★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

神話と青春

2024-07-17 23:21:04 | 文学


 ――年齢。
 ――十九です。やくどしです。女、このとしには必ず何かあるようです。不思議のことに思われます。
 ――小柄だね?
 ――ええ、でもマネキン嬢にもなれるのです。
 ――というと?
 ――全部が一まわり小さいので、写真ひきのばせば、ほとんど完璧の調和を表現し得るでしょう。両脚がしなやかに伸びて草花の茎のようで、皮膚が、ほどよく冷い。
 ――どうかね。
 ――誇張じゃないんです。私、あのひとに関しては、どうしても嘘をつけない。
 ――あんまり、ひどくだましたからだ。


――太宰治「虚構の春」


人形やマネキンには現在への不信がある。もっといえば固有名詞への不信がある。

氏名が忘れられ、三冠王とか怪物とかゴジラとか二刀流という言葉だけが残った未来では、――三度王様になった人が引退する頃腕が丈夫な怪物があらわれ、北陸にあらわれたゴジラが米国に渡ったし、怪物もいつのまにかアメリカに渡った。少し後に長身の二頭龍がアメリカで暴れているころ、元アメリカ王が殺されかけ――みたいな神話になったりするのであろうか。

しかしやはり神話さえも固有名と大いに関係あるとおもうのである。

無名の人々は、歴史ではなく人生に夢を見るものである。青春などはすぐ去ったくせに夢として回帰する。しかし、最近はそう簡単に回帰しなくなってきている。そもそも青春時代がどこかしら価値が高く見えていたのは、――その本人がいい歳になったときにはその惨めな姿をながめていた親は既になく、若者達は彼ら年上たちをはじめから年上なだめなやつだと思っているなかの、老いつつある本人の孤立のなかでの思い出だったからかもしれない。で、いまは親も長生きで子どもたちからも友達扱いされた結果、いっこうに青春時代が価値ある「青春時代」に昇天しない。

戦後は、青春(2)みたいな風に考えられたこともあった。しかしそれはどちらかというと、その前の「抵抗の時代」を評価することであったと思う。雪解けを青春と言いたい気分はわかる。そういえば、中学高校にそんな側面があるからかもしれない。しかしながら、小学校とおなじように、いま、我慢の時代だ、ながく抵抗を続けるしかないんだと思っている人も多く居たと思う。が、小学校と違って、抵抗の時代を長く我々が記憶できているとは限らず、しらないうちに、まずい状況に改革されてしまうのも世の常なのである。

享楽の同志

2024-07-16 23:44:33 | 文学


行者これを聞きて大きによろこび、洞の中を飛出で本相を顕し、八戒を呼びて黄風王が云ひし言を物語り、霊吉菩薩の住處はいづくなるらんと、二人商議してありける所に、忽ち老翁一人歩行來れり。八戒の曰く、「師兄此老人に問ひ給はんはいかに」行者點頭いて老人の前に走り寄り、「靈吉菩薩の住み給ふ所や知り給ふ」と尋ぬるに、老人答へて「此正南に小須彌山といふ山あり、是靈吉菩薩の住所なり。

メダカの同志――ではなく、自らの発言でさえ、2分割の、あたかも二人のテンポで、――同志的なテンポでたたみかける猪八戒である。

わたくしは一度、清原和博氏のマネージャーになった夢を見たことがある。悩めるボスを全力でサポートする者の生き方は道徳化しようのない。何か享楽のにおいがする。猪八戒が享楽の人であることは、ちょうど悟空のパートナーであることとどことなく響き合っている。

父達と若者達

2024-07-14 23:58:27 | 思想


――あなたの仕事において、父権的――アイデンティティ主義的原理主義は今日においてはもはや真の敵ではないというモチーフが何度となく顔をのぞかせますが……。

危険を承知であえて仮説を言わせてもらいましょう。今日、資本主義の晩年における支配的なモデルは、もはや子供のいる父権的な家族ではなく、むしろ契約で結ばれたカップルなのです。子供はもはや家族の角をとって調和のとれた全体にする補足物ではなく、できるだけ手早くどこかにやってしまいたい追加物なのです。
 父権制に対するたいていの批判は、父は二人いるという事実を見落とすという致命的な間違いを犯しています。一人はエディプス・コンプレックスの父、象徴的死んだ父、〈父の名〉、享楽を感じない、享楽の次元を無視する〈法〉の父です。もう一人は、「原初的な」父、現実に生きている猥褻な超自我の肛門的姿、「〈快楽の主人〉」 です。 政治的なレベルでいえば、この二つは、伝統的な〈主人〉と現代的「全体主義的」な〈指導者〉に当てはまります。フランス革命からロシア革命にいたる、あらゆる象徴的革命においては、象徴的〈主人〉 (フランス国王やロシア皇帝)の率いる無能な旧体制を打倒しても、結局は、「肛門的な」 父―〈指導者〉 (ナポレオンやスターリン)というますます「弾圧的」な人物の支配に行き着きました。これは、フロイトが『トーテムとタブー』で説明した継承の順序(殺された原始的な〈父―享楽〉が、〈名〉という象徴的な権威の姿を借りて再び戻ってくる)のとは逆であり、王位を引きずり降ろされた象徴的な〈主人〉が猥褻な現実の指導者となって戻ってくるという順序です。 つまり、フロイトはこの点で、ある種の遠近法の錯覚の犠牲となっています。「原始的な父」とは実は、新しい父、非常に現代的な父、 革命後の現象、伝統的な象徴的権威の解体の結果なのです。


――ジジェク「自己弁明――セルフ・インタビュー」


単に勉強不足なのであろうが、「論語」については、思い返すことで何か納得できるものがあまりない。そもそも意味がよく分からないテキストだということもあるが、「論語」にとって何が〈父〉なのかよくわからないというのもある。そういえば、かずある少女まんがも猥雑な父を望んでいるような気がする。いまやっている大河ドラマも、紫式部と道長の恋という猥雑さに導かれているが、武士の世以降ではあるまいに、「源氏物語」にはもう少し象徴の父を信じている側面があるきがする。ところが、三島由紀夫がいうように、それは既に色好みの権威という側面が強い。しかしだからこそ、紫式部は仏教によって地獄に落とされなければならなかった。

今日のドラマでは、紫式部と道長がまた不倫を――けしからんにもほどがあるが石山寺をラブホテルに使って――行っており、結局彼女の一人娘は道長の子であるという――、もうどうでもよくなってきたが、紫式部は狂言綺語で地獄おちたのではなかったのか。素で地獄に墜ちていたのである。

とまれ、――いろいろな恋愛小説にまみれ、源氏物語も一応さいごまで読んでみたいなわたくしになると、もはや誰が誰とくっつこうと驚かない。彰子がまともに挨拶できるようになるのかみたいな場面で動悸が止まらない。青春は去り、教育者の業だけがわたくしに確認されました。

しかし、翻って考えてみると、いまからでも遅くはない、おれも今から総理大臣と不倫すれば子ども生んで源氏物語も書けるのではないだろうか。もはや、広田照幸『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』みたいな学校的正論をあるていど支持せざるを得ない立場にあるわたくしには夢の又夢である。わたくしは既に死に、象徴の父となっている。

ところが、政治の舞台となると、老人同士の争いが流血沙汰を引き起こす。おそらく、若者達が象徴の父面をするモノだから、老人達が猥雑な父を演じなければならなくなったのだ。ふつうに真面目な役人だと思っていた細が、「山本五十六が敵にやられたと思っているやつは世間知らず。絶対に身内にやられた」と主張していたので、インテリ達が陰謀論を攻撃するのもインテリ内戦争にみえるのかもしれないとおもった。防衛省の処分218人みたいな事件があって、令和の226ではないかとみんな思うわけであるから、細の言うこともわからないではないのだ。226のときには、――のちのこの事件を文学にしようとする連中も――青春に権威をもたせようとしてつねに事件とセックスを組み合わせていた。

アメリカも、老人達ばかりに猥雑さを任せておけなかったらしい。今日の朝、トランプが青年に狙撃される事件が起こった。

紫陽花

2024-07-13 23:59:14 | 文学


呆れし少年の縋り着きて、いまは雫ばかりなる氷を其口に齎しつ。腰元腕をゆるめたれば、貴女の顔のけざまに、うつとりと目をみひらき、胸をおしたる手を放ちて、少年の肩を抱きつゝ、ぢつと見てうなづくはしに、がつくりと咽喉に通りて、桐の葉越の日影薄く、紫陽花の色、淋しき其笑顔にうつりぬ。


――泉鏡花「紫陽花」



喧噪の対立物

2024-07-12 23:48:07 | 文学


ほんの二、三分の事件じゃないか。私は、まだ若いのです。これからの命です。私はいままでと同じようにつらい貧乏ぐらしを辛抱して生きて行くのです。それだけのことなんだ。私は、なんにも変っていやしない。きのうのままの、さき子です。海水着ひとつで、大丸さんに、どんな迷惑がかかるのか。人をだまして千円二千円としぼりとっても、いいえ、一身代つぶしてやって、それで、みんなにほめられている人さえあるじゃございませんか。牢はいったい誰のためにあるのです。お金のない人ばかり牢へいれられています。あの人たちは、きっと他人をだますことの出来ない弱い正直な性質なんだ。人をだましていい生活をするほど悪がしこくないから、だんだん追いつめられて、あんなばかげたことをして、二円、三円を強奪して、そうして五年も十年も牢へはいっていなければいけない、はははは、おかしい、おかしい、なんてこった、ああ、ばかばかしいのねえ。
 私は、きっと狂っていたのでしょう。それにちがいございませぬ。


――太宰治「燈籠」


「紅殻のパンドラ」という士郎正宗原作の漫画――、成人漫画的な要素を抜いたら家族の前でも読める。こんなことは明らかであるが、うえのような、男性水着を盗んだ娘の訴えを朗読できるかというのはかなりテクニックを要する。

ある古典文学の論文を読んでいたら、少し前「不倫は文化」というの発言が失笑された、とあった。が、果たしてあれは失笑されたのであろうか。共感が失笑という形をとることがあるから、それかと思ったが、それとも違う。結局、それは、男性水着を盗んだ娘に近いものなのである。

結局、この男性水着を盗んで「牢はいったい誰のためにあるのです」と叫ぶ体の表現を文化と呼ぶべきで、これが何処かしら謙抑的すぎるとかんじたからといって、言葉と行動を矛盾させたりするところまでゆくとなにか妙な気がする。柄谷行人の回想によると、唐十郎は柄谷を良いお客として讃美しながら「お前はなんで俺のことをもっと評価しないんだ」と詰め寄ったことがあるらしいが、そりゃそうだろうと思う。柄谷氏のかくものははじめからそれまでの文芸評論的な賛辞や批判をやめることが大きなモチーフで、言葉的には浅田的な「逃走」でもあった。――にもかかわらず、柄谷氏の発想はいつも誰かと仲良くしている性格がある。これがかれの行動である。唐にしても柄谷にしても、アイロニーを超えてこけおどしになる危険性があるところまで行っていた。彼らは自覚的だったが、それに言葉として影響を受けすぎた連中は違う。ただのイデオローグになるのである。

SF漫画「ロボ・サピエンス前史」には傑作の噂が立っていた。読んでみたらほんとの傑作だった。しかし、この漫画に流れる時間の静寂は、おそらく。イデオローグの喧噪に対立して、ある種のファシズムみたいに支配のエネルギーとしてあらわれたものだ。おそらくは科学が喧噪と対立していたように。東浩紀氏は喧噪こそが民主主義の条件みたいにいうのだが。果たして、そこまで人間は民主主義に対して寛容であろうか。

あまりに若者的な

2024-07-11 23:20:29 | 文学


――そう、まあ知り合いですね。……江戸川の立派なお邸のお嬢さんだよ、お父さんは男爵でね。電話をかけましょう。――君は不良少女なぞと云ったことを、勿論みんなの前でお詫びする気でしょうね。」
 井深君は、この少女の身元を証明するために本物の恋人の兄のところへ電話をかけよう、そしてあとで訳を云ってあやまればいいと思ったのである。井深君はこの思いつきに嬉しくなって水兵服の少女の方をみた。しかし、少女は井深君と顔を合せることを恐れでもしているように、部屋の隅っこの方へ体を向けて顔をふせていた。


――渡辺温「少女」


最近の学生はテレビを見ないという都市伝説があるが、すごく見てる奴も当然居るので注意が必要である。のみならず、――出勤前に朝顔の植えているあたりから「今日は見ないの?」という空耳が聞こえるようになってからが人生の本番だと思っている。

若者じみて、聖悠紀の『ファルコン50』読んだが、けっこうよかった。しかし、この漫画を夢中に読んでいた者はたぶんいま還暦ぐらいではなかろうか。

宮台真司氏も退職したが、一方のヒーローであった大澤真幸氏の「世界史の哲学」を少し読んでみると、案外文体が今時で、――文体から言ってもはやく生まれた東浩紀氏みたいなところがあると思った。そういえばむかし予備校や塾で働いていたときに大澤真幸のファンが結構いた。案外東氏も大澤氏も、そういえば内田樹氏も入試問題に使われることがおおい。彼らの文体は、もう少しのところで粘らない。試験時間を守るという感じがする。

それは試験時間を守っているのではないが、働き方改革が大事な話し合いを打ち切る手段になっている場合がどうせある。アレントじゃないが労働にも短縮すりゃいいものばかりじゃなくいろいろあるのだ。

負け猿・負け豚・負け河童

2024-07-10 23:28:31 | 文学


行者鐵棒を揚げて門の扉を砕るまで打たたき、「我が師父をかへせ。かへさずんば此洞を微塵にせん」と大音に罵りたり。此時洞の中には、黄風大王三蔵法師を見て申しけるは、「此僧原大唐において徳高き聖僧なり。是が弟子に孫悟空といふ神通廣大の者ありと聞及べり。他が尋ねて来るや否やを待つて、此法師を吃ふべし」とて椿木に三蔵をからめ付けし庭に、行者洞門に来つて、かへせかへせと叫びけるに、「さればこそ孫悟空ならめ」とて、虎先鋒洞門をおしひらき、行者に向うて討つてかかれば、行者鐵棒を水車にまはし、さんざんに戦ひしが、虎先鋒いかでか行者に敵すべき、身をかへし山の小路を迯行きけるに、「猪八戒爰に有つて你を待つ事巳に久し」と云ひも終らず、釘鈀を拿のベ只一突に虎先鋒を殺したり。

学生に「負け犬」といったらハラスメントかもしれないが、「負けチワワ」とか「負けゴールデンレトリバー」とかはどうなるのであろう。むろん問題は負けていることの内実であり、負けた後に何をしているかだ。

最近西遊記を読んでいるから、負け犬よりも負け猿とか負け豚とか負け河童とか負け三蔵みたいなものの複雑さにわたくしは惹かれる。そのことに目をつぶり、だんだん負けたことをすら忘れている作品に、中島敦の「悟浄嘆異」がある。そもそも負けていない設定になっている「ドラゴンボール」なんかはまったく西遊記とは違うものである。――とおもったら、物語が進むにつれ、悟空より強い者がたくさんでてきている。たくさんたくさん出てきて悟空は死んでは生まれ変わり死んでは生まれ変わり――もはや、鳥のウンコのなかから蘇生する植物みたいな存在になっている。

遠くで雷が鳴っている。

羞恥心をめぐる歴史

2024-07-09 23:15:58 | 文学


自己責任論もケアの論理も、個々の現実に何が起こり誰に負担を押しつけているのか想起されない限り意味がない。何事も調子に乗ったらいけない。音楽を学生時代やっていたことで意味があったと思うのは、練習しないとできっこない、しかも練習不足でもえいっと音を出さなければいけない、という言い訳無用の世界にいたことにつきる。今考えてみても、当時の思いとしても、穴があったら入りたい思うレベルの羞恥をわたしはおぼえる。一般意志だけに頼りさえすればなにかできると思う人は、そういうものが足りないと思うのである。

もしかしたら、こういう羞恥心とそれからの逃避や無知は、昔からだったのかも知れない。

萩原規子氏が『私の源氏物語ノート』の冒頭で、源氏物語は原文が一番はやく読める(文字がすくないから――)でも出勤に縛られた日常では読み続けるのがむずかしいと言っている。源氏を退職後に読みたいという方がたくさんいるけれども、確かにみんな直観するのであろう。源氏物語の、あの休暇が続くみたいなオーラは独特で、われわれの羞恥心をなかったことにしてくれるところがある。むろんなかったことにはならないが、物語へ没入してそれをわすれた生理的快感の如きものがある。

一方、その羞恥心を最初から0にしてしまおうとするのが、「平家物語」であり、武家社会というものはそういうものかもしれない。四書五経の世界は、武士の世界になって遅ればせながら本物の規則として立ち現れることになったのではないか。

潜伏する地方の青春

2024-07-08 23:52:53 | 文学


「ああ、あれですか、コスモスに花が咲いたのですよ。夜になるまでお待ちなさい。今夜は月夜です。夜になったら、お母さんも一寸上の方まで行ってみます。その時、ちょっと覗いてみたらいいでしょう」
 もぐらの子供は、夜がくるのをたのしみに待っていました。
「お母さん、もう夜でしょう」


――原民喜「もぐらとコスモス」


Perfumeがすでに35歳であると知りショックを受けたが、のみならずおれはもう**歳とか想っているファンの皆さんに朗報です。うちの蛙に比べれば35歳も**歳も一緒です。もはや同い年と言ってよい。

――という感じで、くだらないことしか思いうかばない今日この頃であるが、暑さのせいであろう。「書を捨てよ、町へ出よう」というのが最近、日本が熱帯ではなかった時代の懐かしい主張と化した。

こういう季節には、大交響曲を聴いている頭の余裕がない。だから次のような屁理屈がうかんだので紹介する。――ラジオやテレビでポップスを流すときに途中まで聴かせてあとは音量絞って解説や紹介があるのがあれだけど、クラシックでも解説を重ねながら流してゆくのももしかしたら可能かも知れない。音楽は会話の一種かもしれんので。

今日は授業で『闇の自己啓発』を使った。――それは、闇と言うより、雌伏する者たちの現代の青春の書であった。授業のテーマはでは、「熱力学と文学」みたいなものであった。で、コミュ力、生きる力、読解力、人間力、漢字力、モラリッシュエネルギー、このなかで一番邪悪なのはどれかということで盛りあがった(私が)。青春のエネルギーとはなんであろうか?上のような屁のようなものではないことは確かである。

近代の青春については考え中である。佐々木孝文氏の島根文士の研究で、地方の近代化に一定の役割を果たした文学運動が、昭和期になりスタイルと化した文士が陳腐化し次は映画に向かった、という分析があった。そうだとしたら、ある意味すごく劇的な展開で、長野県だともう少し近代化運動としての文学運動は長く続いたのかも知れない。想像するに、長野県の運動というのは、必ずしも協働現象ではなく、例えば、村の地方文士予備軍はほんとに学校にひとりぼっちで、まるで隠れキリシタンみたいになっていた事例があるとおもう。実際、戦時下では文士と信仰者が組んで秘かに活動する例もあった。で、その結果、硯友社や白樺派まがいのものが保存されて急に戦後を迎えることさえあったように思う。もちろん、綴り方事件みたいなものを支えた運動や京都学派系の読書会みたいなものもたくさんあるわけだが、もっと広く潜っているものがあるのだ。あと、漢詩や和歌を読むグループはわりと堂々と雑誌を作り続けていたりする――つまり表に潜っているものがある――し、北部中心の?謡の文化なんかはつい最近まで勢いがあった。保守的なもののようにみえるけど、たぶんこれにもいろいろ方向性が違う集団がたくさんあったはずだ。

国際根拠地論と加速主義――36度を中心に

2024-07-07 23:47:40 | 思想


甲州ではイワヒバ(方言イワマツ)が藁葺屋根の棟に列植せられてある。東北地方では同じく藁葺の家根草にまじって往々オニユリの花が棟高く赤く咲いていて、すこぶる鄙びた風趣を呈している。

――牧野富太郎「植物一日一題」


ある右派の本を読んでいて思ったのは、右派は感情の問題を大事にしなきゃいけないはずなのにそうでもなく、むしろ論理的能力とか言うているというフシギである。いつのまにか、左派の方が「怒っているから怒っていい」みたいな芸風になってしまった。きのう、わたくしはマッチョマンが好きとか言ってたが、精神まで筋肉質になってしまえば、右派はむしろ論理でせめようとするであろう。だいたい、その左派の感情とやらが、――これが右派も気付いているがどこかしら自分がかわいいと思っているやつの感情なのである。テレビタレント出身者はだめだな。。。

先日、映画「バトルロワイヤル」、その二本ともみた。なるほどこれが当時問題になってた映画だったか。最初の奴が、日本の中で殺し合いをやるという我々の本質に迫ったものであったのに、Ⅱの方は、大人憎し友情すばらし、――これで逝くとおもったら最後、国際根拠地論みたいなおちがついていて、むしろこれが問題だろう。いまの左派は日本赤軍を笑えないのだ。むしろ何もやらなかったぶんだけかわいいほどに空想的な国際?根拠地論もどきになっている。

――とにかく、東京都知事選は重大だから香川県民にも投票させろと。断然空海に投票するしかない。しかし空海もいまいちなところはある。空海のだめなところは、池をたくさん掘って海紛いをつくったのに、空を制御できないところで、いまも香川は酷暑で人民は苦しんでおるぞ。

今日も36度であった。

気候変動に欺されてはならぬ。パソコンやらインターネットで世界が加速しているとおもいきや、実際は手書きと口頭での連絡の方がはやかったりするのと同じで、じつは世の中加速的に遅くなっている。研究もそうだし。ついにファシズムへの顛落の過程とやらをゆっくりつぶさに見学できる秋が来た。変化の激しい現代社会というのも嘘だったな。我々は、ベルグソンや西田が目を凝らしていた過去と未来が混淆して歪んだ自己像をついにみるかもしれない。今度は、小林秀雄が見たという母親蛍みたいなものではすまない。幽霊は出ない。自分もどきだけがでる。

一日一笑――マッチョマンが好き

2024-07-06 23:55:35 | 文学


妖精の曰く、「何ぞかくのごとく我を恨むるぞ。我此家の茶飯を吃ふといへども、又田島を耕し、家業の事をおこたらず。你が衣服食用に至るまで、皆我設にて事足れり。其余你が心にかなはざるは何事ぞや」と問ふ。行者の曰く、「今日我が父母外面にありて宣ふは、我婿はあやしき者にて、人間のたぐひにあらず、今修験者をまねきて逐出すべし、と云ひ給へり。 我是を聞て、甚だ心にこれをくるしむ」妖精の曰く、「你心を用ふる事なかれ。我原來天罡變化の術あり。又九歯の釘を持ちたり。両者をかおそるべき」行者曰く「我が爹の宜ひしは、斉天大聖といふ通力の神をまねき、君をとらへしめんと云ひ給へり。是にも恐れ絵はぬや」といふ。其時妖精おどろきたる顔色にて、「それこそ天宮を閙かせし弼馬温孫悟空なり。渠もし来らば敵しがたし」とて座を立ちて出でんとす。此時行者本相をあらはし、「我は則孫悟空なり」妖精これを見てあわておどろき、忽ち萬道火光と化し、山をさして逃走れば、行者も雲に騰がり、のがすまじとて追うて行く。

さっきマッチョマンが車やヘリを乗り回しているだけのアメリカ映画?(=イメージ)がテレビでやってたが、これだとさすがに病まない気がするので、――日本でも、合理的配慮・非合理的配慮まがいドラマばっかりやってないで、悪人を暴力でぶっとばす映画をもっとやるべきだ。あと悪人の心理描写禁止ね。

都知事選挙の有象無象の候補者達の厭がらせ合戦をみていると、ある意味、他人の心に寄り添っているから戦いがいやがらせ的になるとしかいいようがない。相手が悪人に見えているのではなく、自分とたいして違わないキャラクターと想っているから、戦いがもう一人の自分と戦っているような自意識的ないやらしさを帯びるのだ。

漫画は小学生で卒業しろというのはある意味正解である。さっきも、どうみても、白馬の王子様がやってくる漫画の焼き直しの漫画のドラマをテレビでやってたが、見ている人たちが何歳なのか知らねえがもう手遅れっていうか、白馬の王子様は絶対に来ないといふことを中学生ぐらいから自覚しないからイカンのだ。日本人は、人生を諦めるのが遅すぎる。常識的に考えて、中学生あたりで普通諦めるべきだろう。――だいたい白馬の王子様に掠われてとか、普通に法律を破る犯罪者に掠われてどうするんだよ。どうみても細い癖に暴力ふるう奴だろ、もっとおとなしいまじめなやつに惚れろよ――といいたいところだが、マッチョマンはおれも好きなので、マッチョマンでやさしいやつにしろ。

浅田彰って云うのは、近代日本の生み出した成果だね。ぜひ民族の記念碑にすべく剥製にしてゼロ戦の隣りに飾るべきだな

――福田和也『罰あたりパラダイス』


福田氏の世代までは、まだ論敵=浅田彰に対する戦いを、こういう風に描いてもべつに嫌らしさがなかった。浅田彰は堂々としたマッチョマン的な論客だ。「逃走論」を読めば、いじいじした戦いを拒否することがその主旨であると分かる。福田氏もそのスピリットにおいては同じだった。

今日、山形県で、一日一笑が努力義務になったというニュースが流れてきた。あまりの頭の悪さに笑ってしまったが、――ネット民は冷笑爆笑嗤(o゜∀゜o)藁などいつも笑っているし、近代文学などでも人物達がひとりで莞爾しているのでたぶん簡単だ。ゲーム制限時間の香川とともに此の世の笑いものになったことを祝してみんなで笑うことにしたい。――とにかく、笑顔とか笑いに種類があることすら忘れている頭が完全にいかれている人たちには退場してもらった方がいい。

たぶん36度ぐらいか

2024-07-05 23:20:48 | 日記


その他の曲にはなかなか複雑な仕組みのものもあったが、たとえば大小の弦楽器が多くは大小の曲線の曲線的運動で現わされ真鍮管楽器が短い直線の自身に直角な衝動的運動で現わされたり、太鼓の音が画面をいっさんに駆け抜ける扇形の放射線で現わされたりする場合が多いようである。トランペットやトロンボンのはげしい爆音の林立が斜めに交互する槍の行列のような光線で示されるところもあったようである。


――寺田寅彦「踊る線条」

岡山に出張――鬼に遭う

2024-07-03 23:05:29 | 日記


常世神とは――此はわたしが仮りに命けた名であるが――海の彼方の常世の国から、年に一度或は数度此国に来る神である。常世神が来る時は、其前提として、祓へをする。後に、陰陽道の様式が這入つてから、祓への前提として、神が現れる様にもなつた。が、常世神は、海の彼方から来るのがほんとうで、此信仰が変化して、山から来る神、空から来る神と言ふ風に、形も変つて行つた。此処に、高天原から降りる神の観念が形づくられて来たのである。今も民間では、神は山の上から来ると考へてゐる処が多い。此等の神は、実は其性質が鬼に近づいて来てゐるのである。

――折口信夫「鬼の話」