★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

夕日なんぞに赫いている木の十字架

2023-02-13 20:19:42 | 文学


その教会というのは、――信州軽井沢にある、聖パウロ・カトリック教会。いまから五年前(一九三五年)に、チェッコスロヴァキアの建築家アントニン・レイモンド氏が設計して建立したもの。簡素な木造の、何処か瑞西の寒村にでもありそうな、朴訥な美しさに富んだ、何ともいえず好い感じのする建物である。カトリック建築の様式というものを私はよく知らないけれども、その特色らしく、屋根などの線という線がそれぞれに鋭い角をなして天を目ざしている。それらが一つになっていかにもすっきりとした印象を建物全体に与えているのでもあろうか。――町の裏側の、水車のある道に沿うて、その聖パウロ教会は立っている。小さな落葉松林を背負いながら、夕日なんぞに赫いている木の十字架が、町の方からその水車の道へはいりかけると、すぐ、五六軒の、ごみごみした、薄汚ない民家の間から見えてくるのも、いかにも村の教会らしく、その感じもいいのである。


――堀辰雄「木の十字架」

崩壊するのは過程か、文化か?

2023-02-12 23:18:16 | 文学


いま一つには、俊蔭のぬしの父式部大輔の集、草に書けり。 「手づから点し、読みて聞かせよ」とのたまへば、古文、文机の上にて読む。例の花の宴などの講師の声よりは、少しみそかに読ませ給ふ。七、八枚の書なり。果てに、一度は訓、一度は音に読ませ給ひて、おもしろしと聞こし召すをば誦ぜさせ給ふ。何ごとし給ふにも、声いとおもしろき人の論じたれば、いとおもしろく悲しければ、聞こし召す帝も、御しほたれ給ふ。大将も、涙を流しつつ仕うまつり給ふ。 悲しきところをばうち泣かせ給ひ、興あるところをば興じ給ひ、をかしきをばうち笑はせ給ひつつ、異御心なく聞こし召し暮らす。

文化はこうやって、権威の命ずるところに失敗せぬ物語として成立している。これは明らかに差別であるが、文化はかように差別的なところがある。大学でも落第とか留年のシステムをとっている。これ自体、差別的なのだが、それはいままで容認されている。合理的配慮云々の件は、そこに楔を打ち込むことになりかねない。上の優秀な御仁は、帝の号令一下、素晴らしくやってのけるのだが、この速い過程に対して「ひとそれぞれ」という観点を導入すると崩壊する。――しかしなにが崩壊するのか、過程か?文化か?

大学で不可、落第を経験するのはよいことで、例えば、あなたは(弾丸のように銃で)発射されている、という脳内変換をあらかじめ体験しておくために必要である。きわめて実践的で役に立つ。――こんな考え方は、文化には犠牲がつきものであるという前提によって成り立っている。

ただでもコロナでコミュニケーションのあり方、とくに対面の講義の意義が再審されてしまったわけだが、学問に必要な議論の方は単に深刻な打撃を被った。思うに、昔私が、吹奏楽部で音楽と人間関係を学びながら、研究会で読書会とか合評会とかを定期的に大学時代行ったことは、解釈と自分の意見を変形圧縮して議論に面白く投入出来る訓練だったように思う。これができないと論文はただひたすら自分の意見とか解釈を写しておりますみたいな書きぶりになりやすい。論文そのものに議論の性格が必要なのである。コロナで打撃を受けていると思うのは、こういう性格で、しかしこれは授業でお題に対して一斉にお話タイムをしてもだめで、テキスト(論文)を読んだうえでやんなきゃだめだ。なぜかというと論文そのものが議論性を孕んでいるからであった。そしてて、こういうことも、我々が人間関係の常識を維持出来ていての話なのだ。文章の中に議論性を読めるのはどちらかというと現実のコミュニケーションの「空気を読む」性格に近いような気がする。

こういう現場の悪戦苦闘の一方で、必然的に政治化した学問の言語というものがある。読みの多様性を許しながら、テキストの政治的痕跡は一義的にするみたいな方向性をいつまでも放置しときゃ、政治的にテキストをつかう自由な多様な方向性を制御できなくなるに決まってる。あまりにもこういうことにナイーブな人々が多かったのである。

政治化した学問の言語は、背後に議論の性格が希薄でむしろルサンチマンの性格がある。先鋭化した政治的言語は、背後に人間的葛藤を抱えていなければならない。これがないと、体制化した瞬間にルサンチマンの暴発が始まってしまう。勢い、指示を出す奴は一人となる。合理的な改革は上から流れてくる薬みたいなものであるべきで、下部には、人を殺さない集団の伝統が必要だ。そして集団の伝統みたいなのをいかに維持するかは、それについてのいろんな議論をともなっていないといけない。そうでないと、伝統の維持を自負する人がその伝統そのものを壊してしまうという現象が生じる。加齢とか役割を押しつけられてきた不満とかいろんな理由でそうなる。時代の流れとか特殊な人間の大暴れとか、いろんな理由はあるが、主な理由は、伝統にも抑圧の移譲ならぬ、伝統の移譲みたいなものがあるということだ。これは下への移譲ではなく上への移譲である。

いまや学校の世界は、大学も含めて、この下部の世界になりはてた。伝統の維持がラディカルな課題である。そのなかで、文化の維持も同時に行われるべきだ。そのとき問題になるのが、合理的配慮云々の問題である。ちょっと口だけみたいだけれども、――わたくしの経験からいうと、教員は合理的配慮の必要とみえる人間ととにかく慣れることが重要で、長く時間をかけてお互いのことが分かってくることが重要である。その余裕がなかったり、最初にぶち切れてしまってコミュニケーションを断つと、怨念をためこんで差別的言動にいたる可能性が高まってしまうと思う。しかし、まあこれもそれぞれ人間は違うので、何が起こるか分からないから一概に言えないところがあるが。。とにかく、寄り添うみたいな心情的な接近は寄り添った側がぷっつんしたらおわりなので、重要なのは観察といろいろな知見をまなぶことだ。言うだけは簡単であるが。

そうでない学生においてもデッドロックは多い。「発達障害」の逆は発達(=成長)であり、そこに主体性という観念がくっついている。しかし、自分で自分をコントロールして成長みたいな観念にとても耐えられない人間は多い。が、そうだとしても、蛇が自分の尻尾を喰うみたいな状態ではないんだから、単に他人にコントロールを任せてもだめなのだ。私の体験にすぎないが、自分の癖は限界を超えて練習したみたいなあとにしか分からないので、それから主体的な勉強や仕事のやり方を自分で組織化すればよく、それ以前にやると病むし、あまりに限界ばかり超えてるとこれも病む、というか体が壊れる。こういうプロセスは自分でもよく分からないけれども、他人だから客観的で分かるということもない。早くからの主体化が推奨される一方で、他人=客観みたいな馬鹿馬鹿しい観念も一緒に推奨されていて、これじゃ自分に不安な真面目な奴は狂ってしまう。

中学の頃わたしが一番のびしろがあるかなと勝手に思っていたのは美術でその次が家庭科、いちばん好きなのは音楽で勝手にやってしまっていたのが国語で、そのほかは正直どうでもいいかんじであった。結局、勝手にやってしまっていた、ところに行き着いた。ちなみに成績でいうと、美術や家庭はよかったが社会科もわりと出来てた気がするし、理科もまあそこそこであった。で、案外点数が上がらなかったのが国語で、五教科で一番点が低いこともあった。というわけで、「得意教科」という観念もまったくこういういろいろな傾向を全く説明できず、「やる気」も同様だ。点数は無論である。まあ、こういういう場合にそこそこ間違っていないことを言えるのが教師の役目である。これはマルクス主義やフェミニズム、マイノリティ主義など――「学問」みたいなものに対する「批評」に近い。われわれはつい点数や態度にとらわれる。教師だけでなく本人もそうなのだ。

人間率直であればいいというものではない。何に対して率直であるかは本人にもよく分からないからである。そこには学問ではなく「批評」が必要なのである。学問を背景にしたイデオロギーはつい人間の複雑さを忘れる。マイナンバーカードとかでもあれだったが、ポイントに素直に釣られてほんと馬鹿な人民はどうしようもないなと思う知識人その他もいるであろうが、実際ポイントに釣られている人はどう考えているかというと「マイナンバーカードとかバカじゃないの。根性悪すぎ。でもポイントはもらっとくかw」である。

今更気付いたんだけど、例えばツイッターは、職業的自分と趣味的自分と政治的自分とわけてアカウントつくったりするみたいなんだが、これはある種の偽装転向というか擬態というか、ある種の職域奉公でもある。むかしのプロ野球選手の座談会とか見ていると、わりと「仕事は仕事、遊びは遊び」で派手にやってきた、とみんな言ってるのだが、――実際は、昔のプロ野球は試合でもだいぶ遊び的な野放図さがあったわけで、夜遊んでいる人格と試合中の人格はやはり一緒だったはずだ。そのうえで仕事と遊びをわけるという意識が働いていたのだと思う。いまだってプライベートの無為みたいなものが仕事にも影響与えている。人格はアカウントで分かれたりはしない。分けられるかのような幻想は浮薄である。言い方をかえてみれば、多重所属なんか、われわれには「根本的には」不可能である。

日本人の肖像

2023-02-11 18:38:44 | 文学


外に出るのは誰も具合が悪かつた。
 それで、飽きもせず彼等は私の部屋に碌々とし続けた。(――と私は今、村での日日を思ひ出すのである。つい此間までの村の私の勉強室である。私は余儀なく村を立ち去つて、今は都に迷ひ出たばかりの時である。)
 向ひ側の人の顔だちが定めもつかぬ程濛々と煙草の煙りが部屋一杯に立こめてゐた、冬の、くもり日続きの、村の私の部屋なのだつた。誰も彼も、もう駄弁の種もすつかり尽き果てゝ稍ともすれば沈黙勝ちな、夜もなく、昼もなき怠惰な村の愛日抄を書かう。
 寝転んでゐる者がある、炬燵にあたつてゐる者がある。部屋の隅にある小机に凭つて手紙か何かを書いてゐる者がある。安らかに無何有の境に達して大鼾きをあげてゐる者がある――おそらく夢だけで消えてしまふであらう「ソクラテス学校」――そんな題名の小説を想つてゐる私が、何んな顔つきで日々彼等の仲間になり続けてゐたか私は知らない。


――牧野信一「くもり日つゞき」


ソクラテスとかプラトンを読んでいると、西洋って何だろう、、と思う。我々が進歩しない以上に、あちらも進歩していないではないのではないか。しかも進歩していると思っているところまで共通しているのだ。先日、永井路子がなくなった。みんなさんざ言っているんだろうけど、この人の影響は結構でかいんだよな、大河ドラマの人物のあり方だけでなく。大河ドラマでは、女性のキーマンとしての大きさを拡大したことは日本の文化に大きなものを残したと言わざるをえない。しかし、これは物語のなかの比重のようなもので、現実の女性の人権や本質的な扱いが大してかわらないのは周知の通りである。だいたい、物語のように女性を扱うからおかしいことになるのだ。このおかしさには本当は我々は気づいている。ぴんからトリオの「女のみち」は72年の大ヒット曲で、洗練されているから時代錯誤な歌詞が頭に入ってこない。こういうときに、我々はジェンダーの錯交を曲の中に溶かし込んでみることさえできたのである。

もとより、動物的状態から出発し最後にそこに回帰してゆくみたいな我々の人生に対する見方は、しばしば生成と滅びやビルドとスクラップみたいなイメージと重ねられ、それを無理矢理にビルドゥングスロマンとみなすと壊れても伸びる塔となる。しかし、それぞれの観点にのめり込む勇気が我々にはない。われわれの人生のイメージは、イメージに過ぎず、個々の場面場面において、我々が人間であるかどうかさえあやしいことを認められない。女性にしたって同じことである。

タラちゃんの貴家堂子氏がなくなっていた。タラちゃんが亡くなったのに、日本人がまだ生きているのが信じられない。もうみんなで亡くなった方がよいのではないか。――こんな風に我々は絶対に思わない。しかし、本当は少しは思うべきなのである。ところが、我々は、タラちゃんも声優も都合のいいときだけしか同質性を感じない。

わたくしは、じっさい「自分らしさ」みたいなこと考え始めた時点でその人はほぼ心理的に危機だし、人格的に終わってることが考えられるなあ、とおもいつつ、その「らしさ」みたいな自分と他者の荒涼たる中間地帯のおもしろさが、われわれをかろうじて支えていると思うものだ。

日本人の肖像画としては、お札の肖像画なんかもおもしろいものだ。今回、たいしたことのない人物?が選ばれたせいで、我々はすでにテンションが下がっている。もういっそのこと、空海の10000円札、松田聖子の5000円札、六条の御息所の1000円札、このぐらいやったらワンチャン景気浮上するかもしれない。しかし、もう捨て身で、孫悟空の100000円札、孫悟飯の10000円札、田舎っぺ大将の5000円札、ど根性ガエルのひろしの1000円札でもいいわ。――とはならないのだ。そこには野沢雅子氏の肖像に近くなってしまうからである。しかしだからといって、聖徳太子は日本人の肖像画といえたであろうか。

とはいえ、まったく自己が極端なものの投影から遁れられかといえばそうでもない。さっきオリコン1位の歴史を辿っていたら、やはりいまの中年がピンクレディーを何歳に体験したのかが重要だと思った次第だ。ピンクレディーの登場は何かを変えてしまったのである。そういえば、わたくしが大の大人になってから、緊張しすぎて「ぼく」と言ってしまったことがあるのは、小さい頃、「はじめての僕デス」を聞いたからかもしれない。たいした曲で、歌も巧い。だれかと思ったら、小学生の頃の宮本浩次(エレファントカシマシ)であった。それを早く言ってくれよと思うが、そのとうじ、まだ宮本氏は後年の宮本氏ではないのだからしょうがない。

凍雲

2023-02-10 23:55:48 | 文学


風が、うっすらと雪をかむった坊主の守山を一気におりて、松林を鳴らし去った。山の上空を険しく雲が覆うていた。
 仙太は、ザザ……と藪へわけ入った。
「黒! 黒!」
 犬は笹の間から黒い尖った顔を向けて待っている。
「何してる。そら、そこだ!」
 笹藪がはげしく音をたてて、ひとしきり、うねった。犬は、また、黒い瞳を向けた。途方にくれているようにみえた。
「何してる!」
 仙太は怒鳴った。そして、腰から笹に掩われて、凝っと立ち停っていた。
 松林が、ごう、と鳴った。雲が威嚇するように頭の上にひろがってきた。鴉が麓のほうへ急ぎ飛んだ。


――矢田津世子「凍雲」

賞味する人

2023-02-09 07:30:56 | 思想


小1ぐらいのときの絵↑

白味噌漬けというものは元来高級品であり、且つ味噌そのものからが廉価ではないから、下らない魚類を漬けることは許されないわけである。ところがいかという例外がある。いかは肉の厚い大形のすみいか、あおりいかが認められて、やりいかは、やすっぽく扱われているが、新しくさえあればやりいかほど小味で、微妙な美味さをもったものはないのである。生きているやりいかの皮を剥いで刺身として食う美味は、すみいかやあおりいかの刺身の比ではないのである。しかし、知る人の少ないのは惜しい。生きたやりいかを白味噌漬けにする経験や、賞味する人に至ってはほとんど絶無にちかいかも知れない。これはやりいかの本場に残され、且つ家庭料理に漏れている料理の穴であると言えよう。

――北大路魯山人「生き烏賊白味噌漬け」


もしかしたら、われわれの文化は料理とテキストをごっちゃにしているかもしれない。味付けして相手に出して喰うものであるという。あるいは自分で食べてもいい。とりあえず、愛でるより喰ってしまうのである。

テキストの文脈にこだわらずにそれをネタに自由に言語の活動をすると、言語能力があがるみたいな発想が教育界にあるけれども、それは言語能力の一種ではあるが、空想とか妄想に自足する能力でもある。たしかにそういう側面が文化を支えていることもたしかだが、そりゃセンスのいいやつの話で、その自足性をなめちゃだめだと思う。――そうである、我々は舌なめずりをしているのだ。

大概、グループワークなんかでは、対話がその自足(自分の意見とやら)の発生を促し、発生が起こったところで時間切れと他者へのおびえと遠慮で対話は終了。で、求められているところの対話の成果としての合意形成は、その自足の何かですらない社会的通念を代替させて発表する。であるから、必然的に、先の自分の意見は、社会的通念とは別のなにかとして殊更価値付けされ温存されたまま授業がおわる。対話的な行為がもっとも対話的でない状態を発生させちまうわけである。これを何年も続けていればどうなるか、予想もつくというものだ。

言語の活動は、美味いも何も食べ物ではない。自分で賞味しつづけてもまずい。

マスク下と事務

2023-02-08 16:34:56 | 文学


源は藁草履と言われる程の醜男子ですから、一通りの焼手ではないのです。編笠越しに秋の光のさし入ったお隅の横顔を見れば、見るほど嫉妬は憐みよりも強くなるばかりでした。
「お隅、お前は何をそんなに考えているんだい」
「何も考えておりゃせんよ」
「定めしお前は己を恨んでいるだろう。己に言わせると、こっちからお前を恨むことがある」
「何を私は貴方に恨まれることが有りやすえ」
 と突込むように言われて、源はもう憤然とする。


――島崎藤村「藁草履」


我々はマスクによって醜男になったのか美男になったのかしらないが、それ以上に藁草履やダンゴムシに見えていることは確かである。

来年度、さまざまな職場で起こる、コロナ直撃世代のトラブルに対して、大学を責められても困るみたいな議論は起こりそうだ。が、確かにそれはそうだと思う一方、さまざまに崩壊した感情教育を我々がどれだけなんとかしようとしたかというと、危機感足りなかった人間も多かったように思う。社会を維持するためには、いい顔してるだけじゃだめなんだよな、こういう局面で。とはいえ、マスクでこっちの表情もかなりわかんねえ、我々は虫同士の顔をのぞき込んで不安になっている。物に対する皮膜はいつもあったが、マスクが遮蔽物となって更に立ちふさがったのである。

岡「近頃の小説は個性がありますか」
小林「絵と同じです。個性を競つて見せるのですね。絵と同じ様に、物がなくなつてゐますね。物がなくなつてゐるのは、全体の傾向ですね」
岡「物を生かすといふ事を忘れて、自分が作り出さうといふ方だけをやりだしたのですね」

――岡潔・小林秀雄『人間の建設』


もう既に問題になっていることだと思うが、コロナの情勢下で症状が悪化してしまったのは、実現していないことをあたかも実現したかのように書いたりする病気で、けっこうまずい。小林秀雄じゃないが、物がなくなって個性だけになる、しかしその個性とは個性でも何でもなくてほんとは嘘というやつなのである。嘘にまみれるといろいろなことがわからなくなってしまう。

少子化対策や教師不足を金の問題に還元する人は多いし、それはかなり当たっている。しかし、金の問題ももちろんあるが、ここまでいろんなやる気がなくなると子どもはめんどくさいな、みたいになるわけでまあ少子化の原因はそこにあるようにみえる。大学が職業訓練の場になるような状況と全く同じ原因なのだ。大きく言って「働く」のが面倒なので、職業訓練してくれといっているわけだから。それを学生のニーズにあわせろみたいな論理でおしすすめているわけだが、そういうニーズの多くがその実、労働への忌避感情と関係しているわけで、その証拠に、ほんとに労働に役に立つ技術を身につくまで反復練習させれば必ず勉強以上の反発がくる。すべていいかげんで本気じゃない主張に付き合うべきではないのだ。だいたい本質的な考察をしようとしている本気の学生に失礼極まりないし、――なによりだめなのは、自分の本当の欲望に嘘をついていることだ。

少子化の原因の本当のもののひとつには、たぶん教育があまりに大変で教育に関する事柄が信用されていないことがありそうだ。なぜかといえば、親たちにとって、大学卒業にいたる道程が、金銭もそうだが心理的にしんどすぎたから。こんな心が死ぬか生きるかみたいな環境に子どもを放り込んだら、自分が参ってしまいそうなのだ。むかし、太田光氏が、自分の子どもが人を殺さないと言い切れないから子どもはいらない、みたいなことを言ってたと思う。これは極端な言い方に見えるけど、それほど子どもが世界を恨む可能性が高いと思ってしまう親は多いと思う。これは教育現場がいい加減だからというより、神経症的?だからと言っていい。つまり、ストレスによる認知のゆがみを善意に置き換えて無理矢理運営されているのが教育現場である。

一つには、小林秀雄が比喩的に述べている以上に、我々が物をつくることをやめ、観念的なものをめぐって考える人間になってしまったことが、問題なんだろう。われわれは、実際に何かを動かす世界に戻らなくてはならない。そのときに、官僚システムはひとつの希望でもある。いろいろあるから単純化はできないが、世のなかには優秀な事務方がいて、最悪の事態を防ぐことがけっこうある。研究者のほうが、しばしば「手続き」をすっとばす。「手続き」は研究だけの手段じゃないのに。世の中を破滅から救う事務仕事は、観念的ではなく、物を動かす仕事だ。かかる事務方が、「自分は組織を半生ささげてなんとか延命させた」としずかに定年で去って行くのはなかなかかっこよい。定年間際に自意識の重みに苦しむことが多い研究者と対照的である。

猿化でない猿

2023-02-07 19:05:03 | 文学


後は、お話しせずとも、大概お察しがつきませう。奈良島は、その日一日、禁錮室に監禁されて、翌日、浦賀の海軍監獄へ送られました。これは、あんまりお話したくない事ですが、あすこでは、囚人に、よく「弾丸運び」と云ふ事をやらせるのです。八尺程の距離を置いた台から台へ、五貫目ばかりの鉄の丸を、繰返へし繰返へし、置き換へさせるのですが、何が苦しいと云つて、あの位、囚人に苦しいものはありますまい。いつか、拝借したドストエフスキイの「死人の家」の中にも、「甲のバケツから、乙のバケツへ水をあけて、その水を又、甲のバケツへあけると云ふやうに、無用な仕事を何度となく反覆させると、その囚人は必自殺する。」――こんな事が、書いてあつたかと思ひます。それを、実際、あすこの囚人はやつてゐるのですから、自殺をするものゝないのが、寧、不思議な位でせう。そこへ行つたのです、私の取押さへた、あの信号兵は。雀斑のある、背の低い、気の弱さうな、おとなしい男でしたが……。
 その日、私は、外の候補生仲間と、欄干によりかゝつて、日の暮れかゝる港を見てゐますと、例の牧田が私の隣へ来て、「猿を生捕つたのは、大手柄だな」と、ひやかすやうに、云ひました。大方、私が、内心得意でゞもあると思つたのでせう。
「奈良島は人間だ。猿ぢやあない。」


――芥川龍之介「猿」


芸術家たちはいろんな関係性を駆使してものをつくっているけれども、それは「みんなでつくってる」のではない。かように、われわれは、人間の関係性に関する思考も創造性も脆弱になっている。関係をつくる道具に影響され、関係性そのもののバリエーションが減ったからだ。とくに、ラインに見られるような平面的な関係性は現実はありえない。にもかかわらず、平面的にとらえるくせがつくと平面にしかとらえられなくなる。しかもそれを人間の平等性みたいな観念で肉付けしたりもするのだ。平等はそういうときに使うべき観念ではない。

組織の役割分担みたいなのはきついもので、役相応のことしかいえないという制限がかかっていると同時に、役を盾にしていえることも出てくるし、権力を使って人を守れることもある。これが必ず必要なときがある。権力が人をいじめる力にしかなってないやつは子どものままで大きくなっただけなので論外。――こんなことは大人の常識であるが、我々はいつも人間であるとは限らないのだ。インターネットによって我々が猿化したと人は言う。違うと思う。我々は現実に猿だと思う。

組織のボスが「ボス猿」だとどうなるかというと、やつの命令をボイコットか仕事の最小化によって生き延びようとするとする小猿のなかで、過剰に命令をしかも命令に見えないように遂行する人間が少数で死ぬ気でたちまわるからである。命令に見えないようにするのは、これ以上命令性が見える化すると
もっとサボり猿が増えて自分の首を絞めるからにほかならない。いまの労働の過剰化は、その少数猿の実態とサボり猿の回避しようとする労働の妄想の総和である。ということで、定時に帰ります、ではまったく問題の解決になっていない。我々が、このことを忘れがちになるのは、もはやわれわれが人間でないからだ。

組織がトップの権力行使が唯一の権力行使で、中間がなくなると、構成員の力の行使は、ボス猿を狙ったつよい抗議の力(テロ的な何か)の行使か沈黙かという二択になってしまう。だから余計にボスは沈黙を求めて力を振るおうとする。そんななかで「抵抗の精神」を説いて、どの程度ナンセンスかは自明である。現実がそんな猿山なので、まったくナンセンスなのではない。しかも文化はそうやってにょきにょきでてくる側面はあり、長期的には効果があったりするから別にいいのだが、だからといって威張るほどのことでもない。

今日は、アニミズムやアクターネットワーク論の話を授業でしながらそんなことを思った。

戦後レジュームのあれ

2023-02-06 20:03:07 | 文学


「おまえ、帰ろうって、どこへ帰るの。もうお家はないんだよ。」と、母の声は、小さく、ふるえました。
「そう、だったか。」と、清吉は思った。そしてこのときほど、自分の母をいたましく、感じたことは、なかったのでした。
「義雄ちゃんのおじいさんが、焼けたら、いつでもこいといったよ。ぼくは、なんでもして、これからおかあさんのおてつだいをするから。」と、かれは、胸の中が熱くなって、母を元気づけようとしても、わずかに、これだけしかいえなかったのでした。
 しかし、母は、なんとも答えず、いつまでも泣いていました。かれは、これではならぬと知って、
「おとうさんが、帰れば、新しい家をこしらえてくれるよ。」と、つづけていいました。
 しばらくすると、母は、泣きやんで、そでで顔をふきながら、
「おまえがあるから、おかあさんは、もう、けっして泣きませんよ。」と、母は、いったのでした。
 清吉は、あの日のことを思い出しました。もしそうでなかったら、きょう、おばあさんをみても、なぐさめようとしなかったでしょう。
「ぼくは、もうおとななんだから……。」
 かれは、はりきった気持ちで、胸をそらし、両足に力を入れて、電車道を歩いていったのでした。


――小川未明「戦争はぼくをおとなにした」


逆に、戦争のエンタメ化が人々を子どもにし続けていることは皮肉である。

以前、気球に乗ってどこまでもみたいな気球が日本にも飛来し、ワイドショーでも騒いでいた。我が国は再軍備を肥大化させているくせに、平和主義が米軍に依存しているというパラドックスを内面化させているために、危機感をいつ発動させたらいいのかもわからず、――とにかく人が危機をあおるときにはすべてピントが狂っている。しかし、庶民が気球をUFOだと言うのは彼らが幼稚だからしょうがないし、わたくしもそれで盛り上がっていた気がする。しかしそのときにも大臣が「あれがどこに行くのかは気球に聞いてください」とか言うており、心底この国はまた焼け野原になると確信した。で、米国はというと、――めんどうなのでまとめると、

・UFOかもしれない。どこに行くのかは気球に聞いて下さい(日本)
・撃墜しました(米国)


ということだ。

たいがい、二項対立はやべえとポストもだんの時代に言われていたにもかかわらず、全然進歩がないのは、エンタメに触れすぎたからかもしれない。巨大な二項対立、というか、鯨にくっついた小魚――みたいな状態ではすべて感覚が狂っているわけである。多くの物語を読むことは、二つの物語を比べることと大きく違う。そしてわれわれが狂っている場合、後者を多様性と勘違いするのである。ついに、最近は、二つを比べて多様性が担保されるとか言っている人間が増殖している。

もう「多」の認識に必要な、ファクトの認識が危ういのだ。もともと我々の文化にそういう傾向があるが、ファクトが認識できないことに、いわゆる「考える力をつける」的な教育が関係しちゃったのも明らかであろう。知識偏重をおこす人間が今度は考え偏重をおこすのは当たり前だ。でもそれはほんとは偏重と呼ぶべきではない。人がみな偏重する事態というのは仮象であって、その実、教えられるポイントが移動しただけだ。つまり多くの人にはそのポイントだけが記憶されるということなのである。而して、知識ではなく「自分で考えよう」になり、実際は考えられない事態が招来しただけだ。国民教育はたいがい最悪の結果の責任は絶対とらないようになっている。そんなことも我々はわからなくなっている。

子に琴を

2023-02-05 19:34:40 | 文学


中納言、「かの竜角は、賜はりて、いぬの守りにし侍らむ」。 尚侍のおとど、うち笑ひて、「いつしかとも、はた。さても、かやうの折には言ふやうかある」とのたまへば、「おほかたのことは、いかが侍らむ。この琴のある所、声する所には、天人の翔りて聞き給ふなれば、添へたらむとて聞こゆるなり」。尚侍のおとど、典侍して、大将のおとどに、「かの、おのが琴、ここに要ぜらるめり。 取らせむ」と聞こえ給へれば、急ぎて、三条殿に渡り給ひて、取らせておはしたり。

仲忠と女一宮のあいだにいぬ宮がうまれた。で、うまれたとたんこの子の形見の琴を傍らに、と仲忠は主張する。たいがい親というものはこういう焦りをして混乱のなかにはいってゆく。この親の脳裏には、子が奏でる琴の音に惹かれて天人が舞い降りている。たぶん、これからずっと舞い降りているのであった。わたくしも、生まれる前から、クラシック音楽を聴かされていた。生まれた子はたしかに音楽が好きにはなったが、いっこうに天人は降りてこない。

いつのころからか、我々には天に二種類のものが同居するようになった。彼方からやってくる天女や天啓とともに、われわれそのものを造った天が居る。むかし神様が天浮き橋から下界のとろとろしているところをかきまぜて島を造った。これが日本である。思うに神様の下のとろとろしているところとは、ぼっとんトイレのそれにちがいない。宮台真司氏は、日本はアメリカのケツにクソがついていてもなめるのかとよく言っていたが、クソがクソをなめたところ
でなんてことたあないわけである。我々のなかにはこういう元も子もない品格が備わっており、すぐに地上レベルのみの世界に降りたがる。しかし、自分が子どもをもったりすると、ついそのクソの世界を忘れる。

そして、家庭のなかを天とみなし、外部のクソ世界をクソみたいに生きることになる。それは集団の世界である。いつの頃からか、この集団の世界を家庭の延長とみなすセンスが消失して、社会は社会として成り立つかのような幻想が生まれた。そこで生じたのが目的にのみに向かう価値の人工的制作である。しかし、そういう大概の評価システムは、目標を一人で達成したかのように見せかけるゴミの増殖を後押ししただけであった。そりゃ社会の感情秩序は崩壊するわな。教育界も見えないカリキュラム批判とかかっこつけてる場合ではない。見えないカリキュラムがそもそも分からなくなっているやつらが昔の価値を妄想しているだけではないか。

昔から言われる「問題児」とかなにやらが疎外されてゆく問題はたしかに重大で、彼らが「悪影響を与える」みたいな言い方で仲間はずれにはなっていたわけで、――それは憐憫を感じさせさえもするわけである。しかし、その「問題」には、卑怯なやつ、嘘つきやろう、弱い者いじめするやつというのも入っていたに決まっている。それが周りに模倣者をつくっていくおそろしさは集団ならではだ。そんな現象を阻止するために教師が存在しているはずなのに、教師の生き方が幇間じみておかしくなってると、もうそういう機能は崩壊せざるをえない。問題児とそう見えてしまうマイノリティの関係の処理という難しい問題を解くどころではなくなる。そして、いまや、問題児、あるいは仲間はずれになった人間に対する合理的配慮云々というマルクス主義者もびっくりの二項対立的おおざっぱさが、新たな事態を創出した。内実を見極めようとする誠実な教師たちにとって、こんな複雑な方程式をそもそもとける気がしない。昔からある程度そうだが、一握りの能力の高い人間が自分の出世やら業績やらを犠牲にしてケア専用で走り回るということになると思う。現にそうなっている。

一方、家庭には、社会的=学校の手法の応用が勝手に始まった。お母さんたちが社会に出ていった必然である。私の経験だと、たとえば学校の先生は集団教育の職人であって、自分の子どもの教育に関してはやはり他の職種の人間とおなじく素人たらざるをえない側面がかなりあると思った。子育て?というのは教育の中でも特殊分野で、それ自体時間をかけた学問的追求が必要なのである。我々は、むかしも子どもは大概放置されてたじゃないか、親がなくとも子は育つという通念もあって、ちょっと舐めてるところがあるのではなかろうか。それは集団教育とおなじく非常に難しい営為なんだと思う。だから通過儀礼みたいなものをつくって出来たことにする。むかしからそれはかわっていないかもしれない。

育児は大変、みたいなのは育児を労働としてみた場合で、そりゃそうなんだが、それ以上に難しい仕事なのであろう。しかし、これは、仕事一般にもいえて、最近は難しい仕事を労働のきつさに変換してそれを減らせばよしみたいな発想が跋扈している。減らしても難しさは減らねえよ。親子の絆という言い方もその難しさをなにかなめてる気がする。絆は同志とかの間でお互いを意図的に縛り合うみたいなときには有効かも知れないが、親子は絆で説明できるもんじゃない。身体的に魂を共有してるみたいな状態を絆みたいな意識的な紐帯に還元した結果、かえって面倒なことになってる気がする。

ドッペルゲンガーは文学的な意匠でもあるが、親子も一種のドッペルゲンガーで芥川龍之介がそれにこだわったのもそのせいだと思う。ドッペルゲンガーは鏡にうつった似姿以上に影のようなもので、子が親を見たり、親が子を見たりするときにあらわれる。われわれに、こういう感覚を消去してものを考えることが可能であろうか。可能なはずがないのに、可能なふりをしているに過ぎない。

裸の王様という子どもは裸の大衆

2023-02-04 22:23:19 | 文学


これは、げに、先祖の御霊の、我を待ち給ふなりけりと思して、人を召して、開けさせて見給へば、内に、いま一重校して、鎖あり。その戸には、「文殿」と、捺したり。さればよと思して、また鎖開け給へば、ただ開きに開きぬ。見給へば、書ども、うるはしき峡簀どもに包みて、唐組の紐して結びつつ、にたに積みつつあり。そのなかに、沈の長櫃の唐櫃十ばかり重ね置きたり。奥の方に、四寸ほどの柱ばかりにて、赤く丸き物積み置きたり。ただ、口もとに目録を書きたる書を取り給ひて、ありつるやうに鎖鎖して、多くの殿の人任して帰り給ひぬ。

宇津保物語には、先祖が残した書物の入った倉を普通の人は開けられないが子孫が開けたらすいっと開いたみたいなはなしがあって、上の場面である。いまもこういうのが学者達の夢であるな。なぜかおれだけが分かったみたいな栄光である。そこには無根拠であるより、なにか根拠があったほうがよく、上の場合は血だが、そこにはいろんなものが入る。これを学者達のナルシシズムと言うのは簡単だが、なぜかそういうもので分かってくることもあるのだ。要は、対象に対する文字通りののめり込み方であって、学者達は対象に嵌入されないと語ることができない。いまはそれをてっとりばやく行うやり方があって、当事者研究というのだ。もちろん、これは社会主義者たちの「労働者」の眼問題からつづくあれで、権利獲得のものでもあるが、その心意気だけでうまくいくほど学問は甘くない。

今日は、横道誠氏の『ひとつにならない』をすいすい読む。横道氏の著作には対話篇と独白篇がうまいこと共存しているが、ソクラテス的でも柄谷的ダイローグでも昭和の文芸評論家たちの喧嘩でもなく、なんとなくマンガのなかの対話と独白みたいなかんじである。マンガの主人公がなにゆえ言いたいことが言えるのか。これは日本の文学の問題としてもすごく重要なところをついている。さっきテレビで、「当事者は嘘をつく」の著者がしゃべってたけど、当事者が研究者であるときの「嘘」をついてしまう感じについて考えさせられた。横道氏のやりかたはその解決への一つの道を開いている。「当事者は嘘をつく」はまだ読んでないのでなんともいえない。『ひとつにならない』は、発達障害の当事者の性のありかたについての報告・考察である。これはむろんタブーへの挑戦で、言ってはならない抑圧が実はそんなに抑圧として存在していないなきがする。逆に、発達障害という壁をうまく利用した実態解明である。

しかし、わたしにとっての問題は、横道氏とは違ったところにある。例えば、言ってはならないことなのに言ってしまう事例、「王様は裸だ」といったものだけではない。これは真実を言ってしまうので世の中を凍らせるだろうみたいな吉本的子どもで、一応「善」ということになっているが、――しかし、多くのこういう発言は「世の中やったもんがち」「卒論は出来が悪くても通るだろ」とか「コスパ最高」とか「気の弱い上司は脅すのが一番」とか「教師で学があるといじめられる」とかもろもろの「みんなが思ってそうなこと」も含まれている。というか、そういうものが世の中、おおっぴらに口に出されるようになってきている。たぶん、便所の落書きにすぎなかったネット文化の世間への解放と、空気を読めない人間への叱責の生滅による抑圧の消滅が原因である。

世の「空気」というのは、「みんなが思っていること」で出来ているのではなく、みんなが思っていることをいかに抑圧したり小出しにしたりして運転をするかという一種の「文化」であったはずで、いわゆる発達障害の当事者が書いたものでもそれはたいがい踏まえられている。しかし、人々の反感はただの同調圧力=数の優位としての抑圧(「空気」)になってしまっている。而して、世の中甘くはなく、――そういう「空気」を意図的に踏まえない者、ほんとうにわからない者、「空気」を法や制度にしてしまいたい支配者気質の者、などがからまりあって非常にめんどうくさいことになっている。実際、発達障害が疑われる人が、空気を読むことへのこだわりを起こして、権威主義的になったり規則の奴隷になったりすることもあるが、これは定型発達?の人にも多く観られることだ。さしあたり、特殊にみられる現象を潜在的なものの現れだととった方がよい場合もある。研究しているわけではないのでよくわからんが、発達障害の問題が、マイノリティの問題になりきらずに社会問題になってしまいがちなのは、そういうことに気付いている人が多いということだと思う。原因がどこにあるかはわからないが、とにかく全体的に世の中が狂ってることが重要ではないだろうか。

だいたい最近は大人のする「社交」がおかしいんだよ。こんなのは定型発達者だって出来ねえよみたいな幇間的なへらへらしたものが多い。NHKのニュースみたいなやつな。ひとつは虚礼廃止がでかかったんじゃねえかなと思う。あれらはめんどうなもので理不尽ではあったが、虚礼ではなかった面があって、意味がないからこそありがたがってしまう花火やお菓子みたいなものであり、これがなくなると、逆に意味のある媚びや諂いが必要に思えてしまうのだ。チョコレートや賀状の方が無害に決まっているのである。

もっとも、わたしは田舎もんだからちょっと迷うのが、都会の人がいく「空気を読む」みたいなものがわたしの考えるものと大幅に違っているんじゃないかというやつだ。わたくしは、ここで言ってはならないことになっていることを言っているのである。つまり、東京もんは気が狂ってる、というあれである。もちろん、事態はそんな簡単ではない。我々は横道氏と同じく、具体的なものでしか物事を語れない。

宮中のフィルター

2023-02-03 18:27:56 | 文学


それよりはじめて、上まで御唱歌して、帝、「遅しや」とのたまふ。涼・仲忠久しくありて、楽、心とどめて仕まつる。神泉の南風は、驚かしく凝々しくて、今宵の細緒風は、高く厳めしく響き、静かに澄める音出で来て、あはれに聞こえ、細き声、清涼殿の清く涼しき十五夜の月の隈なく明かきに、小夜更け方に、おもしろく静かに仕うまつる。帝よりはじめ奉りて、涙落とさぬ人なし。


唱歌とは楽器の旋律を譜で唱えることで、民謡にも謡にもこういうさあゆくぞみたいな部分がある気がするのだが、調べていない。これにくらべるとクラシックの音楽はたいがい沈黙を最初に置く。確かにここでも、「久しくありて」演奏が始まるのでおなじようなものかもしれないが、帝が唸って「遅いなあ」と嘯く、これが重要な気がするのであった。

天皇の嘯きを圧倒し、みんなの涙をさそう琴の音は天と繋がっている。にも関わらず天皇の前でより違った洗練の仕方をみせて響いている。このような神性の分有みたいな現象を、源氏物語なんかは受け継いでいないようだ。そこにあるのは血の宿命なのである。文学史の面白さは自分も永い間生きてみないと案外分からないところがある気がする。平安時代の傑作群が案外時期的に密集していたかもしれないところなんか興奮させられる。蜻蛉日記とそのあとの女たちの物語の時期的な距離感はおもしろいし、いったい宇津保はどのように読まれていたのだろう。中上健次なんかをよんでると、宇津保はなんか神代のものに近い感覚を持つが、紫さんたちにとってもそんなに遠い時期に書かれたのではない。われわれにとっての中上のようなものなのである。

よくわからないが、宮中というのにいまの大学ににたフィルターがかかっていたことも事実のような気がする。作品は宮中ないしはそれに近い環境でかかれながら、生々しくは受容されない。例えば、大学の世界では、面接ではたいがい愛読書を聞いてはいけないことになっておるのだが、勝手に「わたしはボードレールの「貧乏人を殴り倒そう」が大好きです」と言われてどういう反応を返したらよいのかのほうは決まっておらぬ。わたくしが言って居るフィルターの存在とはそういうもので、外からはかかっていないが、うちからはかかっている。

生成のとき

2023-02-02 23:10:14 | 文学


殿上童部、夜更けぬれば、候はぬうちにも、仲忠の朝臣は、承り得る心ありて、水のほとり草のわたりに歩きて、多くの蛍を捕らへて、朝服の袖に包みて持て参りて、暗き所に立ちて、この蛍を包みながらうそぶく時に、上、いと疾く御覧じつけて、直衣御袖に移しとりて、包み隠して持て参り給ひて、尚侍の候ひふ几帳の帷子をうち懸け給ひて、物などのたまふに、かの尚侍のほど近きに、この蛍をさし寄せて、包みながらうそぶき給へば、さる薄物の御直衣にそこら包まれたれば、残る所なく見ゆる時に、尚侍、「あやしのわざや」 とうち笑ひて、かく聞こゆ。
 衣薄み袖のうらより見ゆる火は満つ潮垂るる海女や住むらむ


尚侍の歌はそれまでの状況説明とは異なっている。帝がいかに蛍の光でしゃれたことをやっていようとも、それは日常的説明の平面をでないが、尚侍が直ぐさま歌でかえすと時間がとまって全体が作品となる。歌だけでなく、詞書きがあるのは、このジャンプの機能こそが作品の生成を示していて、その生成こそが重要だというのが分かっていたからだと思うのである。それは、ミメーシスでもポイエーシスでもなく、生成であり、われわれはそれが蛍とか帝、袖とかいうものと通じて出来上がってくると思っていたに違いない。

ヴィトゲンシュタインが『哲学宗教日記』のなかでたしか、映画は本質的に夢であってフロイトがうまく使えるんだと言ってた。ほんと、むしろ使えすぎるものに時々興奮するだけでなく、いまや掌サイズのスクリーンが手の中にあって常にそのなかを覗き込んでるわれわれはフロイトを手中に収めたといえるのだ。――まあそれは、冗談だとしても、ヴィトゲンシュタインはいつ読んでも何言っているのかわからんが、彼も日記と著作ではかなり別人であるのはわかる。おれたちの社会はスマホなどによる日記のやりとりばかりで生産力あげようとする社会になりつつある。フロイトの可視化がダリの絵画ではない。日記は詞書きである。

日本人にとって道徳とはなにか

2023-02-01 23:05:36 | 文学


北の方かう遊ばすこと、昔、大将のおとどに対面し給ふ山に住み給ひし時弾き給ひけるままに、その後、さらに、住み給ひける世に手触れ給はず。この大将のおとどにも、さらに、この琴弾きて見せ奉り給はず。宰相の中将は、時々、紀伊国などにても仕うまつられけれど、この北の方は、さらに、里に出で給ひて後、琴に手触れ給はずあるにかくわりなく聞こえ給へば、仕まつり給ふ。なほ、年ごろ騒しくなどして、まれにこそ思ひ出で給へ、忘れものし給ふを、この琴に手触れ給ふにつけて、よろづ昔のこと思ほえ給ひて、あはれなること限りなし。

俊蔭の娘(仲忠の母)が朱雀帝の命で長年弾いていなかった琴を弾き、息子に琴を習わせたこととか南風の琴を弾いたこととかを思い出しながら素晴らしい演奏をしてゆく場面であるが、ここでは我々が過去にあったことを物に即して、反応して思い出さなければならず、そしてその思いが行為に伝染しなくてはならないみたいな、法則、――いやこれは一種の道徳が働いているように思う。隠れていたものが、影が光としてみえるような反転の世界である。

日本の古典読んでると、どうしても四書五経ぐらいはちゃんと読まなくてはおさまりがつかなくなるのは、古典の世界にどこかしら道徳の薫りが残っているからでもあろうか。――国語の先生が確信をもって古典漢文の意義をとけるのはその段階にすくなくとも達していることが必要だと思う。理屈の前に必要性を自分が感じてるかが問題なのである。難しいことだけど、教師になる前にそこまでにいこうとすれば、やはりかなり早くやった方がよいわな。どうも、四書五経を暗誦させるような教育は、封建社会の勘違いに過ぎなかったとはとても思えないのである。それは大げさではなく、源氏物語の源氏が息子に言うように、大和魂(日本文化)に到達するために必要だったのではなかろうか。

特に近代文学などやった教師は、国語が道徳に回収されてしまうのを嫌う傾向にあるし、それは一応正しいけれども、それは日本の近代にでっち上げられた道徳規範がかなり痩せててくだらないからそういうことが起こる側面がある。文学は、寓話は言うまでもなく倫理的な要素を捨てられない場合が多いし、広い意味で倫理に向かっているものは多いから、国語の勉強を大きく道徳的に捉えるのはまったく無意味というわけではないと思う。そのかわり教科書の内容をもっとゆるく雑多にする必要はある。しかし、いま定番として残っているものであったも道徳として機能している。「ごんぎつね」もあれは日本人の道徳感情を醸成させているところがあるわけである。「舞姫」だって逆説的にそうだ。我々は兵十や、豊太郎の像を自分の影として自分の像をつくる。我々の自画像とはまだそんなところが残っている。べつにそういう機能を全部否定することはない。しかし、国語をコミュ力・言語能力みたいなものとしてとらえるとよけい、倫理を担っていた部分が道徳でやらざるをえなくなりその道徳はまた修身的な馬鹿馬鹿しいものになってしまう。そもそも、いまだ倫理的感覚が我々自身と社会のなかでどういう風に機能するのがよいのか我々は訳わかってないわけで、近代日本のそれはたいがい失敗とみてよろしいのではないだろうか。