
秋風のことに身にしむ今宵かな 月さへすめる宿のけしきに
和歌はシンメトリーの芸術であることはたしかで、下の句が上の句に回帰し作品のなかを思念が循環するように創られている。それが循環と感じないのは、上と下のシンメトリーがあるからである。
果たして、我々の人生もそういうものであろうか。
昨日、思いついたのだが、ショスタコービチの交響曲は、8番を蝶番にして1-15、2ー14、3-13、4-12、5ー11、6ー10、7ー9という風に屏風のようになっていると思う。それらの屏風は左右が前編後編の組み合わせのようになっている。8番を折り返し地点のようにして、9番以降は初期に逆行して行く。彼が意図してやったものなのかわからないが、彼は人生を作品のシンメトリーとして構成してしまったような気がする。特に第13,14番の合唱付き交響曲は、内容的にも第2、3番の若書きの合唱付き革命交響曲への否定のように思われる。
この金米糖のできあがる過程が実に不思議なものである。私の聞いたところでは、純良な砂糖に少量の水を加えて鍋の中で溶かしてどろどろした液体とする。それに金米糖の心核となるべき芥子粒を入れて杓子で攪拌し、しゃくい上げしゃくい上げしていると自然にああいう形にできあがるのだそうである。
中に心核があってその周囲に砂糖が凝固してだんだんに生長する事にはたいした不思議はない。しかしなぜあのように角を出して生長するかが問題である。
物理学では、すべての方向が均等な可能性をもっていると考えられる場合には、対称(シンメトリー)の考えからすべての方面に同一の数量を付与するを常とする。現在の場合に金米糖が生長する際、特にどの方向に多く生長しなければならぬという理由が考えられない、それゆえに金米糖は完全な球状に生長すべきであると結論したとする。しかるに金米糖のほうでは、そういう論理などには頓着なく、にょきにょきと角を出して生長するのである。
――寺田寅彦「防備録」
我々の発想は、しばしば算数的になる。金平糖でさえ人間の論理を無視して角を出す。我々だって本当は金平糖のようなものだ。