妖精是を聞きて曰く、「其唐僧はいづくにありや」本叉曰く、「東の上に座せる僧則是なり」妖精大きにおどろき黄錦の直綴をかぶり、岸に上り、三蔵の前に禮を行ひ、「弟子師父の尊容を知らず、多くの不穏をなしたり。願くは其罪をゆるし給へ」三蔵の曰く、你眞實に我が教を守らんとするか」妖精の曰く、「弟子向に菩薩の教化を受け、法名を沙悟浄と賜り、師父の来り給ふを待佗びてこそ候得。何ぞ偽り申すの理あらんや」三蔵是を聞て大きによろこび、別に名付けて沙和尚と呼び給ふ。其時木叉沙悟浄をまねき、首にかけたる九つの骷髏を索にて繋ぎ、菩薩より賜りし紅の葫廬を其正中に居ゑ、水に浮めて、三蔵を請うてこれを乗せまらせ、八戒悟浄左右に在り、孫行者龍馬を索いて、後にしたがひ、木叉は雲にのりてこれを守護し、飄然として流砂の大河を西の岸に著き給ふ。木叉いそぎ葫廬をとり収めぬれば、九個骷髏も陰風と化して失たり。三蔵木叉に向て再三礼拝し、三人の弟子と側にまた西の方へいそぎける。
三蔵のお伴の三匹は一行に加わったときに新たな名をもらっている。われわれはだらだらと生きすぎなので、大学をでたら新たな名前を指導教官からもらうというのはどうだろう。全部変えるのが嫌だというなら、田中・サド・一郎、など取り組んだ作家の名前を刻むとかがいいかもしれない。内面から改心とか我々はだいだいバカなのでそんな大それたことはできない。
われわれは名前に慣れることにその名指されたものが透明となり、感覚が狂ってゆく。例えば、日本人の一部はゴジラがすきすぎて、そこらにいるは虫類や両生類にそれが似ていることさえ忘れている。しかし、それに慣れない米国の「ゴジラ」映画のさいしょのやつはちゃんと巨大ミミズをみておおすげえと言う科学者を描いていてエライと思う。我が国のはじめの「ゴジラ」だって、その古代巨大は虫類の謎に挑む教授は、ゴジラの足跡の中にさっき死んだ三葉虫をみつけて、ゴジラみたときよりも喜んでいた。
我々はかように三葉虫や蚯蚓に対して驚くものなのであるが、人間は認識主体であることになれて透明になると、他の人間も透明になってゆくのである。先週、大河ドラマで、道長と密通した紫式部(
「シン・ウルトラマン」のラスボス=ゼットンがなんだかいまいちのように感じたのは、――五十年以上前のもともとのゼットンが上陸してきた米兵みたいに理不尽に強い侵略者であるのにたいし、「シン・ウルトラマン」のそれは、いわば落とされかかっている原爆みたいなもので、やっぱり人間みたいな恐ろしさがなく透明なのである。この映画をとった監督が、「シン・ゴジラ」で透明ではないアメリカを描いているところをみると、明らかにゼットンは透明化されたのである。この映画に一番最初に出てくる怪獣ネロンガが透明怪獣であるのは意図的だったと思う。