことには、図柄は完成しないと私は確信している。
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智嚢聚銘:(第52回目)『中国四千年の策略大全(その52 )』

2024-03-24 13:58:05 | 日記
前回

春夏の甲子園では、高校球児たちの熱い戦いが繰り広げられるが、しばしば優勝の筆頭チームが名もない学校に敗れるときがある。実力では、勝っているにしても、気分の上で相手を見くびっていると思わぬ敗北を喫すことがある。野球だとまだ命がとられることはないが、戦争ともなると大勢の命が懸かってくる。こういった心理を適用して大勝利を収めた将軍がいた。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 850 / 狄青】(私訳・原文)

北宋の武将、狄青が延州の指揮使となった。当時、タングート族(党項)がしばしば国境を荒らした。それで、新たに兵を募集し「万勝軍」と名付けたが、訓練不足で、敵と遭遇するたびに敗れていた。狄青の配下には訓練の行き届いた「虎翼軍」と呼ばれる精鋭の軍隊がいた。ある時、狄青は「虎翼軍」に「万勝旗」の旗を持たせて出陣させた。タングート族は「万勝旗」をみて、「こいつは頂き!」と侮って打ちかかってきたが、逆に大敗してしまった。

狄青為延州指揮使、党項犯塞。時新募万勝軍未習戦陣、遇寇多北。青一日尽将万勝旗号付虎翼軍、使之出戦。〔辺批:陸抗破楊肇之計類此。〕虎望其旗、易之。全軍径趨、為虎翼所破。
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「万勝軍」は名前こそ勇ましいものの、きわめて脆弱な中国の宋の軍隊であった。党項の軍は、何度も「万勝軍」に出会い、その弱さを熟知して、侮りの気分に満ちていたのであろう、旗だけは「万勝軍」であるものの、実態は、宋では最強軍である「虎翼軍」に出会い、たちまちのうちに敗れ去ってしまった。中国の歴史を読んでいると、よく出会うのが、ちょっかいをしかけてわざと負けたふりをして、敗走して、敵の軍隊がばらばらで追いかけてくるのを、待ち構えたいた兵士で取り囲んで、個別に殲滅する方法である。狄青の場合も、このような方法でやっつけたのではないかと私は想像する。



現在の戦争では、赤外線やレーダーを使うため、夜昼関係なく視界は極めて良好だが、かつては夜ともなると、月明りか、たいまつしか光がなかった。それで、戦力をカモフラージュしたり、孫臏が龐涓を大弩で射貫いたような策略もあった。(参照:『史記』巻65《孫子・呉子列伝》)次の話は、張斉賢が夜にたいまつを使って敵を陥れた策略だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 852 / 張斉賢】(私訳・原文)

北宋の張斉賢が代州の知事となった時に契丹が侵攻してきた。張斉賢は味方の潘美に使者を送って、協同で契丹軍に当たろうとした。ところが、使者が契丹に捕まってしまった。しかし、この時、潘美から使者がやってきていうには「潘美公は軍を率いて柏井まで来たのですが、そこで皇帝からの密書を受け取り、契丹との戦争はするなとの命令を受け取りました。それで、やむなく引き返しました。」普通の人ならしょげ返るところだが、張斉賢は張り切って「敵は潘美が出陣したのは知っているが、引き返さないといけなくなったという事情は知らないはずだ。」といって、次のような策略を実行した。夜に兵士200人にそれぞれ、一本の旗を背負わせ、手には一束の松明を持たせて州の西南地方に延々20キロメートルにも及ぶ長い松明の列を作らせた。契丹兵たちは遠くからこの火の列と旗を見て、てっきり潘美の軍が到着して合同で進軍してくるものだと思い、先を争って逃げた。張斉賢はあらかじめ敵の逃げ道に2000人もの兵士を道路の両側に忍ばせておいて、挟撃し、大いに討ち破った。

斉賢知代州、契丹入寇。斉賢遣使期潘美以並師来会戦。使為契丹所執、俄而美使至云:「師出至柏井、得密詔、不許出戦、已還州矣。」斉賢曰:「敵知美之来、而不知美之退。」乃夜発兵二百人、人持一幟、負一束芻、距州西南三十里、列熾燃芻、契丹兵遙見火光中有旗幟、意謂並師至、駭而北走。斉賢先伏卒二千於土鐙砦、掩撃、大破之。
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「一犬虚吠ゆれば万犬実を伝う」という言葉がある。出典は後漢の王符の《潜夫論》で、本来は「一犬吠形、百犬吠声」と表現されている。情景としては、寝静まった夜中に、物陰が動いているのをみて一匹のイヌが吠えると、その声を聴いたイヌたちは、物を見てはいないが、吠えたてるという。

張斉賢が敵を破ったのも将にそれと同じ要領で、多数のたいまつを見て敵の兵士の数人が動揺すると、その動揺が軍全体に波及して、全軍が浮足たってしまって、収集がつかなくなったということだ。

続く。。。
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想溢筆翔:(第?回目)『語源辞書の活用で伸びる英語力』

2024-03-17 08:40:25 | 日記
「現代社会において、英語ができることはいろいろな面で非常に良いことがある。」

こういうとたいていの人は「職業選択の幅も増えるし、給料も上がるだろう」というような実利を連想するであろう。確かに、そういった経済的メリットは認めるものの、私がここで言いたいのは精神的なものである。精神的なものというと、「そうだね、英語ができると英語に対するコンプレックスを感じなくて済むね」という反応が返ってきそうだ。確かに、私の身近にも押しも押されもしない高学歴でありながら、英語が出来ないことに強いコンプレックスに感じている人がいた。しかし、またもや私がいいたいのはそういう精神的なことではなく「英語という言語を通じて広がる知的水平線」がもたらす知的充足感のことである。

以前、出版した『社会人のリベラルアーツ』の最後『第6章 ギリシャ語・ラテン語を学ぶ ― TOEIC英語より多言語の語学を』というタイトルで、英語以外の語学を学ぶことを勧めた。日本人(だけでなく、世界の多くの人は)は語学と言えば実利をもたらす英語しか興味のない人が多いので、多言語、とりわけ実利には無縁のギリシャ語・ラテン語などは全く興味を示さないことだろう。しかし、このギリシャ語・ラテン語こそが、実は英語能力の向上につながるというのが、この章の一つのポイントでもあった。ギリシャ語・ラテン語を通じて英語の語源を知ることで、英単語の意味を正しく理解できるだけでなく、単語力増強に非常に役立つからである。つまり「英語力を上げたいのなら、語源辞書を積極的に利用する」ことが重要だ。



私は英語やドイツ語の本や記事を読んでいるときは、知っている単語であっても、気になる単語では今でも必ず語源辞書をチェックする。それは、昔から英語やドイツ語の辞書を引く時に、語源欄を丹念にチェックしていて語学力がかなり向上したからだ。英語の場合、語源欄をみると文章語(つまり、ちょっと難しい単語)の約7割から8割の語源は必ずギリシャ語かラテン語に行きつく。何度も何度もギリシャ語やラテン語に出会ったので、「果たしてこれらギリシャ語やラテン語の単語は本来のどういった意味はもっていたのか」と疑問に思うようになった。これが一つのきっかけとなり、後日、ギリシャ語とラテン語を独習し、さらにギリシャ語やラテン語の語源辞書まで購入した。長年の経験から、今では英語やドイツ語を読んでいる時に、別に辞書を引かずとも語源が推定できることが多く、直接、ギリシャ語やラテン語の語源辞書を引いて、本来の意味を調べることができるようになった。そうすると一層、各言語の関連がよく分かるようになった。

日本語環境で育つと、あまりにも漢字の影響力が強いため、つい言葉の意味を理解するのに視覚的要素が重要だと考えるようになってしまう。さらに、日本語はいわば孤立語であるため、語源不明の語彙がほとんどであるので、語源を探求するという習慣が文化として定着していない。しかし、ヨーロッパ語(印欧語)は、日本語とまったく逆で、音素が意味と密接に連携している。ヨーロッパ語を語源から学ぶと、言語とはまず、音韻から発達したと知るようになる。

たとえば、私の経験からいうと、知っている英単語数が1万単語位を超えてくると、英語の文章に、英語の土着語(he, it, cut, set などいわゆるアングロサクソン語)の合間に、ギリシャ語やラテン語語源のの難しい単語が見えると、丁度、白黒写真の合間に赤や青の点が混ざっている写真のように、その単語だけ色彩が異なって浮かび上がってくる。この「単語色彩」に鋭敏でない眼しかなければ(語彙力が少なければ)全てが白黒写真にしか見えないのであるが、「単語色彩」に鋭敏であれば((語彙力が多ければ))白黒写真の中に色鮮やかに点在しているギリシャ語やラテン語が目に飛び込んでくる。

一例として、英語、ギリシャ語(古典ギリシャ語)、ラテン語で同じ意味を持つ単語、「健康」と「切る」を比べてみよう。
英語 healing cut
ギリシャ語 hygene tomy (例:dichotomy)
ラテン語 sanus sect

どうだろう、ギリシャ語やラテン語の意味が分かると、知っている英単語の中から数多くの同系統の単語を見つけ出すことができるではなかろうか。英単語の意味を調べるとき、わずかな時間でも語源欄を読む習慣をつければ、知らず知らずのうちに必ずや語彙力が向上すること間違いない!

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第443回目)『ギリシャ語とラテン語は日本の知識人の鬼門(補遺)』



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智嚢聚銘:(第51回目)『中国四千年の策略大全(その51 )』

2024-03-10 09:09:42 | 日記
前回

戦場は兵士にとっては、金儲けと出世のチャンスの場であった。日本の場合は武士という職業軍人の勤務評定の場所であったのだ。つまり、そこでは勝つということよりも、自分の戦いぶりを上司や周囲に認識してもらって、出世を狙うことが最重要であった。それゆえ、身体の働きぶりが人の目に見つくことが重要で、見えないところで策略を使って敵の力を封じ込めたとしても、意味のないことであった。

一方、中国では、策略は最重要課題であった。まず、将兵の厳格な区別があり、兵の命の価値は低く、弓矢や鉄砲の弾除け程度にしか見られなかった。よほどの事がなければ、戦争に勝ったとしても何らの褒賞も得られるわけでもなかった。(現在のロシア兵にもなんとなくそのような雰囲気が感じられるが。。。)それゆえ、兵の戦闘意欲は極めて低く、機会があれば掠奪か、逃亡しようと考えていた。それゆえ、将は子飼いの兵以外には頼みとなる兵はいないので、戦闘では子飼いの兵が無駄死にしないように、策略を練ることに叡智を巡らした。

こういった経緯から、『孫子』《謀攻篇》には力ずくで城攻めをするのは下策であり、上策は策略で敵を屈服させることだと次のように説く。「不戦而屈人之兵、善之善者也。故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。攻城之法、為不得已」

このように策略を重視する中国であるが、毎度のことながら中国の策略には「詐」の要素が強く感じられる。次に示す、何無忌の策略もその一つだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 849 / 廚人濮何無忌王世充王守仁】(私訳・原文)

東晋の末期、桓温が帝位簒奪を狙ったが果たせず死んだ。その息子の桓玄は弱体化した安帝より禅譲を受けて帝位につくことができた。しかしわずか数ヶ月後、劉裕や劉牢之が桓玄打倒に立ち上がり、桓玄の軍を打ち破った。

桓玄は江陵に逃げ、何澹之に湓口で敵を防がせた。何澹之は一隻の無人の船にあたかも桓玄が乗っているかのように大将の旗をたてて豪華に飾らせて、自分は別の船に乗り移った。劉牢之配下の武将・何無忌はこの大将旗の船を捕獲しようとした。他の武将たちは「何澹之はこの船に乗っていないのだから、捕獲しても無駄でしょう」と言ったが、何無忌は「そんなことは百も承知だ。大将がいないのだから守備兵は弱卒ばかりだろう。こちらの強兵で攻めれば必ずや捕獲できよう。この船を捕獲すれば、見かけ上でも敵は大将を失ったことになるので『敵の大将を捕まえたぞ』と宣言すれば味方の士気は揚がるが、逆に敵は意気消沈するだろう。向うが弱気になれば、あとは一気に叩きつぶせるはずだ」。果たして、ひとたび太鼓を鳴らして攻撃して敵の大将船を確保して「何澹之の首を取ったぞ」と叫ぶと、敵は混乱して、散り散りになってしまった。

桓玄既敗、西走江陵、留何澹之守湓口。澹之空設羽儀旗幟於一舟、而身寄他舟。時何無忌欲攻羽儀所在者、諸将曰:「澹之不在此舟、雖得無益。」無忌曰:「固也、彼既不在此、守衛必弱、我以勁兵攻之、成擒必矣!擒之、彼且以為失軍主、而我徒揚言已得賊帥、則我気盛、而彼必懼。懼而薄之、迎刃之勢也!」果一鼓而舟獲、遂鼓噪唱曰:「斬何澹之矣!」賊駭惑以為然、竟瓦解。
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情報作戦勝、というところか。実際に敵の大将を討ち取らなくとも、討ち取ったと思わせることで、敵の戦意喪失を招き、戦いに勝利したということだ。



中国では、将軍というのは、職業軍人の成りあがりだけでなく、王陽明のような例でも見られるように文人も数多い。李密もその一人であろう。だが、謀略の点に関しては、奸知に長けた職業軍人の王世充の方が一枚上手であったようだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 849 / 廚人濮何無忌王世充王守仁】(私訳・原文)

李密は王世充と戦闘状態にあった。王世充は、以前に李密に似た顔の男を一人秘かに捕まえて閉じ込めていた。李密との戦闘が激しくなった時、この男を引き出して来て、陣地の前で大声で「李密をつかまえたぞ!」と叫ばした。味方の兵士は万歳を叫び、敵方(李密の軍)は混乱して、大敗北した。

李密与王世充戦。世充先索得一人貌類密者、縛而匿之、戦方酣、使牽以過陣前、噪曰:「已獲李密矣!」士皆呼万歳、密軍乱、遂潰。
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隋末の武将・李密は、黄牛に乗り牛の角に『漢書』を架けて読んだという故事があるというから、どちらかというと文学青年の雰囲気が強かったのだろう。それで、見事に敵の策略にひかかって敗れてしまった。同じ文人武将といえ、王陽明のように文人として超一流でありながら、軍略も一流な人と比べると、見劣りする。

続く。。。
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想溢筆翔:(第446回目)『YouTube大学に見る中田敦彦の独学術(エピローグ)』

2024-03-03 11:05:39 | 日記
前回

過去2回、YouTube大学を運営している中田氏の独学術に学べと述べてきたが、私は彼の生き方に関して必ずしも全面的には賛同している訳ではない。

一言で言えば、中田氏の熱気・バイタリティの根源にあるのが、成功願望欲であり、これは私の人生観とかなり対極にある。過去の偉人でいえば、野口英世もそういう人であったようなので、別段、私は中田氏の生き方を否定する訳ではなく、私と生き方の基本姿勢が異なるということだ。

また、中田氏は良い意味で「朝令暮改」をよくする人だ。つまり、どれほど本心で納得しているかは測り知れないが、すくなくともYouTubeで自ら述べていることからすると、人からの忠告や諫言をかなりの割合で受け入れている。裏返せば、それほど自分自身の言動に自信を持っていることもあるが、理性的であり、判断能力は高い、といえる。過去の偉人でいえば、この性格は三国志の英雄の一人である曹操に似ているとも言える。もっとも、曹操とは度量の面では比べ物にならない。曹操は極めて大きな度量を持っている。中田氏は自分のサロンである「Progress」の運営に関して、自分のサロンに加入したが、その後、一旦離れて再度戻ってきた受講者は「外様」と呼ぶと、公言している。自分を離れていった人は、裏切ったのと同様で、許せないということだ。



度量の大きさでは西洋ではカエサルがいる。カエサルのかわいがっていた部下が、敵対するポンペイウスに寝返ったことがあったが、その部下が陣地に残していった荷物をわざわざ敵陣にまで届けてあげた、という逸話が残っているほどだ。曹操は度量が広く、諫言は受け入れたものの、容易に人を信じなかった点はカエサルより劣る。曹操の猜疑心の強さは、『正史・三国志』巻1にも載せられている次の話からも伺える。

 ******************
【大意】曹操は、董卓は結局は失敗する人だと考えたので、董卓の下から逃亡した。途中、成皋の友人である呂伯奢宅に立ち寄った。呂伯奢は留守であったが、息子たちが迎えてくれた。夜中、息子たちがもてなしの準備をしているのを、てっきり自分を殺すためだと勘違いした曹操は、家中の人間を皆殺しにして逃げ去った。

【原文】
太祖以卓終必覆敗、遂不就拜、逃歸郷里。從數騎過故人成皋呂伯奢;伯奢不在、其子與賓客共劫太祖、取馬及物、太祖手刃撃殺數人。

世語曰:太祖過伯奢。伯奢出行、五子皆在、備賓主禮。太祖自以背卓命、疑其圖己、手劍夜殺八人而去。

孫盛雜記曰:太祖聞其食器聲、以爲圖己、遂夜殺之。既而悽愴曰:「寧我負人、毋人負我!」遂行。
 ******************

さて、知識を得る、もっとも一般的な方法として読書が挙げられる。読書をする方法、つまり読書術は個人個人、それぞれ方法があるだろうが、私は以前のブログ
【麻生川語録・33】『鯨を一匹まるごと食べる式の読書法』
で述べたが、基本的に原書(原文あるいは日本語訳)を読む方針だ。(参照:『教養を極める読書術』)一方、中田氏の方法はこれとは真逆である。YouTube大学の動画作成の経緯を中田氏自身が語っている動画では、正直に漫画本やあらすじ解説本から作っている時が多いと述べる。しかし、その方法を隠すでもなく、逆に視聴者がそれまで全く興味を持たずにいた本に興味を抱くのであれば、それで良いと主張する。私は彼のこの意見に賛同する。何がきっかけとなるかは問わず、ともかく人類4000年の叡智に邂逅できることは良いことだと考えるからである。ただ、『ファスト教養』(レジー著・集英社新書)でも批判的に書かれているように、教養をつけるのは金儲けのため、ビジネスで成功するため、という趣旨が中田氏の発言の端々で感じられる点については、賛同できないでいる。

結論を言えば、私は中田氏の動画を何本も見たが、その熱心さややり方から「独学術」の一つのロールモデルを見出すことができると思っている。自分で理解した内容を毎日のように積み重ねていくことで、自分の知的水平面を拡大できる。この時、ポイントとなるのはアウトプット(Output)するということだ。彼の場合はその場がYouTubeであるのだが、多くの視聴者から建設的な批評を聴くことで、足りない点、間違っている点を指摘されるのは、良い。

と、かなり中田氏に好意的なことを書いたが、英語の学び方については部分的に全く同意できない点がある。それは会話ができることを至上価値とみなし、とりあえず片言でもしゃべれることがよいとして、口語的な「wanna, gonnaを使えばよい」と断言している下りだ。こういうスラング的な言い方は、英語を母国語ではなく学習言語とする我々はするべきではない。日本で活躍する外国人の中で、パッくんや、デーブ・スペクターなどの使っている日本語が正統的なので、誰もが好感を持てる。ちんぴらややくざのような「おーい、あんちゃん」とか「えーっ、きも~」というような言い方だと引いてしまうであろう。

中田氏のYouTube大学は、確かに賛同できない点や、改善して欲しい点はいろいろとあるが、それだからといって、彼のバイタリティや独学術の良い点を帳消しすることにはならない。「是々非々」で学ぶ点は大いに学んでいくようにしてほしい。
(了)
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智嚢聚銘:(第50回目)『中国四千年の策略大全(その 50)』

2024-02-25 09:30:16 | 日記
前回

日本で「戦国時代」というと、世の中が常に戦争状態で、人々は戦火にみまわれて大変な日々と過ごした悲惨な時代であった、と考えらえるが、中国の歴史を読めば、それこそ戦国時代でない年月はない、といってもいいように紛争・争乱・暴動が多い。共産党政権が強権的に支配している現代の中国においてすら、報道されていないが国内暴動件数は極めて多い(ようだ)。最近の数字は見つけることができないが、ひところは年間18万件ちかく、つまり日々500件ほどの国内暴動が発生したと言われる。それで、例えば、2017年には、国家歳出では、国防費(17兆円)より国内治安維持費(21兆円)の方が2割も多かったとのことだ。そのような時代を長く送っていたので、中国人は平和ボケした日本人には思いつかないような「戦時的知恵」に長けた武将が多い。今回紹介する、達奚武もそのような武将のひとりだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 848 / 達奚武】(私訳・原文)

宇文泰が達奚武に敵将・高歓の軍営の様子を調べてこいと命じた。達奚武は部下の騎兵3人と高歓の武将の服に替えて敵陣に近づいた。日が暮れてから、敵の軍営から数百歩離れたところで馬を下りて、合言葉を盗み聞きすると、また馬に乗って軍営に近づいていった。そして、あたかも夜回りの警護の武将のように、規則に違反している者をみつけては、しょっぴいて鞭で打ったりしながら情報をいろいろと入手して、無事に戻ってきた。

宇文泰遣達奚武覘高歓軍。武従三騎、皆効歓将士衣服。日暮、去営数百歩、下馬潜聴、得其軍号、因上馬歴営、若警夜者、有不如法、往往撻之、具知敵之情状而還。
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一般兵士にとっては、警護の武将などは神にも思えるような強権的存在なので、易々と威令に服してしまうのであろう。こういった習慣は今なお、続いているようだ。その代表的な例が「城管」とよばれる都市警察隊である。上で述べたような中国の暴動の大きな要因の一つが、これら城管によるきびしい立ち退き要求や、賄賂強要であるといわれる。



中国だけでなく、世界で起こった戦争と日本での戦争の一つの大きな違いは、敗戦時の大将の去就だ。日本では、敗戦の責任をとって、「切腹して詫びる」のが武将の美学とされるが、日本以外では、大将はとことん逃げ延びるものだ。力を溜めてリベンジを狙う、いわゆる「捲土重来」を図るのが大将たる者の務めだ。そういった背景を知っていると次の話もすんなりと理解できる。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 849 / 廚人濮何無忌王世充王守仁】(私訳・原文)

春秋時代、華氏が宋に叛いた。宋公は華氏を討った。華登が呉から援軍を借りて、華氏を救いに来たが、鴻口で宋公の軍に敗れた。しかし、それでも華登まだしぶとく敗残兵を集めて、宋と戦い、今度は勝った。戦いに敗れた宋公は意気消沈して国外へ脱出しようとした。公のコックの濮がいうには「私めは主人の為に死ぬことはできても、逃亡のお供はできません。公、暫くお待ちください。」そう行って、コックは兵士たちに「宋公の旗を高く掲げよ、旗を掲げない者は敵だ!」。兵士たちは皆、旗を高く上げた。華氏の軍は宋の兵士勢いに押されて逃げたが、宋の兵士は後追いした。コックは無造作に落ちている首を一つ風呂敷に包んで背負い、走りながら、「敵の大将、華登を討ち取ったぞ!」と叫んで回ったので、華氏は新里で敗北した。

華氏叛宋、宋公討之。華登以呉師救華氏、敗於鴻口。華登帥其余以敗宋師。公欲出、廚人濮曰:「吾小人、可藉死、而不能送亡、君請待之。」乃徇曰:「揚徽者、公徒也!」衆従之。華氏北、復即之。廚人濮以裳裹首而荷以走、曰:「得華登矣!」遂敗華氏於新里。
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コックの機転で、敵の大将の首を討ち取ったというデマが味方を勇気づけ、敵を消沈させた。現在で、これをすれば「フェイクニュース」を流したと罰せられるが、反面から見れば、それほどフェイクニュースの威力は凄いということになる。世間では、フェイクニュースは悪だとの認識が一般化しているが、そもそも戦争は大悪であるから、人情はべつとして、純粋に論理的に考えると、小悪で大悪を終わらせることができれば、「フェイクニュースのような小悪も一概に悪いとは言えない」、との主張もあり得よう。

続く。。。
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