かつみ葺く熊野詣の泊をば こもくろめとやいふべかるらん
西行を毎日ちょっとずつ読んでいるが、なんとなくいっこうに気が晴れてこない。やはり「魂の旅路」(『角川ソフィア文庫 西行』の表紙)している人というのは気が晴れないに決まっているのであった。何が「いふべかるらん」じゃ、と思わないではない。
かんがえてみれば論文でもそうだが、相手にするのは人間ではなく「社会」だから、人間の感情はそこで常に死ぬ可能性がある。言葉、というより文章というのはそういう怖ろしいものだ、ぐらいの認識はあったほうがいいように思う。
日本人は事実を書き残すことが苦手だとか言われているけれども、苦手というより社会からの反応が怖くて書けなかったのではないか、とわたくしは考えている。言葉は「社会」化するとその形式的反映としての暴力となって反ってくることがあるからである。しかし、日本の文化が和歌のようなものにより依存しているのは、そういう恐怖のなかで感情を殺さないためでもあると思うのである。
つまり「社会」化への恐怖と、「社会」からの実際の暴力は一応別の問題だ。ところで、
かように我々の社会は、――特に最近は下手をすると、自分と自分の周囲を、考える限りの最悪の組み合わせみたいに見る人が増えているように思われるが、大概そう思われるものは時代の変化という屁みたいなものなので、元気をだしたほうがいいのだ。感情を殺されるよりはずっといい。そういったときには、意味を暗号化し圧縮した和歌で生き延びるという手もある。そもそも天皇が、そういう戦略をとって生き延びたのかもしれない。