★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

自己同一性への屈折

2021-11-14 23:33:28 | 文学


今宵こそ思ひ知らるれ浅からぬ 君に契りのある身なりけり

鳥羽院が崩御したときの歌で、ほとんど恋歌である。因縁というのは、ほとんど恋と同じような感情であることがあるが、こういう死の場面によって二つが結びつく。こういう現象はほとんど自己同一性の発生と同じであるが、なんだかこういう天皇だか恋人だかみたいな因縁だか、ふわふわしたところに自己の起源をみることはやはり我々でも難しい。

我が国は文芸の国だとか屡々言われるけれども、源氏物語に描かれている人間ははやくも案外我々と似てて、おおざっぱなこと言うと、古事記や万葉集でなんだこりゃみたいな感じをうけるということはあるが、その起源に遡ろうとしてもそのまえの存在がよくわからない。だから、文字文化に関して言うと、案外歴史が浅い文化ともいえるのである。

自己同一性は異物との屈折的な和解であり、つまり感情移入を撥ね付けるものがないとアイデンティティを形成する屈折が生じない。アメリカなんかは、制圧した人々の存在が屈折を生んでつねにアイデンティティ=ナショナリズムが発生する。我々にナショナリズムがうまく作動しない理由もそんなあたりにあるかもしれない。戦後の歴史小説の影響もあって生じたのは、むりやり三英傑あたりに自己の始まりを見るやり方だ。それは鎖国の始まりとも重なっていて自己の輪郭の明確化にも一見、見える。しかも、外部から襲いかかる思想や宗教をめぐるめんどくさい関係をあまり考えないですむし、江戸の平和を戦後の平和に重ね合わせて、戦争へのアンヴィヴァレンツも軽減されるし、便利だったのかもしれないが、やはり無視する側面が大きすぎる。やはり私自身は、勇気を持って古事記辺りをきちんと鏡として覗き込むべきだと思うのである。

木曾冠者の破壊的な行動がなかったら、王朝文化は古典にならなかったであろう。歴史的人物としての義仲の意味はこれである。

――ヴルピッタ『不敗の条件―保田與重郎と世界の思潮』


これなんかわりと鋭いと思うんだが、木曾義仲が内乱の首謀者だからいいわけで、これが米軍だと違う訳だ。古典の生成は起きずにむしろ抑圧が始まった。ただ、それが自己同一性に関わる重大な局面だったことは直観されており、先の戦争に関する議論が感情的なそれになるのは、それが我々の自己同一性の起点とかんがえられているからではないかとおもう。人殺しをし、されたという自己に対する屈折を抱えたからこれは確かに正解なのである。明治維新にむりやりもってこうという動きはあるけど、維新のあたりは結局外圧に屈したみたいなところを無理やり押さえ込んだ面を排除できないわけで居心地が悪い。ここにはあまり人々は最終的には靡かない。

我々は明治の文明開化から変化のなかで世界観を練り直しうまく自分たちのものにするという行為に失敗した。まあ敗戦が大きいわけだが、やはり時間が短かったと思う。だからこれからだとは思うが、そんな余裕があるかどうかわからんね。。。