
千重は、暗い所の上り框にかけたまゝ、キョトンとして、虚空を見つめた。食欲はなかった。そして、手足がしびれるやうであった。見つめる虚空の中に、狂った養父の顔がうかび出た。焼けおちた火炎の中で、その顔が歪み笑って、千重を手招く風であった。千重は、さすがに鳥肌が立ち、誰かに救ひを求めたかった。やがて、炎は、狂った義父の全身を包んだ。火勢はあがり、煙は渦を巻いて走った。狂者は、その火の中で踊るやうに見えた。それはまったく、生不動をそのまゝに見るやうだった。やがて、肉の火柱になり、それが崩れると、ドッと火炎は、天に沖した。
――幻の火は消えても、鳥肌は消えなかった。
千重は一刻も、家の中にゐたゝまれなかった。 畠の方へとび出していき、「美樹!」と叫んだ。こんな燗高い声が出るのは、何年ぶりかであった。すると、それが裏山の杉の古木立にぶつかって、
「ミッキー」と、はねかへってきた。千重はもう一度、金切声で美樹! 美樹! と叫ぶと、やはり、
「ミッキー、ミッキー」と、こだまする。千重は、その声のする杉林の方に吸ひこまれていった。林を突き抜けると、月がさして来た。展望はひらけたが、夜富士は雲に覆はれて、見えなかった。
どんなに醜い富士にしろ、富士が見えないのは、千重は無性に悲しかった。然し、不思議にも悲しみにうたれると、あの底ぬけの恐怖心が、少しづつ、ぬぐはれていった。さうして、体温がよみがへって来た。
――舟橋聖一「肉の火」(『新潮』昭22・3)
小谷五郎が杉原一司らとの座談会で坂口安吾の「恋をしにゆく」と舟橋聖一の「肉の火」を比較して、後者はイヤらしいと言っていた(『花軸』昭22・7)。たしかにそうなんだが、そんなに悪くないぞおたぶん昔読んだけど今は忘れたが、――と思って、さっき読んでみた。悪い女たらしが美樹子を「ミッキー」と呼んでいるところなんか、ものすごく情けなくなってくるし、母親が夜自棄になって娘の名を叫ぶとこだまが「ミッキー」とかえすところなんか落ちが落ちすぎてすごいが、このあとなんか母親が謎に元気になるところなんかいいじゃないか。たしかに、富士山やキリスト教の記号の使い方がかなりテクニカルすぎてちょっとな、とはおもう。安吾的にはたぶん、戦後における記号で遊んでるということになるだろうが、こういう遊びは中間小説?や大河ドラマでは伏線回収文化みたいに発展していった奴の一種ではなかろうか。安吾は堕落不足と言うだろうが、圧倒的な敗戦、どうしようもない生活のなかで、こういうしゃれた言葉遊び、落とし方に生の輪郭をあたえ、生きる活路をもとめていった大衆たちの気分を舟橋たちはとてもよく分かっていたのではないだろうか。この小説だけよむと、あれ、そういえば林芙美子よりすごいのではと一瞬思った。「肉の火」のテーマは敗戦であり、敗戦を天災みたいにみる大衆を屡々知識人は笑ってきたけれども、いったいどのように天災にみえているかというとよく分かっていなかったはずだ。舟橋は一応「こんな処理でしょう」というのを提案しているわけだ。それは都合のよい言葉遊びみたいな処理なんだが、これはこれである種の知なのである。
舟橋は、占領下の日本が、美樹子がミッキーになるような、アメリカ擬き=エンタメ化を起こしていることも見切っていた。とはいえ、舟橋の世代の絶望をよそに若者が勝手に育つことも確かである。若い頃のアシュケナージの映像を見ると、アル・パチーノが轟音を響かせてピアノを弾いているようでかっこいいが、――美樹子の世代以降、戦後に育った若者たちは、こういう趣があった。体当たりの文化というか、母たちが体温を取り戻すためにだけに生を消耗していくのを避けるため、四肢の力をミッキーマウスのように発散させながら振る舞った。
しかし、彼らの後の世代はどうなったかというと、ある種の「思春期」の型にはまりこんでいった。例えば「ドラゴンボール」みたいな作品である。悟空は、強くなったりすると髪の毛の色とか替わったりし、ときどき服装も状況によって替わったりするが、「やっぱおらはこれがいい」とか昔の服を着たりする、――この流れ、思春期のいきった男子(にかぎらんが)の様態そのものである。そういえば、馬鹿だけど修行してガンバった、学校にもろくに行ってねえが、息子(悟飯)は研究者になれるほど頭がいいんだぜ、という悟空の設定は、昭和?のある種のプロレタリアート親父の夢ではないか?
結婚や家族観もそうである。なんかかわいい女子が勝手に「おらと結婚しよう」となぜか言ってきたので「じゃ結婚すっか」でなんの苦労もなく結婚、しかも働かなくても何とかなり、で、幼なじみの女子は、昔一緒にヤンチャした悪友と結婚、かれらとは家族ぐるみの付き合いを続け、子どもたちや孫たちに囲まれ、そういえば地球も何回か滅びたけど、実は俺たちが守った、――中学生男子のよくある妄想に完全に沿った物語であって、ある種の保守性そのものである。この物語が世界中でウケたことの重要性は大きい。悟空などの戦闘シーンをかっこよくすればもっとウケるにちがいないというのは間違いだとおらは思うね。あと、悟空役がじつは80を超えたおばあちゃんであるのは重要である。中の人の情報が作品の享受にまで作用し、――「ドラゴンボール」は、作者の意図はともかく、大家族による人心の包摂の試みと化しているのである。
で、「ドラゴンボール」の作者の子ども達はどうなったか?上のような元気がなくなってケアの世代である。傷つきやすい奴が正義とみたい気持ちはわかるけど、人間もっと複雑なのではなかろうか。例えば思い上がりが激しいがゆえに傷つきやすいなんてことはざらにあり、小学校・中学校の先生なんかはそういうのを大量に相手にしなければならないのだ。だから優しく寄り添ってばかりだとよけい事態は悪化するのは当たり前だ。――しかし、ケアが世界の真理となると、こういう自明の理さえ看過されてくるのだ。もちろん、全員がケアされる訳ではないのがポイントである。ケアで溜まった鬱憤を暴力に堪えられる世代にむけているだけであって、その内実は差別である。
そういえば、私の論文はときどきアフォリズムの連続みたいになる傾向がある。よくないことである。わたくしは、論文を、デベルティメントではなく、交響曲として書いている。はたして論文に緩徐楽章が必要であろうか、とか考えるクチである。それなのに、音楽がニーチェや芥川の箴言みたいになったらだめなのだ。――しかし、これも、「ドラゴンボール」の作者とその子ども達の世代に挟まれた何かの影響かも知れないと思うこともある。