★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

北斗七星

2021-11-04 23:53:58 | 日記


「ギイギイ、ご苦労だった。ご苦労だった。よくやった。もうおまえは少佐になってもいいだろう。おまえの部下の叙勲はおまえにまかせる。」
 烏の新らしい少佐は、お腹が空いて山から出て来て、十九隻に囲まれて殺された、あの山烏を思い出して、あたらしい泪をこぼしました。
「ありがとうございます。就ては敵の死骸を葬りたいとおもいますが、お許し下さいましょうか。」
「よろしい。厚く葬ってやれ。」
 烏の新らしい少佐は礼をして大監督の前をさがり、列に戻って、いまマジエルの星の居るあたりの青ぞらを仰ぎました。(ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません。)マジエルの星が、ちょうど来ているあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧きました。


――宮澤賢治「烏の北斗七星」


わたくしの小学生のころの師匠が、死ぬ間際に宮澤賢治に拘っていた。宮澤賢治は子ども向けというより死に近づいた人向けなのだ。考えてみると、子どもは死に近くないかもしれないが虚無には近い。虚無から出てきたばかりだからだ。童話は白鳥の歌を歌い、白鳥の歌は童話的であると言えるかも知れない。

新美南吉にしろ、宮澤賢治にしろ、学校で扱って童話に閉じ込めているのがまずい。青春の文学を童話の側から捉えることしか出来なくなる傾向がある。逆に青春の文学の側から童話は捉えられるべきかもしれない。それが難しいかったら思い切って童話を老人のものとして扱ってよいんじゃないかな。。。