自己責任論もケアの論理も、個々の現実に何が起こり誰に負担を押しつけているのか想起されない限り意味がない。何事も調子に乗ったらいけない。音楽を学生時代やっていたことで意味があったと思うのは、練習しないとできっこない、しかも練習不足でもえいっと音を出さなければいけない、という言い訳無用の世界にいたことにつきる。今考えてみても、当時の思いとしても、穴があったら入りたい思うレベルの羞恥をわたしはおぼえる。一般意志だけに頼りさえすればなにかできると思う人は、そういうものが足りないと思うのである。
もしかしたら、こういう羞恥心とそれからの逃避や無知は、昔からだったのかも知れない。
萩原規子氏が『私の源氏物語ノート』の冒頭で、源氏物語は原文が一番はやく読める(文字がすくないから――)でも出勤に縛られた日常では読み続けるのがむずかしいと言っている。源氏を退職後に読みたいという方がたくさんいるけれども、確かにみんな直観するのであろう。源氏物語の、あの休暇が続くみたいなオーラは独特で、われわれの羞恥心をなかったことにしてくれるところがある。むろんなかったことにはならないが、物語へ没入してそれをわすれた生理的快感の如きものがある。
一方、その羞恥心を最初から0にしてしまおうとするのが、「平家物語」であり、武家社会というものはそういうものかもしれない。四書五経の世界は、武士の世界になって遅ればせながら本物の規則として立ち現れることになったのではないか。