限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第443回目)『ギリシャ語とラテン語は日本の知識人の鬼門(補遺)』

2021-10-03 20:32:24 | 日記
前回は養老孟司氏がギリシャ語、ラテン語の差を意識していないため、専門分野でさえ間違いを犯した実例をとり挙げたが、最近読んだ本にも、もう一つ似た例があったので紹介したい。

ちくま新書に『「理科」で歴史を読み直す』(伊達宗行)という本がある。歴史に表れる理科に関連する事象を取り上げ、いろいろな角度から説明しているユニークな本である。例えば、12進法と聞くとすぐにメソポタミアの科学を連想するが、日本の縄文時代にも同じ発想の数の数え方があったと、三内丸山遺跡の柱の配置を例にとって説明している。

今回問題とするのは、鉄と磁石に関連する西洋語の単語の時代推定に関してである。筆者は、物性物理学専門で金属材料には詳しい人で、本書のP.74にヒッタイトが5000年前に製造技術を編み出した鉄について説明している。ここで取り上げるのは、鉄の呼び名がゲルマン系とラテン語の差についてである。次表(図2-2)に示すようにゲルマン語系の英語及びドイツ語の鉄という単語(iron, Eisen)はラテン語系のフランス語及びスペイン語(fer, hierro)とはっきりと区別できるという。この2系統の単語が違うのは、古代印欧語からこれらの言語が分裂した時代の差を反映している(図3-5)として次のような論理を展開する。

 ===== 【 引用部 】=====
鉄の発見は次節でのべるように約3500年前である。したがってそれまでに分裂していない民族の中では同じような呼び方をしていたわけだ。古代印欧語からゲルマン系とラテン系が分かれたのが約五千年前、だからこの二系の鉄はかなりちがう。一方、ラテン系内のフランス語、スペイン語はお互いによく似ており、この二語の分離は新しい。ゲルマン系の英、独もお互いに近い。仏、西の分離と英、独の分離は約二千年前といわれる。つまり、古代印欧語の分裂は鉄発見の前であり、英独分裂は仏西分裂はその後のことだ、と納得がいく。
 ===== 【 引用部 】=====




私が問題にするのは、筆者(伊達氏)は各言語(英、独、仏、西)の1つの単語(鉄)の現在形から、各言語の分裂時期との関連づけているが、その手法にいささかの疑問を感じる。今更言うまでもないことだが、単語は時代と共に変遷する。つまり、現在使っている単語は昔からずっと固定的であった訳ではない。簡単な例として、牛肉を考えてみよう。現在、英語では beef といい、フランス語では、bœuf というが、ドイツ語では Rindfleish という。筆者(伊達氏)の論理を使えば、英語はむしろ、仏と同じグループに属し、英、仏は、ドイツ語とはずっと以前に分裂していなければならなくなる。

つまり、現在の単語は2000年前の単語と同じではなく、時代とともに変遷するのである。単語の時代変遷を知るには、語源辞書が必要だ。鉄に関して、それぞれの語源を見てみよう。

E1.英語 ― OED = Oxford English Dictionary



OEDでは、英語の綴りというのは「本当に適当だった」ということが嫌になるほどよくわかる。ここにも見られるように、iron という単語は、少なくとも 30以上の異なった綴り方があったことが分かる。それが、現在の綴りに収束しだしたのは11世紀の isern からで、最終的には iron になるのは16世紀以降であるということだ。

E2.英語 ― Klein's Comprehensive Etymological Dictionary of the English Languate



ここには、「iron は多分Illyrianからの借用語であろう」との説明が見える。
ここで、Illyrian(イリュリア語)とは イリュリア(アドリア海の東海岸)に住んでいた人たちの言葉で、地理的にはバルカン半島の北西部から東アルプス地方までをいう。旧ユーゴスラビアの北部で、現在の国名ではスロベニア、クロアチアに該当する。

D1.独語 ― Deutsches Wörterbuch (Hermann Paul)



この単語(Eisen)に対応する単語はケルト語にしかないので、これは鉄器時代にケルト文化から借用した単語だと述べる。しかしケルトもイリュリアからの借用したと想定されるという。

D2.独語 ― Duden Das Herkunftswörterbuch



この単語(Eisen)はケルト語と共通の単語だ。多分、イリュリア語からの借用だろう。というのは、紀元前8世紀のハルシュタットにあったヨーロッパ最古の鉄器文明はイリュリア文明だからだ。

D3.独語 ― Etymologisches Wörterbuch des Deutschen(Edition Kramer)



以上、いずれの辞書も鉄という単語は、イリュリア文明から借用したというが、ここでは、そのような仮説は全く根拠がない(ganz unsicher)と、断言する。というのは、紀元前8世紀のハルシュタットにあったヨーロッパ最古の鉄器文明とイリュリア文明との関連は ― 多分、考古学的見地から ―証明されていないからだ。

L1. ラテン語 ― Dictionnaire etymologique de la langue latine(Ernout, Meillet)



フランス語の fer の元になった、ラテン語の ferrumの語源は不明だとのことだ。そもそも鉄は印欧語が話されていた地域では、知られていなかった。つまり、印欧語には「鉄」という共通の単語は存在しなかったということだ。それで、鉄という単語は言語によって「まちまち」である。

L2. ラテン語 ― Etymological Dictionary of Lain (Michiel de Vaan, Leiden)



「借用語だが、詳細は不明。多分、フェニキアの方言か?」との簡単な説明がある。

F1.フランス語 ― Dictionnaire historique de la langue française(Alain Rey)



fer という単語は、10世紀の終わりにラテン語の ferrum から作られた。鉄が、印欧族に広まったのは、青銅より遅かった。ケルト語とロマンス語の分離以降と思われる。

G1.ギリシャ語 ― Etymological Dictionary of Greek (Robert Beekes, Leiden)



ギリシャ人は、小アジア(ポントス、コーカサス地方)から鉄を得た。鉄という単語も同じところから得たものと思われるが、詳細は不明。語源に関しては、複数の意見があると述べる。

以上の調査から明かなように、ヒッタイトで鉄が発明されたのが筆者(伊達氏)が述べるように、3500年前ほどだとしても、鉄が即座にヨーロッパ各地に流通した訳ではないし、現在使われている単語にしてもその時に作られたわけではない。本稿で取り上げている西洋語に関して金属(及びアンバー)に関連する単語をまとめて眺めると、筆者(伊達氏)の論理が成り立たないケース(ブロンズ、アンバー)があることが分かる。尚、古典ギリシャ語では、銅とブロンズ(青銅)は区別なく、全く同じ綴りである。さらに言えば、銅と亜鉛の合金である真鍮も同じ綴り。
   日本語  ギリシャ語  ラテン語  フランス語  スペイン語  英語  ドイツ語
  鉄  σιδηρος    ferrum    fer    hierro    iron    Eisen
  金  χρυσος    aurum    or    oro    gold    Gold
  銅  χαλκος    cuprum    cuivre    cobre    copper    Kupfer
  ブロンズ  χαλκος    aes    bronze    bronce    bronze    Bronze
  アンバー  ηλεκτρον   electrum    ambre    ambar    amber    Amber


結局、前回の養老氏にしろ今回の伊達氏にしろ、西洋語について言語学的な面について述べるのであれば、少なくとも近代主要ヨーロッパ語の英、独、仏と古典語のギリシャ語、ラテン語についての基礎的な知識、とりわけ語源に関しての知識、を持つべきだと私は考える。その意味で、前回も述べたが、再度次の言葉を述べておきたい。
総じて日本人は英語以外の外国語にほとんど関心をもたないし、英語に関しても語源まで関心を広げない。世界を舞台にして文化的発信を考えているなら、日本人にとってはどうでもいいことでも、ヨーロッパ文化において重要な意味をもつギリシャ語、ラテン語の語彙の鬼門を克服して欲しいものだ。
コメント
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