《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

辺野古新基地は、「日本版海兵隊基地」だった(最終アップデート版)

2015-03-05 09:40:34 | 沖縄問題
《管理者から一言》
 当ブログ1月26日付で掲載したS.嘉手納氏の論考が沖縄の各方面で注目され始めている。「辺野古新基地は〝日本版海兵隊基地〟だった」という分析と論究は衝撃をもって受けとめられている。そこで同論考に筆者が推敲を加えたものを再度掲載する。改めてじっくり読んでいただきたい。


辺野古新基地は、「日本版海兵隊」の基地だった(最終アップデート版)


                         2015年2月5日 S.嘉手納(沖縄在住)


【1】政府・外務省が沖縄関係の外交文書を公開

 昨年12月の「辺野古移設反対」をかかげた翁長雄志知事の誕生以来、安倍政権の閣僚は知事との面会を拒否し、就任の挨拶さえできないという異常な状態が続いている。辺野古新基地建設に反対しているというただそれだけの理由でことごとく冷遇され、話し合いはもとより、会うことさえ拒絶されている。日本は独裁国家ではなく民主主義国家であるにも関わらず、信じがたいことが常識のように行われている。これは何を意味しているのだろうか。

 政府外務省は1月15日、これまで非公開扱いされていた外交文書の一部41冊を一般公開した。この中には、沖縄関係9冊が含まれている。1月15日は県警が抗議する市民を暴力的に排除し、辺野古の本格的な工事に着手した日。なぜこの日を選んで外交文書を一般公開したのか。いぶかる声が上がる。

 ほとんどのメディアは、この外交文書の公開については1965年8月19日の佐藤首相の那覇空港での演説に焦点を集中させ、米国による「安全保障上の沖縄の重要性を盛り込め」とする圧力に屈せず修正しないまま演説を行ったことの評価に終始した。この外交文書について、沖縄タイムスと琉球新報に掲載された河野康子法政大学教授のコメントでは、「佐藤首相の沖縄訪問が広い意味で返還への原点となった」と述べている。沖縄返還の「原点」とは、27年間の血のにじむような沖縄県民の本土復帰闘争であって、河野教授のような言説には怒りを覚える。これは、そのように読んでほしいという政府のメッセージを代弁したものでしかない。

 この公文書から何が出てくるのかを期待している私にとっては、政府の情報操作に沿ってくり返されるこれら官制の言説にはフラストレーションだけが高まる。人々の目となり耳となり真実を報道することを使命とするメディアへの危機を感じる。では、この外交文書の公開から何が見えてくるのだろうか。私なりに解明したい。

【2】日本政府は米海兵隊の撤退に反対していた

 1月16日の琉球新報は、まったく違った視点でこの公文書を報じた。琉球新報は、以前から特別取材班を編成して沖縄の基地問題、とりわけ辺野古移設についての綿密な取材を行い「日米廻り舞台」という特集記事を連載してきた。2014年9月、それを1冊の本として『普天間移設 日米の深層』(青灯社)を出版している。この記事を読んでいた私としては、公開された外交文書から新たな資料が出ることを期待した。

 まず、2013年11月10日の琉球新報は「本土復帰後の1972年10月、米国防総省が沖縄の海兵隊基地を米本国に統合する案を検討していたことが、オーストラリア外務省の公文書で9日までに明らかとなった。米国務省も73年1月に『(普天間飛行場は)明らかに政治的負債だ』との見解を示している。一方で、直後の日米安全保障条約運用会議(73年1月)で防衛相は海兵隊の維持を米側に要求。米側の海兵隊撤退の動きを日本政府が引き止めたことで、在沖海兵隊基地返還の機会を逸していた可能性が高まった」と報じた。この公文書は、沖縄国際大学の野添文淋講師(国際政治学)がオーストラリア外務省の公文書の中から発見した。

これまでは、国土の0.6%に米軍基地の74%が集中している沖縄の異常な現実は、アメリカ政府が基地返還要求に応じなかった結果と言われてきた。ところが、まったく逆にアメリカ政府は72年返還時に在沖海兵隊の撤退を検討し、日本政府がそれに反対して沖縄での駐留継続を要求していたという驚くべき事実がオーストラリア外務省の公文書から見つかった。流布されてきた常識が180度ひっくりかえる重大な発見である。

さらに、『普天間移設 日米の深層』では、アメリカの民間団体「国家安全保障文書館」が情報公開請求で得た資料について書いている。それによると、73年1月の米国務省のメモには、在沖海兵隊について「使用される航空機が住民の多く住む地域を低く飛び、目立った騒動を引き起こす」「普天間は明らかに政治的負債だ」と書かれているという。また、「海兵隊を沖縄に置くよりも、カリフォルニア州サンディエゴに移転した方がかなり安上がりで、より効率的(国防総省分析専門官)」とある。この資料によって、米政府は在沖海兵隊の本国への撤退を考えていたことが裏付けられた。

 それ以外でも、元国務副長官のリチャード・アーミテージは「米国は沖縄から海兵隊を全面撤退させるか、特殊部隊を除く部隊を大幅に削減すべきだ」と語っているという。(これらの証言は多数にのぼるため、『普天間移設 日米の深層』を参照してほしい。)

 沖縄では、米陸軍はグリーンベレーの特殊部隊以外は本国に撤退し、米海軍も原潜部隊を除いて撤退している。残ったものは嘉手納の空軍と海兵隊だけ。在沖米軍の最大の部隊である海兵隊が撤退すれば、嘉手納基地と若干の基地しか残らない。嘉手納以北と以南のほとんどの基地はなくなっていたことになる。

【3】日本政府が30%の返還を主張

 今回公開された外務省公文書の中には、1972年の沖縄返還にむけた米軍基地の返還をめぐる日米交渉の資料が含まれていた。1970年6月から1971年4月頃の機密文書である。

 これによると、日本政府は返還される基地の数値目標を示し、30%程度の縮小しか要求しなかった。70年6月、在日米国大使館の書記官と会談した外務省担当者の「現在の規模の70%前後に縮小すれば、国民の目には整理統合が行われたと映るだろう」とのメモがある。11月には、愛知揆一外相がマイヤー駐日大使との会談で「象徴的価値のある若干の基地」の返還を要請し、那覇市内の米軍住宅などを例示している。外務省は「我が国の防衛力から無用の長物になる恐れがある。費用もかかり、かえって迷惑」とも発言していた。

 この「我が国の防衛力から無用の長物になる恐れがある。費用もかかり、かえって迷惑」というメモは、日本政府の沖縄返還政策を考えるうえで重大な意味をもつ。

 沖縄が求めてきた「基地撤去」「基地の返還」とは、軍用地を元の所有者に返せということである。外務省の発言は、日本政府が沖縄の米軍基地を元の所有者に返す意思がまったくなかったことを示している。さらには「象徴的価値のある若干の基地」として那覇空港や、天久の米軍住宅をあげている。返還後に帰ってきたものは、現在那覇の副都心となっている天久の米軍住宅や、北谷町美浜のアメリカンビレッジになったハンビー飛行場や、沖縄市の副都心になった泡瀬通信基地などだけで、30%にも達していない。

 また、日本側が「復帰の象徴」と位置付けていた那覇空港は、日本政府が基地の返還をどのように考えていたのかを示す格好の例である。現在の那覇空港は、復帰前は米海軍の基地であり、軍港と一体になった海軍航空部隊の飛行場であった。ところが現在は、沖縄の玄関口でありながら復帰後は航空自衛隊の基地となり、施設管理権も航空自衛隊に全面移管されてしまった。米軍基地が自衛隊基地になっただけで、何も変わっていない。空港周辺の広大な緑地となっている米海軍基地は元の所有者に返還されず、航空自衛隊、海上自衛隊、陸上自衛隊が混在する自衛隊基地になってしまった。

 これらは、復帰を利用して米軍に代わって自衛隊が沖縄の軍用地を占領したことを意味する。県都の玄関口の空港が自衛隊基地のど真ん中にあるところなど、日本のどこにあるだろうか。これが、「象徴的価値のある若干の基地」返還の実態である。

 今回公表された外交文書の解釈はメディアによってさまざまである。ほとんどのメディアは、佐藤首相の那覇空港での演説内容についてのみ言及し、米軍基地の返還問題の資料には触れていない。わずかに琉球新報と沖縄タイムスだけがそれについて書いている。沖縄タイムスは「米の圧力 基地集中招く 日本、変わらぬ従属姿勢」との見出しで、基地の返還を拒否したのは日本ではなく米国だったと、まったく逆の報道を行った。沖縄タイムスが「対米従属論」から演繹していることに対して、琉球新報は綿密な取材によって米海兵隊の本国移転と、日本側の駐留継続要求をつかんでいた違いが現れている。

【4】踏みにじられた基地返還の要求

 沖縄の米海兵隊は1956年2月、岐阜県のキャンプ・岐阜と山梨県のキャンプ・マックネアから移ってきた。本土では、朝鮮戦争後の1952年以来、内灘、北富士、砂川に代表される米軍基地撤去の闘いが行われ、海兵隊はそれに押し出されることで沖縄に移駐してきた。それが、沖縄にとっての歴史的な「銃剣とブルトーザー」による土地の強奪であった。その後キャンプ岐阜は航空自衛隊岐阜基地となり、キャンプ・マックネアは陸上自衛隊北富士演習場になっている。本土では返還された米軍基地はその後自衛隊基地となっており、米軍基地で所有者に返ってきたところは、激しい住民のたたかいで取りもどした内灘くらいではないだろうか。

 「我が国の防衛力から無用の長物」とは、在沖米軍基地の30%程度を「返還」し、残りの70%は日本政府が米軍に代わって占領し、自衛隊基地として使うことを考えていたということである。それらは「銃剣とブルトーザー」によって強制接収された土地であり、沖縄からすると二重の強奪となる。

 沖縄の土地闘争(反基地闘争)の発祥の地・伊江島は、島の三分の一が今なお米軍基地のままで、現在はオスプレイの訓練場として使われている。農業以外に産業のないこの小さな離島にとって、農業は生活の唯一の糧。米軍基地といっても、境界線に杭が打ってあるだけで風景は農地のまま。伊江島の人々は、現在も米軍基地を黙認耕作地として使い生計を営んでいる。国を提訴したが、敗訴した。

 読谷村は、村の中心部に読谷補助飛行場があり、パラシュート訓練場として使われていた。1956年6月11日、棚原隆子ちゃん(10歳)が、パラシュートにつり下げられたトレーラーの下敷きになり圧死する事件が起きた。その後、山内徳信村長を先頭に村ぐるみで基地撤去の闘いをくり広げ、半分は取りもどした。しかし、残り半分は日本政府が返還を頑なに拒否。国を提訴しても何年かかるか分からないため、嘉手納弾薬庫内の村有地と交換することで取りもどした。いまそこは、広大な農地として整備されている。

 普天間移設問題を考える上で那覇軍港の代替施設問題は興味深い。沖縄には代替施設を条件にした基地の「返還」が二つある。市街地のど真ん中にある普天間基地と、米海軍那覇軍港である。この二つは沖縄県民の「返せ」という要求にもかかわらず、40年間まったく動くことはなかった。

 那覇軍港は、旧在沖米海軍那覇基地であり、現在の那覇空港と一体のものであった。現在の那覇空港は、全日空によって国際貨物の物流拠点化が進み、深夜に全国と世界から貨物便が集まってくる。そこで国内向けと国際向けに積み替える航空貨物のハブ空港となっている。日本の航空会社が貨物の国際便を飛ばす場合は、一度自国内を経由しなければならない。沖縄は、アジアの中心に位置しているためアジアを結ぶ最短地点になり、物流コストが大幅に削減できる。もし、沖縄に工場が建設されれば、国内の輸送コストはゼロになる。県経済、とりわけ第二次産業発展の大きな構想と期待がありながら、那覇軍港が返還されないため工場などの立地スペースがない。

 沖縄県民が本土復帰に託した願いは、ことごとく日本政府によって踏みにじられた。

【5】集団的自衛権と改憲は侵略戦争国家への道

 本年2015年は、日本にとっても、沖縄にとっても、国のありようの歴史的転換をかけた1年になろうとしている。昨年7月1日の集団的自衛権の閣議決定につづき、本年の通常国会において集団的自衛権の関連法案を強行採決しようとしている。さらに安倍首相は、来年の参議院選後に改憲を強行することを表明した。強行されれば憲法9条で歯止めをかけられていた戦後的制約はすべて取り払われ、いわゆる「普通の国」の名前で世界有数の軍事力をもった侵略戦争国家が出現する。

 アメリカ政府の世界軍事戦略である米軍再編は、2001年ブッシュ政権下で策定された。いわゆる「冷戦」後のアメリカの世界戦略であり、オバマ政権もこれを引き継いでいる。これまでは戦略目標を隠し、「対テロ戦争」や「不安定の弧」や「トランスフォーメーション」などとして語られてきた。

 しかし、仮想敵のない軍事戦略などありえない。米軍再編とは、対中国侵略戦争計画を中心に据えたアメリカの新たな世界戦略であり、この米軍再編が何かとはこれを作った米軍事シンクタンクの「2001年ランド研究所報告」に書かれている。ブッシュ政権は、ブッシュとパウエル以外はランド研究所出身のネオコンと呼ばれるグループで成り立っていた。天下をとったネオコンは、この2001年ランド研究所報告書の中に「中国を転覆し国土を占領する」と米軍再編の目的をあけすけに書いている。

 日本政府は2005年10月、日米安全保障協議委員会でこの米軍再編について合意し、2006年には日・米が一体となってそれを実現していくための在日米軍再編の「ロードマップ」を合意している。さらには、国会対策とメディア対策、旧治安維持法を内包した特定国家機密法を成立させ、今国会で集団的自衛権関連法を成立させ、その総仕上げとして来年の参議院選挙後に改憲を行おうとしている。もう事態はそこまで進んでいる。

 これまで歴史上の侵略戦争は、すべて「自衛権」の名目で行われてきた。1937年7・7盧溝橋事件などは、その典型である。米軍再編の下で改憲が行われ、集団的自衛権が発動されれば、アメリカが行ってきたベトナム戦争や湾岸戦争、イラク-アフガニスタン戦争などの侵略戦争が、今後は日・米によって行われることになる。その時、憲法に象徴される「戦後」は終わり、新たな侵略戦争の時代に突入する。したがってそれは単なる「日米安保の強化」として語られるものではなく、これまでとは次元を画したものとなる。安倍首相の言う「戦後レジームからの脱却」とは、侵略戦争国家・日本の歴史的な再登場を意味している。

 このことは、すでに沖縄で先行しているように、民主主義がなくなり、国民主権がなくなり、基本的人権がなくなり、国の形が根本から変わってしまうということである。

 中国はそれ以来、日・米による米軍再編に対応して全力で軍拡を進めてきた。日本では、この中国の動向については「中国脅威論」として大々的にキャンペーンが行われている。この「中国脅威論」のキャンペーンは、政府自民党とそれにつながるメディア、御用学者、右翼などを総動員しながら、それを利用することで国民的な危機感や不安感を煽り、米軍再編を進める日米の防衛政策を正当化するものとして使われてきた。この異常なまでの「中国脅威論」こそ日本政府の国内向けの情報操作であり、国民の総動員を目的に行われている。

 中国はいま、日・米の米軍再編に対抗するための軍拡に全力で乗り出している。「中国脅威論」では、中国空母についての大々的なキャンペーンが行われてきた。しかし、その実態はウクライナから買い取った中古の空母でしかなく、戦闘能力においては米空母の比較にすらならない。しかも中国海軍には決定的な戦略的弱点がある。太平洋に進出するためには、中国からすると東中国海は閉じられた巨大な内海のような形をしていて、出口は沖縄本島と宮古島の間の海峡しかない。ここを対艦ミサイルや機雷などで封鎖されれば、太平洋への出口がなくなる。そのため中国は、鹿児島-奄美諸島-琉球列島-台湾-南中国海までを「第一列島線」として、生命線(中国では「核心的利益」と呼ぶ)ともいうべき最重要の戦略地点として設定している。

 中国は、この「第一列島線」を突破しない限り太平洋への出口がなくなり、海軍力を持つ意味がない。したがって、日・米対中国の軍事的緊張と対立が極点に達した時、戦端はこの「第一列島線」をめぐる戦闘としてはじまる。その時、140万沖縄県民が住む沖縄は、ミサイルと砲弾が降りそそぐ戦場となる。

【6】米軍再編、沖縄に残る海兵隊はたったの2000~3000人

 米軍再編計画では、在沖海兵隊9000人を国外に移転し、1万人が沖縄に残るとされてきた。ところが、2011年11月16日オーストラリアを訪問したオバマ大統領は、オーストラリア首相との共同会見で「将来オーストラリアに2500人の海兵隊を移駐する」と表明した。

 さらに2012年6月16日、日米による在日米軍再編のロードマップ見直しの中間報告が行われ、グアムに移転させる米海兵隊の部隊構成が抜本的に見直された。2006年のロードマップでは、海兵隊の戦闘部隊だけを沖縄に残し司令部をグアムに移転することになっていた。この見直しによって、中国の弾道ミサイルなどによる攻撃を回避するため、常時即応体制にある「海兵空陸任務部隊(MAGTF)」を沖縄のほか、グアム、ハワイ、オーストラリアに分散配置する方針に転換した。これによって、沖縄に残るのは実戦部隊の2000人から3000人規模のMEU(海外遠征部隊)だけになることが分かった。

 オーストラリアへの海兵隊の移駐では、米軍の新たな基地は建設せず、オーストラリア空軍基地を間借りすることになった。MEUは固定的なヘリ基地で運用するのではなく、強襲揚陸艦で運用するという。2013年8月、米海軍トップの作戦部長ジョナサン・グリナートは、オーストラリアに強襲揚陸艦を配備する方針を表明し、ミサイル攻撃を避けるため、オスプレイや戦闘機を艦載し洋上展開するとした。

 すなわち、「普天間基地の辺野古移設」は、現在の普天間基地の基地機能がそのまま辺野古に移転されるものとして語られているが、海兵隊は沖縄から撤退し、より実戦的に再編され、グアム、ハワイ、オーストラリア、沖縄と分散配置されることになる。独立した作戦能力をもつ編成部隊のMEU(海外遠征部隊)は2000人から3000人で構成されている。沖縄にはその1部隊程度しか残らない。したがって、1兆円の建設費をかけ、10年の期間をかけ、辺野古に米海兵隊の恒久的な新基地を作る必要はまったくない。

 米海兵隊とは陸上戦闘部隊であり、「殴り込み」部隊と言われるように、上陸作戦や敵地へのパラシュート降下などを主な任務としている。現代の戦争では航空機やミサイルによって軍事拠点や部隊への集中的な攻撃が行われ、制空権や制海権の確保が初期的軍事作戦の中心になる。海兵隊は、その後に陸軍とともに領土の制圧と占領をするための部隊である。したがって、そもそも戦闘の初期から必要な部隊ではない。

 しかも、在沖海兵隊のあり方は奇妙な形をとっている。海兵隊が派遣される時は強襲揚陸艦に兵員と武器を満載して移動する。その強襲揚陸艦の母港は佐世保基地にある。沖縄の海兵隊はヘリを使って佐世保まで移動し、そこで母艦にのり込む。なぜこのような不便な形になっているのかと言えば、沖縄には強襲揚陸艦を使える軍港がない。このことから、沖縄の海兵隊は、機動性において著しく機能が劣り、有事即応型でも、政府がキャンペーンしている「抑止力」でもない。

 また、この那覇軍港をめぐる問題も、じつに奇妙である。米海軍は72年返還を機にホワイトビーチの原潜部隊だけを残して本国に撤退した。米海軍がすでに撤退しているのに、どうして新しい米軍港の代替施設が必要なのか、説明されたことがない。これは、普天間基地の辺野古移設を考えるうえで、一つの大きなヒントになる。

 辺野古の新基地は、「普天間代替施設」という名目で造ろうとしている。辺野古新基地には飛行場だけではなく、強襲揚陸艦用の軍港機能が併設されている。那覇軍港に至っては、米海軍がいないにもかかわらず、代替施設として新しい軍港を作るという。いったい誰が、辺野古の新基地と那覇軍港を使おうとしているのか。

【7】辺野古新基地は「日本版海兵隊」の基地

 アメリカの米軍再編以来、自衛隊もそれに合わせるように部隊の再編や装備の改変を進めている。今年にも日米防衛協力のガイドラインが改定される。この「ガイドライン」とは、日・米の軍事的役割分担であり、装備や作戦面で一体化するものである。すでに軍事的には日・米は事実上一体化されている。

 防衛省は奄美諸島から琉球列島を「南西諸島」と呼び、対中国との戦争の最前線と位置づけている。そのため自衛隊の部隊を北海道から九州と沖縄に集中的に配備し、部隊構成の再編を進めている。これが安倍内閣が行ったNSCの創設と、「防衛計画の大綱」見直しと、それに基づいて開始された「中期防衛力整備計画」の具体的な中身である。

 中期防にはこう書かれている。「陸上自衛隊については、……南西地域の島嶼部の部隊の態勢を強化する。島嶼への侵攻があった場合、速やかに上陸・奪回・確保するための本格的な水陸両用作戦能力を新たに整備するため、連隊規模の複数の水陸両用作戦専門部隊から構成される水陸機動団を新設する」。

 ここに書かれている「島嶼」「南西地域」とは沖縄のことであり、それはまた中国の主張する「第一列島線」を指している。「南西地域」と「第一列島線」は沖縄で重なる。日本政府の言う「有事と」は抽象的なものではなく、沖縄での具体的な戦争を想定している。それは自衛隊の編成や装備や訓練などに現れてくる。ここに書かれている「連隊規模の複数の水陸両用作戦専門部隊」とは日本版の海兵隊を作ることであり、すでに2002年に佐世保に拠点をおく「陸上自衛隊西部方面普通科連隊」として作られ「日本版海兵隊」と呼ばれている。

 2006年に合意した日米の「ロードマップ」には、2014年までに普天間移設の条件として辺野古新基地の建設と、海兵隊のグアムへの移転とともに次のことが書き込まれている。「土地の返還および施設の共同使用」として「キャンプ・ハンセンは、陸上自衛隊の訓練に使用される。施設整備を必要としない共同使用は、2006年から可能となる」「米国政府は、この施設から戦闘機を運用する計画を有していない」。すでにキャンプ・ハンセンは2006年の段階で陸上自衛隊の基地になることが日・米で合意されていた。

 これらから重大なことが分かる。辺野古に新基地を建設して、誰がそこに入るのかということである。完成したころには在沖の米海兵隊はもういない。せいぜい、MEU(海外遠征部隊)の一個部隊程度2000~3000人くらいである。その移駐のために、莫大な資金と期間をかけて建設する理由などない。つまり、辺野古新基地建設は、撤退する米海兵隊に代って陸上自衛隊の水陸両用作戦専門部隊=「日本版海兵隊」が沖縄に入るための基地建設として行っているということである。これは、強襲揚陸艦用の護岸を作っていることからも分かる。キャンプ・ハンセンは日本版海兵隊の基地になり、キャンプシュワブにMEUが入り、辺野古の新基地は日米の共同使用の基地として構想されている。

 これが、反対する市民に異常なまでの暴行をくりかえしながら進めている辺野古新基地建設と普天間移設の真相である。那覇軍港の代替施設も、沖縄から撤退した米海軍の基地ではなく、まだ沖縄にはない海上自衛隊の基地建設として行おうとしている。反自衛隊感情の強い沖縄において、まず米軍基地として建設しそれを自衛隊の基地として転用することを狙っている。そこから見えてくることは、自衛隊と米軍による沖縄の「不沈空母化」「軍事要塞化」ということである

【8】ジョセフ・ナイ:「卵を一つのかごに入れればすべて壊れる」

  いま沖縄は、普天間移設-辺野古新基地建設をめぐって復帰以来最大の基地闘争がはじまっている。相手は米軍ではなく、日本政府である。辺野古が埋め立てられ新基地が建設されれば、そこは国有地となり県民が認めた「返せ」とは言えない初めての恒久的な基地となる。沖縄戦の戦場とされ、「銃剣とブルトーザー」で集落や土地が強制接収され、戦争とあらゆる基地被害に苦しめられてきた沖縄県民にとって、すべての基地をなくすことは悲願であった。そこには、沖縄の歴史をかけた譲れないものがある。

 2014年12月、安倍政権は沖縄の民意を踏みにじり、仲井真前知事に公約違反の承認をさせるという非常手段を使って辺野古の着工に踏みきった。普天間基地の危険性の除去のため、「5年以内の返還」を実現させることが口実となっている。

 しかし、2014年6月17日の琉球新報は「米国務省高官が今月上旬、米軍普天間飛行場問題などを話し合うため訪米した日本政府高官に、『普天間の返還は名護市辺野古への移設後で合意している。代替施設の完成なしに運用の停止はできないことをしっかりと沖縄側に伝えてほしい』と述べていたことが分かった」と伝えた。
 「5年以内の返還」とは、国務省高官の発言にあるように、何の根拠もなしに普天間と辺野古を分断し、沖縄県民をだますために安倍政権がでっち上げたものである。

 安倍政権は、辺野古新基地建設について「建設費用5000億円以内、建設期間5~7年」としている。しかし、97年に米国防総省がまとめた報告書では「建設費用約1兆円、建設期間最短10年、耐用年数200年」と公表している。辺野古の新基地は恒久的な基地として建設されようとしており、建設費の総額は日本負担となる。

 そうした中、普天間基地の辺野古移設について、2014年12月9日朝日新聞は、米クリントン政権で普天間の日米合意を主導したジョセフ・ナイ国防次官補(現ハーバード大教授)のインタビュー記事を掲載した。
 その中でジョセフ・ナイは「辺野古移設を沖縄の人々が支持するなら私も賛成する。しかし、沖縄の人々の支持が得られないなら、われわれはおそらく再検討しなければならないだろう」と述べている。また「長期的には辺野古は解決策にはならない」とも語った。その根拠として、「固定化された基地は現在でも価値はあるが、中国の弾道ミサイル能力の向上に伴って、その脆弱性を認識する必要が出てきた。卵を一つのかごに入れれば、(全て)壊れるリスクが増す」「今後10年といった短期間で考えれば宜野湾市の負担を軽減したいわけだから、施設や海兵隊を辺野古に移す方がいいだろう。しかし、辺野古に移しても、20年後を考えると、固定化された基地の問題は解決されないままだ」と語った。

 「固定化された基地の問題」とは、沖縄の固定的な基地は中国のミサイル攻撃で壊滅するということである。

【9】沖縄の歴史選択が いま問われている

 いま沖縄をめぐって、とんでもない事態が進行している。もし、辺野古新基地の建設をはじめとして進められている沖縄の「軍事要塞化」が進むならば、日・米対中国の軍事的緊張がその臨界点を迎えたとき、起きる事態は地獄絵図の「第二の沖縄戦」となる。それは10年後か、15年後かは分からない。しかし、間違いなくいえることは、140万沖縄県民の生存権の問題が、「普天間移設」=辺野古新基地建設を阻止できるかどうかにかかっている。日本政府・安倍政権が行っていることは、沖縄を「新たな捨て石」にし、「新たな32軍」を沖縄に配備するものである。戦前同様の事態がいま密かに進行している。

 すでに、辺野古の着工と一体の形で、奄美大島に500人規模の陸自部隊の配備が決定され、与那国では「沿岸監視部隊」の名目で新たな陸自の基地建設を行っている。奄美大島の部隊は「警備部隊」となっているが、対艦ミサイルを装備した本格的な戦闘部隊である。基地の性格は防衛省の運用次第で決まり、通信基地やレーダー基地として建設されたものが一夜にしてミサイル基地に変貌する。たとえば、南城市与座岳にある陸上自衛隊与座岳分屯地はレーダー基地として作られながら、すでに高射特科連隊のミサイル基地になっている。与那国の次は、宮古島と八重山配備の計画が進みつつあり、各地に防衛協会を作り、利権を絡ませながら地元工作を行っている。

 そのために、さまざまな買収と分断工作が行われてきた。辺野古の工事強行の中で、辺野古の住民が初めてメディアの前で証言した。辺野古の買収資金として防衛相が提示したのは、「一戸当たり1億5000万円」だったという。与那国町の外間町長にいたっては、自ら自衛隊を誘致しながら、図にのって「迷惑料」として10億円を払えと要求した。仲井真前知事は、3000億円の沖縄振興資金とそれに絡む利権で買収された。

 このようなカネで買収し分断していくやり方は、植民地政策の典型である。40年間続けられてきた日本政府の本土復帰政策とその後の沖縄振興策は、10兆円をつぎ込んだ沖縄の買収と分断のための新たな植民地政策・同化政策であった。復帰前の沖縄は、米軍と闘うためにつねに島ぐるみとなり、県民が一丸となってきた。基地の賛成派と反対派に分断されたのは復帰後のことであり、日本政府によってである。

 1995年9月4日少女暴行事件が発生し、10万人の県民が立ち上がるという空前の反基地闘争の炎が燃え上がった。会場に向かおうとする人の波は絶えず、集会が終わっても那覇のバスターミナルには会場に行こうとする長蛇の列ができていた。翌1996年1月11日、橋本首相によって青天の霹靂のように発表されたのが普天間移設であった。これは、いかにも沖縄の怒りに応え、基地問題を解決するかのような装いで打ち出された。しかしそれは、普天間移設を口実にして新たな基地を建設することが目的であった。米兵に暴行された少女の人権は二度にわたって蹂躙された。日本政府の沖縄政策は、県民を欺くことに貫かれ、つねに差別的で欺瞞に満ちている。

 辺野古では、陸上でも海上でも異常な国家暴力がくりかえされている。辺野古の沖には巡視船が10隻ほど張り付いている。辺野古で行われている事態はあまりにも異常であり、異様である。ここには、なにがなんでも埋め立てを強行しようという国家意志が現れている。日本政府は、はっきりとルビコン川を渡ったのである。

 こうした中で140万県民の8割が反対し、再び「オール沖縄」としての結束が始まっている。菅官房長官の「(翁長知事とは)会わない」とは、沖縄への構造的差別に貫かれ、この国の成り立ちの基本原理としてある民主主義と、沖縄140万県民の民意を根本から否定する発言である。日本政府は、「沖縄は日本ではない」と語ったに等しい。

 沖縄は、「琉球処分」以来、歴史上つねに戦争のための道具として扱われ、沖縄差別の中で見捨てられた子の道を歩まされてきた。しかし、再び沖縄戦のようなことをくり返すわけにはいかない。いま、「沖縄の自己決定権」が新たな対決基軸として主張され始めている。沖縄は、「琉球処分」以前、すなわち明治政府による国際法に反した武力併合の前は、「琉球国」という独立国家であった。沖縄には何よりも民族自決権という国際法上の権利がある。この最後にして最強のカードを使い、一つの独立国家としての主権を行使すれば、米軍と自衛隊のすべての軍隊と基地を沖縄から追い出すことができる。その最強のカードを使うことによってしか沖縄の生存権が守れないなら、たとえいばらの道であっても、その道を行くしかない。

 いま、沖縄の歴史的な選択が問われている。


付記:資料「外務省・再編実施のための日米ロードマップ」
   http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_aso/ubl_06/2plus2_map.html
   URLをコピーし、検索欄に貼り付ければ原文が出てきます。

2015年2月5日
S.嘉手納(沖縄在住)
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