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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鍛錬場と自意識の世界

2025-03-15 23:43:01 | 思想


最も特色をなすのは、「日本的現實室」である。常連執筆者は一週最低五時間をこの室ですごさなければならない。ここには、尖端的な映寫設備と、立體音響設備と、各種の臭氣を發散する装置などがあり、中央に座蒲團が一つ置いてある。執筆者は義務として、その座蒲團の上に坐るのである。そして目の前に並んだ幾多のボタンの一つを押す。ボタンの一つには「日本的濕潤性」といふ名稱が書いてある。それを押すと、密室はたちまち、颱風の来る前のやうなじとじとした濕氣とむしあつさでいっぱいになり、まづ、何ともいへないいやらしい流行歌がきこえて来て、どこかで人のすすり泣く聲がし、やがて泣き聲は田舎の朝の鶏鳴のやうに、あちこちで競ひ立つてきこえるやうになる。すると、その泣き聲の一つ一つが分析されて畫面になつてあらはれ、母子の別れだの、親分子分の別れの盃だの、夫婦別れだの、戀人同士のすれちがひだの、數數の、えもいはれぬ悲しい光景を展開し、つひには一家心中の實況にいたる。 執筆者はあまりの實感に、「もうやめてくれ」と叫びたくなるが、責められに責められて耐へ抜くのが修行なのであるから、音を上げてはならない。やうやくこれが終り、次に「アジャ的停滯」といふボタンを押すと、まづ耐へがたい糞尿の臭氣が部屋いつぱいに立ちこめ、どんなに鼻をつまんでも防ぐことができない。やがてしづしづと、都大路をねり歩く牛車があらはれ、新型の自動車の列に悠々と追ひかれながら、その牛車の積んでゐる桶が示されるが、立體畫面でその桶のひとつが轉倒し、黄色い液體がザアッとこぼれてくる迫真性には、思はず頭をおほわずにはゐられない。

――三島由紀夫「個性の鍛錬場」


三島の「個性の鍛錬場」の後半は、文士たちが「日本的現実室」とか「日本の貧しさ」とかいうボタンを押すとそれを映像とか音響とか臭気発生装置などによって体験する部屋に籠もらなければならないみたいな「鍛錬場」が描かれていて、当時はありえなかったであろうが、現在ならあり得る。VRといかなくとも、youtubeなどを永遠に覗き込んでいる方々は、「個性の鍛錬場」に籠もっているようなものだ。三島の想定するのは才能ある文士たちの鍛錬であったであろうが、素人がこれをするとまさにみんな違ってみんないレベルの個性が叢生する次第である。いうまでもなく、それは個性と言わなくもよい。しかし、個性なんかないんだとはいえない。あるに決まっているからである。それ以上のことを何かを乗り越えた形で言い始めるとよくない。三島が提案する鍛錬による反発の方がまだましだ。

三島由紀夫は「楽屋で書かれた演劇論」で、フルトヴェングラーのことば、――「ワーグナーは芸術家だったから理想主義者ではなかったが、ニーチェは理想主義者だったからワーグナーを嫌った」を引用して、日本でも江戸時代まではこういう考えだったと言っていた。というわけで、独逸のほうは、日本の江戸時代の状態のまま敗戦を迎えたのかも知れないのである。日本は、その独逸精神を近代(もしくはそれを超えるものだ)とだと思っていたから、結局、未来に向けられたまなざしが江戸に逆行して行くのは時間の問題であったのかもしれない。

フォークソングの時代に「翼をください」という曲があった。あれは右翼と左翼が共闘すれば悲しみのない自由な空へイケるという感じじゃないだろうか。しかし、現在もたいがいどちらかだけだし、もっとひどいのになると、中道とか言うて、道しか歩かない気満々のやつが超克しました顔ででかい顔をし始める。せめて中道ではなく中論ではなかろうか。清水高志氏の最新研究に期待である。

発達障害の「発見」も何かを超克した顔をしているが、その実、それで見えなくなった部分も多いからむしろ後退である。実際、それによって新たな差別の方便となっている。自分は発達障害でみんなで協力するみたいな場面で何をしたらいいのか分からない、みたいなことがよくネット上でも歎かれているのだが、当たり前だが、協力すべきでない場面も結構あるのだ。そういうことがあまりにも言われなさ過ぎているのは、発達障害は現実に適応できないという観点が我々に立ちふさがっているからだ。小学校とか中学校でそんな馬鹿馬鹿しいことにノらなきゃいけないのかということは昔からあったが、気のせいなのか今のほうがひどく多い。「生きる力」とか「共感力」みたいなことが言われ出すのには確かに理由もあったが、だからといってそれへの対処法が常に正しいとは限らない。先生たちがそういう懐疑をみずからに向ける頭脳の余裕をなくしている。

こういう差別に組織経営の半端なコンサルティングとやらが合体すると最悪である。危機への対処のために平気で差別は仕方がないとみなし始めるのだ。ほんとなにそれ、そういう風にすべき理論でも存在してんの?というかんじである。危機に陥った組織はその構成メンバーがさぼっていたからだという論法、戦争末期とか戦後の総懺悔の時のあれである。で誰が言ったかというと、自分の失敗を隠すための何か言わなくちゃいけなかった輩だろう。いまでも確実にそうである。だいたい、広い意味で組織や社会に対して革命ではなく説教するたぐい――コンサルみたいな役割を担っている学問て、動機がだいたいルサンチマンなのである。だから自分はなにか体制への反抗者だと思っている。そのルサンチマンとは勉学に対する苦労から来ていて、ニコニコしながら実験したり思索をしているタイプが脳天気に見える。で、時代遅れ(あるいは発達障害)とかなんとかいって攻撃するわけである。以前、戦争に進んだ理由はたくさんあるけど、ひとつはそういうルサンチマンの持ち主が学生が増えることでけっこうな勢力になってしまったというのが確実にあるようなきがする。いまもそうだから。

例えば、カーツワイルのシンギュラリティが「AIが人間を超える」という、これまた「超克」思想の一種なのは、この考え方が自意識(ルサンチマン)と繋がっていることを示している。AIを人格みたいに捉えて勉強で勝とうみたいな自意識の連中がいるのだ。確かに、機械的暗記とか学習をAIが代替すべき局面はあるし、人間もその強いられた学習の機械性をいやがっているから、みたいな意見には一理あるが、学校の勉強に限らず、知識の整理整頓や問題を解くみたいな作業には、ある種の人間的な快感があるのである。当然、社会の中の事務仕事にもある、というか多くの仕事にある。それ以外に人間的なものが存在すべきという感覚は分からなくはないが、人間はそういう単純に自由な動物ではないと思う。脳が発達してしまったためにか?高度な単純労働が好きな側面があるのだ。基本、研究も教育もそうで、機械的な作業の習慣がついている奴、機械的作業を行わせる教育者だけが、その帰趨として自由みたいな地点にたどり着く。これにたえられない人間がルサンチマンを抱いて、AIを片手に脅しをかけているわけである。

こういう自意識の政治が行われている一方で、単に差別的でヤクザな世界というものはある。先頃、アフリカから来た礼儀正しいバイトのお兄さんがいたコンビニがつぶれたので、次に家に近いコンビニに行ったら70ぐらいの日本人女性がバイトやってるコンビニで、まだ「コンビニ人間」の設定は牧歌的だったのではないかと思った。官僚的な世界に限っても、社会保障とか教育の現場の一部ではあと一万円になっちゃった、あと5000円になっちゃったみたいな話題で頭を抱えているのだが、一方では元税金のすごい金が動く分野があり、そこに群がって沸いてくる人間はレベルが違う。悪い意味で。もうそういうところででてくるエピソードというのはほんと週刊誌の記事かよみたいなものがある。アカデミシャンはしばしば週刊誌の記事は盛っているとはじめから決めつけがちなのであるが、むしろ抑制されている部分だってかなりある。そもそもみんないろんなことを見聞きしながら黙っているものだ。


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