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ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば 松は独りにならんとすらん
わたくしは、こういうセンチメンタルなものよりも、ヤマトタケルが、お前が人ならば服や刀をつけてあげるのに、と歌ってる方が好きだ。そもそも松は別に西行みたいに寂しいわけではなく、虫や周りの植物たちと仲良く暮らしているのである。
この歌は善通寺での歌として知られており、――この前に崇徳院の墓にいってたらしいから、何かにあてられていることは確かであろう。わたしも、山之口貘などのお墓参りをしたあとで、電車の上り下りを間違えた。いちばんすごいのは、「ハイデガーフォーラム」の例の「黒ノート」の特集のときの帰り道、新幹線の上り下りを間違えたという事例がある。したがって、もともとおれは何かにあてられている可能性がでてきているのであるが、――それはともかく、思想文学の世界は、英雄崇拝なところがあって、読者は生き方を変えさせられる。しかしまあそれは転回とか転向とかいうものではなく、病気みたいなものである。
Kopernikanische Wende とはもっとすごいものであろう。見方が180度変わるんだから、たぶん人間は生きていないのではないか。
そう考えると、上の和歌なんかは、ありえない空想をしている意味では、ある意味で人間を超えているのであるからして、見所があると言わざるを得ない。
今日、伊藤比呂美氏の『なっちゃんのなつ』を読んだ。絵は片山健氏で、たしかに、植物と昆虫と人間て子どもの頃は、こんな感じで見えてた気がする。一番明瞭に輪郭が動いてみえるのが昆虫で、最後が人間でぼやけている。こういうのに対して、『ふしぎなたけのこ』なんて絵本は、全てが明瞭である。子どもにとっては、こういう輪郭の見え方の変更こそが転回である。