行者鐵棒を揚げて門の扉を砕るまで打たたき、「我が師父をかへせ。かへさずんば此洞を微塵にせん」と大音に罵りたり。此時洞の中には、黄風大王三蔵法師を見て申しけるは、「此僧原大唐において徳高き聖僧なり。是が弟子に孫悟空といふ神通廣大の者ありと聞及べり。他が尋ねて来るや否やを待つて、此法師を吃ふべし」とて椿木に三蔵をからめ付けし庭に、行者洞門に来つて、かへせかへせと叫びけるに、「さればこそ孫悟空ならめ」とて、虎先鋒洞門をおしひらき、行者に向うて討つてかかれば、行者鐵棒を水車にまはし、さんざんに戦ひしが、虎先鋒いかでか行者に敵すべき、身をかへし山の小路を迯行きけるに、「猪八戒爰に有つて你を待つ事巳に久し」と云ひも終らず、釘鈀を拿のベ只一突に虎先鋒を殺したり。
学生に「負け犬」といったらハラスメントかもしれないが、「負けチワワ」とか「負けゴールデンレトリバー」とかはどうなるのであろう。むろん問題は負けていることの内実であり、負けた後に何をしているかだ。
最近西遊記を読んでいるから、負け犬よりも負け猿とか負け豚とか負け河童とか負け三蔵みたいなものの複雑さにわたくしは惹かれる。そのことに目をつぶり、だんだん負けたことをすら忘れている作品に、中島敦の「悟浄嘆異」がある。そもそも負けていない設定になっている「ドラゴンボール」なんかはまったく西遊記とは違うものである。――とおもったら、物語が進むにつれ、悟空より強い者がたくさんでてきている。たくさんたくさん出てきて悟空は死んでは生まれ変わり死んでは生まれ変わり――もはや、鳥のウンコのなかから蘇生する植物みたいな存在になっている。
遠くで雷が鳴っている。