★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

文フリ香川1参加――38度

2024-07-28 23:14:08 | 文学


「文フリ香川1」――文学フリーマケットに初参加してきた。38度であった。わしはいま風呂に入っていると思ってのりきった。

売られている多くの同人誌をみていると、古文漢文を勉強したほうがよいと思われる書き手がたくさんいると感じるが、――思うに、短歌俳句のブームはそういう感じと何処か繋がっていると思われる。中島敦の短歌と、「悟浄嘆異」の悟空に対する把握――エネルギーと行動みたいな図式のそれ――が繋がっているというのは、八十年代にある研究者がとなえた説であるが、このように、われわれが型式と見做してしまうものはたくさんあって、本質的には型式ではなさそうな五七調までもが型式になり得るのである。ほんとはむしろエネルギーの生成の一部である。

柔道の選手が世界ランク1位に負けてわんわん泣いていた。世界のてっぺんで勝負する人間はこのぐらいでも良いような気がしないでもないが、わたくしは負けたからといってすぐ泣く奴は大嫌いであり、むしろ詩をよんだり短歌をつくるべきではなかろうか、と思う。しかし、思うに、エネルギーが強大すぎると、詩も短歌もありえないのもたしかなのである。負けても詩が残ればいいさとか言っていた批評家がむかしいたが、やはり原爆やマッカーサーが来てみれば詩どころではない。――いや、それでもやはり戦後文学はその浪曼派の予言通りに詩をうたった。左派の中には「歌声よ、おこれ」と言う人もいたわけである。

今日こうた本の中では、愛媛大学俳句研究会・短歌会合同詩集がよかった。

おそらく散文では、――へたすると散文詩においても、我々はもうクリシェから逃れることは出来ないのかもしれない。

今回のマーケットには2000人以上参加者がいたという。いつもは孤独な文学当事者達であるが、こういう機会に、お互いを思いやっているにちがいない。苛烈な批評があまりないこの御時世、そのかわりにお互いへのシンパシイは暑さに勝っていた――かもしれない。