★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

玉と枕

2021-11-16 23:02:46 | 文学


よしや君昔の玉の床とても かからんのちは何にかはせん


「かからん後は何にかはせん」とは、もはや歌ともおもえず、この日常的な酷薄さが聞き手をびっくりさせる。聞き手が崇徳院でなくてもよいのだ。人生、たいがいは「かからん後は何にかはせん」という呼びかけのくり返しであり、しかもそれを受けいれられないのが我々である。

玉主に玉はさづけて、かつがつも 枕と我は、いざ二人ねむ(六五二)

これは、自分の娘を嫁にやつた母の気持ちを詠んでゐるのです。「かつがつ」といふ言葉が、二人寝るといふ条件を、完全には具備してゐない事を示してゐるのです。つまり、枕と自分とだけでは、やつと形だけ二人寝るといふ事になるので、もつと何か特別な条件がつかないと、完全な二人寝ではないのです。たまの本来の持主にたまを授けた、保管せらるべき所にかへつた、といふのが「玉主にたまは授けて」といふ事なのですが、この意味が、はつきり訣れば、「かつがつも」が解けるのです。これは唯、今まで二人ねて居て淋しくは思はなかつたが、これからは、それが出来ないから、枕と二人寝しようよと言ふ事だけでは訣らないと思ひます。つまり、枕べに玉を置いておくのは、そこに、その人の魂があるといふ事なのです。其で完全な一人なので、そこへ自分を合せて二人となるのです。旅行とか、外出し又、他の場合、死者の床――の時には玉を枕べに添へて置く。さうすると、「たまどこ」といふ言葉で表される条件が整つて来ます。「たま床の外に向きけり。妹がこ枕」と言ふのは、もう魂がなくなつてゐる事を言つてゐるのです。この場合は、嫁にやつた娘と私と、二人分を表すものはないが、これくらゐで二人寝てゐるのだと条件不足だが、まあ、さう思うて寝ようと言ふ意味です。だから、枕辺に玉を置くまじつくがあつた事を、考へに入れて解かなければ、此等の歌は訣らないのです。


――折口信夫「万葉集に現れた古代信仰――たまの問題――」


とすれば、崇徳院も宮廷には劣るがつつましい玉の床みたいなもので自分の住処を飾り、「かつがつも」という気分でいたらよかったのではないだろうか。だいたい自分の世話も自分でやってないから、玉の床がなくなったときに途方に暮れてしまうのである。西行が天皇を扱っているときには、それは人間に寄った現人神であった。神が人工的で気持ち次第ということになれば、枕を玉のつもりにすればよかったのである。

ネトウヨ?時代の古谷氏とシールズの奥田氏の対談が『愛国とは何か』に載っている。それは愛国談義というより、相手を普通だリア充だ非リア充だと決めつける、まるで新手の漫才であったが、かれらの論議も、何を玉とし枕とするかという議論になってしまっている様な気がする。彼らだけでなく、我々は自分のやるべき事よりも、あったかもしれない玉にこだわりすぎている。西行の言うとおり、我々は天皇と人生をはやく捨てなくてはならない。