★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

旅的必然と政治ならびに文化

2024-07-31 23:13:35 | 文学


出家立志本非常 推倒從前恩愛堂 外物不生閑口舌 身中自有好陰陽
功完行滿朝金闕 見性明心返故鄉 勝似在家貧血貪 老來墜落臭皮嚢

婦人是を聞き大きに怒り、「這和尚かかる不禮を云うて我をあざむく事何ぞ甚しき。再び你徒と説話をせじ」とて裏面に入りて腰門をとざしたり。八戒此動静を見てこころに三蔵をうらみ、「師父をはじめ兄弟、皆是情なきにあらず。世の諺にも、和尚は是色中の餓鬼なりといへり。誰か今般の美事をきらふ者あらん。你徒好事を都て打破り、燈火もなく茶さへ興ふるものなきは、いかに苦しと思はずや。たとへ你等渇するとも、自からもとめたる事なればこらへもせん。此馬こそ便なきわざなれ。饑につかれなば、明日人を乗することあたふまじ。我馬を引いて草を喂ふべし」とつぶやきつつ、韁綱を引きて出去ける。行者見て沙悟浄に申しけるは、「此獃子何處へ行くや。跡について窺び見るべし」とて身を變じて蜻蛉と化し、八戒がなすありさまを見るに、八戒は馬に喂草んともせず、此家の後門へまはり窺ふに、向の婦人、三人の女兒と共に、菊の盛りなる花を着てたはむれるたりしが、三女八戒を見て恥かしけに門内へかくれたり。


長い旅においては、しばしば言葉も荒くなる。4人とも婿になってと頼む未亡人に対し、三蔵も「婿になんかなれば、生臭いものを食べて歳をとり、臭い皮袋に堕落するわ」とほとんど悪口を言い放つし、つられて猪八戒もそういえば坊主は是色餓鬼と言ったもんだ、と女達の家に引き返すのである。しかしこれを道徳的に非難しても仕方がない。ただの旅的必然である。

オリンピックに足りないものと言えば、猪八戒の「和尚は色餓鬼」みたいなものである。旅がないのである。――オリンピックにかぎらないが、昨今のスポーツが科学的成果といい子ちゃん的なスピーチのイベントとなることで、悪口の余地がない娯楽でなくなりつつあることと、オリンピックの競技以外が悪口の対象になってきていることは、ネットの影響だけでは説明できない。旅をしない、その場での友人作成みたいものが旅や人生に取って代わったのである。さっき、小型自転車に乗って富士山みたいなコンクリートの壁をひょいっと飛び越えるみたいな競技をやってたが、――解説が「その黄色い自転車かっこいいねYES」、「彼女なんかこわく見えるんですけどハートは熱いですイエー」みたいなノりであった。これなんか、わたくしなんかには、いまどきの讃辞と悪口の近接性を感じさせる。こういうノリは、歴史的な推移を抜きに語れない、ほんものの戦争とか社会問題をあつかえないのである。

そこまで旅や人生を回避するなら、オリンピックは、わりと美的で根性ありで刹那的なストロングマンコンテストと女子新体操だけでいいと言ったら、細に「それ絶対面白くない」と言われました。

セーヌ川が汚くてトライアスロンが出来ないとか、食事がまずいぞ肉がない、とか不平が出ているそうだ。フランスの事情については何も知らないが、この国は、ユーゴーが革命と地下道をあまり褒めるから?油断してんじゃねえかな。。。日本なんか芥川龍之介の川の描写がきたなくて、おまけに「死」の象徴だ。フランスだって日本以上にそうじゃないか。誰でも言うことであろうが、日本と仏蘭西が、宗教的文化を退けて文化を自然と創作物の関係に特化したという意味で似ていることを思い出さなくてはならない。日本人がわりと前衛を含んだ仏蘭西文学や音楽がスキで、フランスのオリエンタリズムに大きく日本が位置をしめているのは興味深いことだ。

だから、日本や仏蘭西は、わりと文化的行為を政治と相対的に切り離すことを自然にやってのける。なにしろ、ハマスの指導者が殺されてもオリンピック続行である。やめられない病なんか日本に限ったことではない。

われわれのスキャンダリズムというのは、例えば、――『安部公房写真集』ということは、朝ドラ女優の写真集とみてよろしいのであろうな。。。とか思ってしまうことに過ぎない。

最近など、コミュニティとかコミュニケション能力とかいう呪文に欺されて頭がおかしくなっている人間達がたくさんいるけれども、盆踊りも社交ダンスもどうみても性的な求愛行動であって、歌って踊れるみたいなことをいう教職志望者とかが非常に危険であることはいうまでもない。文化は性慾から生まれるみたいなことさら、文化から切り離されて政治の領域にうつされている。

左派の緑川貢がなんで保田與重郞のそばにはじめいたのか分からなかったんだが、プロレタリア文學のことを知ったのが保田の文芸時評か何かだったと、緑川が書いた保田の追悼文(「わが生涯の人」)に書いてあった。特に初期の保田の文章から左派にいくのはわからないではないし、すると保田自身も同じように自分自身から右派?に行っただけというかんじがする。転向とかではない。もともと彼らの文學は政治的行動であって、転向以前に責任をとらなければいけないものなのであった。――戦前のほうがこういうところがましなのである。

付記)前のオリンピックのときもいうたけど、手すりの上を滑って遊んではいけませぬ。