行方なく月に心の澄み澄みて 果てはいかにかならんとすらん
これはボレロのような歌であるが、下の句の頭ですでにクライマックスに達していて、あとは、行方をうしなった心が「ならんとすらん」とらんらんとしている。わたしは、虚無の上に自我を置くとか、虚無の中を書物が飛んで行くみたいな意識とはこれはまったく違うものだとおもうのである。月によって心が澄んで、月から跳ね返った力でみている自我は跳んでいる、とそんな感じであると思う。
くち惜しきふるまひをしたる朝
あららんらんと降りしきる雪を冒して
一目散にひたばしる
このとき雨もそひきたり
すべてはくやしきそら涙
あの顏にちらりと落ちたそら涙
けんめいになりて走れよ
ひたばしるきちがひの涙にぬれて
あららんらんと吹きつける
なんのふぶきぞ青き雨ぞや
――萩原朔太郎「ふぶき」
さすが朔太郎くらいになると、「口惜しきふるまひ」みたいな地上的な出来事によってでも、心はらんらん状態となり、ふぶきもそんな感じで降り始める。