★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

喧噪の対立物

2024-07-12 23:48:07 | 文学


ほんの二、三分の事件じゃないか。私は、まだ若いのです。これからの命です。私はいままでと同じようにつらい貧乏ぐらしを辛抱して生きて行くのです。それだけのことなんだ。私は、なんにも変っていやしない。きのうのままの、さき子です。海水着ひとつで、大丸さんに、どんな迷惑がかかるのか。人をだまして千円二千円としぼりとっても、いいえ、一身代つぶしてやって、それで、みんなにほめられている人さえあるじゃございませんか。牢はいったい誰のためにあるのです。お金のない人ばかり牢へいれられています。あの人たちは、きっと他人をだますことの出来ない弱い正直な性質なんだ。人をだましていい生活をするほど悪がしこくないから、だんだん追いつめられて、あんなばかげたことをして、二円、三円を強奪して、そうして五年も十年も牢へはいっていなければいけない、はははは、おかしい、おかしい、なんてこった、ああ、ばかばかしいのねえ。
 私は、きっと狂っていたのでしょう。それにちがいございませぬ。


――太宰治「燈籠」


「紅殻のパンドラ」という士郎正宗原作の漫画――、成人漫画的な要素を抜いたら家族の前でも読める。こんなことは明らかであるが、うえのような、男性水着を盗んだ娘の訴えを朗読できるかというのはかなりテクニックを要する。

ある古典文学の論文を読んでいたら、少し前「不倫は文化」というの発言が失笑された、とあった。が、果たしてあれは失笑されたのであろうか。共感が失笑という形をとることがあるから、それかと思ったが、それとも違う。結局、それは、男性水着を盗んだ娘に近いものなのである。

結局、この男性水着を盗んで「牢はいったい誰のためにあるのです」と叫ぶ体の表現を文化と呼ぶべきで、これが何処かしら謙抑的すぎるとかんじたからといって、言葉と行動を矛盾させたりするところまでゆくとなにか妙な気がする。柄谷行人の回想によると、唐十郎は柄谷を良いお客として讃美しながら「お前はなんで俺のことをもっと評価しないんだ」と詰め寄ったことがあるらしいが、そりゃそうだろうと思う。柄谷氏のかくものははじめからそれまでの文芸評論的な賛辞や批判をやめることが大きなモチーフで、言葉的には浅田的な「逃走」でもあった。――にもかかわらず、柄谷氏の発想はいつも誰かと仲良くしている性格がある。これがかれの行動である。唐にしても柄谷にしても、アイロニーを超えてこけおどしになる危険性があるところまで行っていた。彼らは自覚的だったが、それに言葉として影響を受けすぎた連中は違う。ただのイデオローグになるのである。

SF漫画「ロボ・サピエンス前史」には傑作の噂が立っていた。読んでみたらほんとの傑作だった。しかし、この漫画に流れる時間の静寂は、おそらく。イデオローグの喧噪に対立して、ある種のファシズムみたいに支配のエネルギーとしてあらわれたものだ。おそらくは科学が喧噪と対立していたように。東浩紀氏は喧噪こそが民主主義の条件みたいにいうのだが。果たして、そこまで人間は民主主義に対して寛容であろうか。