★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

父達と若者達

2024-07-14 23:58:27 | 思想


――あなたの仕事において、父権的――アイデンティティ主義的原理主義は今日においてはもはや真の敵ではないというモチーフが何度となく顔をのぞかせますが……。

危険を承知であえて仮説を言わせてもらいましょう。今日、資本主義の晩年における支配的なモデルは、もはや子供のいる父権的な家族ではなく、むしろ契約で結ばれたカップルなのです。子供はもはや家族の角をとって調和のとれた全体にする補足物ではなく、できるだけ手早くどこかにやってしまいたい追加物なのです。
 父権制に対するたいていの批判は、父は二人いるという事実を見落とすという致命的な間違いを犯しています。一人はエディプス・コンプレックスの父、象徴的死んだ父、〈父の名〉、享楽を感じない、享楽の次元を無視する〈法〉の父です。もう一人は、「原初的な」父、現実に生きている猥褻な超自我の肛門的姿、「〈快楽の主人〉」 です。 政治的なレベルでいえば、この二つは、伝統的な〈主人〉と現代的「全体主義的」な〈指導者〉に当てはまります。フランス革命からロシア革命にいたる、あらゆる象徴的革命においては、象徴的〈主人〉 (フランス国王やロシア皇帝)の率いる無能な旧体制を打倒しても、結局は、「肛門的な」 父―〈指導者〉 (ナポレオンやスターリン)というますます「弾圧的」な人物の支配に行き着きました。これは、フロイトが『トーテムとタブー』で説明した継承の順序(殺された原始的な〈父―享楽〉が、〈名〉という象徴的な権威の姿を借りて再び戻ってくる)のとは逆であり、王位を引きずり降ろされた象徴的な〈主人〉が猥褻な現実の指導者となって戻ってくるという順序です。 つまり、フロイトはこの点で、ある種の遠近法の錯覚の犠牲となっています。「原始的な父」とは実は、新しい父、非常に現代的な父、 革命後の現象、伝統的な象徴的権威の解体の結果なのです。


――ジジェク「自己弁明――セルフ・インタビュー」


単に勉強不足なのであろうが、「論語」については、思い返すことで何か納得できるものがあまりない。そもそも意味がよく分からないテキストだということもあるが、「論語」にとって何が〈父〉なのかよくわからないというのもある。そういえば、かずある少女まんがも猥雑な父を望んでいるような気がする。いまやっている大河ドラマも、紫式部と道長の恋という猥雑さに導かれているが、武士の世以降ではあるまいに、「源氏物語」にはもう少し象徴の父を信じている側面があるきがする。ところが、三島由紀夫がいうように、それは既に色好みの権威という側面が強い。しかしだからこそ、紫式部は仏教によって地獄に落とされなければならなかった。

今日のドラマでは、紫式部と道長がまた不倫を――けしからんにもほどがあるが石山寺をラブホテルに使って――行っており、結局彼女の一人娘は道長の子であるという――、もうどうでもよくなってきたが、紫式部は狂言綺語で地獄おちたのではなかったのか。素で地獄に墜ちていたのである。

とまれ、――いろいろな恋愛小説にまみれ、源氏物語も一応さいごまで読んでみたいなわたくしになると、もはや誰が誰とくっつこうと驚かない。彰子がまともに挨拶できるようになるのかみたいな場面で動悸が止まらない。青春は去り、教育者の業だけがわたくしに確認されました。

しかし、翻って考えてみると、いまからでも遅くはない、おれも今から総理大臣と不倫すれば子ども生んで源氏物語も書けるのではないだろうか。もはや、広田照幸『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』みたいな学校的正論をあるていど支持せざるを得ない立場にあるわたくしには夢の又夢である。わたくしは既に死に、象徴の父となっている。

ところが、政治の舞台となると、老人同士の争いが流血沙汰を引き起こす。おそらく、若者達が象徴の父面をするモノだから、老人達が猥雑な父を演じなければならなくなったのだ。ふつうに真面目な役人だと思っていた細が、「山本五十六が敵にやられたと思っているやつは世間知らず。絶対に身内にやられた」と主張していたので、インテリ達が陰謀論を攻撃するのもインテリ内戦争にみえるのかもしれないとおもった。防衛省の処分218人みたいな事件があって、令和の226ではないかとみんな思うわけであるから、細の言うこともわからないではないのだ。226のときには、――のちのこの事件を文学にしようとする連中も――青春に権威をもたせようとしてつねに事件とセックスを組み合わせていた。

アメリカも、老人達ばかりに猥雑さを任せておけなかったらしい。今日の朝、トランプが青年に狙撃される事件が起こった。