志村建設専務の日々坦々

つれづれなるままに…

祖先 由利本荘の志村の出処 5 志村伊豆守光安 3

2022-06-03 09:13:58 | 志村の由来

志村伊豆守光安の居城跡を見に行きました。

酒田亀ヶ崎一丁目 現在の酒田東高等学校の場所です。

 

校門の左隣に案内板が立っています。現在城跡として残っているのは、西側土手のみ。

水利を巧みに利用した平城で、堀が幾重にも周っています。

以前は東禅寺城と呼ばれていましたが、最上領となってからは亀ヶ崎城。

その亀ヶ崎の名の由来が、説明されていました。

 

右の写真は もっと本荘寄り遊佐町にある永泉寺(ようせんじ)の入り口。奥に山門。

ここに志村伊豆守光安に関する文化財があるというので行ってみました。

永泉寺は古いお寺ですが、奇しくも本荘志村のお寺と同名、読み方・宗派も同じ曹洞宗です。

 

没後に家臣達が建てた慰霊の為の九重層塔があるというのです。

本堂の裏山の断崖に、古めいた墓石の中その塔はひっそり立っていました。…続く


祖先 由利本荘の志村の出処 4 志村伊豆守光安 2

2022-06-03 07:54:38 | 志村の由来

志村伊豆守光安が、慶長6年(1601年)開基となった菩提寺に行ってきました。

青原寺さんは酒田の亀ヶ崎4丁目にあります。

 

私の祖先のお寺と同じ、曹洞宗。本堂の後ろに夫婦の墓が並んで立っています。

 

また門脇には地蔵さん…これは光安が没した時、殉死した家来を弔って設置されたものだそうです。

酒田の街や港の整備や社寺の改修など飽海3万石の城主として、徳のある行政を行った方のようです。

本荘から1時間程のところに、志村のこんな歴史があるなんてびっくりです。

… 続く


祖先 由利本荘の志村の出処 3 志村伊豆守光安

2022-06-02 17:17:12 | 志村の由来

志村家の出処が、山形市漆山地区志村であるらしいという話をしました。

在所を姓とするのは昔はよくある話で、

本城氏も以前は湯沢氏や赤尾津氏を名乗りました。

漆山地区志村出身の「志村伊豆守光安」の話をします。

この人酒田3万石を最上氏から拝領し、亀ヶ崎城の城主だった人です。

詳しくは http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=187449 を読んでください。

1ページから10ページまで、丁寧に記述されています。

 長谷堂城 別名 亀ケ城

最上義光の腹心で、長谷堂城の戦いでは上杉の直江兼続の2万の軍勢を

城主として2千の兵を率いて防いだという猛将です。

その後上杉勢を追って庄内に侵攻、最上領としました。

そこで長谷堂城城主から、酒田亀ヶ崎城城主となったわけです。

鶴ヶ岡城は鶴岡にあります。鶴亀で縁起を担いだそうです。

亀に縁がある人ですね。  つづく


祖先 由利本荘の志村の出処 2

2022-06-02 08:34:45 | 志村の由来

これが本城氏の持っていた、本城城の城下町の武家屋敷 慶長(1610年代)の頃と思われます。

字が小さいですが、外堀北側中央現在の表尾崎町に志村七左ェ門の文字が見えます。

また右上現在の東町にも 志村勘七の文字が見えます。最上家家臣の本城氏の家来です。

大きな屋敷の志村七左ェ門という名前は、志村豊前守光安の次男

志村八左ェ門と一字違いですので、何か関係がありそうです。

これは宝永・正徳(1710年代)の頃の 本荘城の武家屋敷の配置図

なんと中央右側、現在の中堅町に志村六左ェ門の名前があります。

これは六郷藩の分限帳に載っているもう一つの志村家で初出が元禄十四年(1701)です。

私の先祖、志村源内の屋敷は上の方現在の美倉町渡辺ガラス店の場所にあります。

最上家の家臣本城氏は、元和8年(1622)に改易になり家来も転居となりました。

ここから100年間程 本荘の志村家は歴史の表舞台から消えて、

浪人ないしは足軽として生活していたと思われますが資料はありません。

しかし八左ェ門・七左ェ門・六左ェ門 面白いですね。…つづく


祖先 由利本荘の志村の出処 1

2022-06-01 09:24:31 | 志村の由来

志村と言うと、コメディアンのを真っ先に思い浮かべるかもしれません。

コロナ禍で逝ってしましましたが、一世を風靡したお笑い芸人です。

   

次の人を知っているとしたら、映画通 志村喬(たかし)です。

写真は「生きる」という映画のものですが、黒澤映画には欠かせない名優でした。

その次はフジパブリックの志村正彦、才能のあるシングソングライターでしたが早逝。

4人目は志村直愛 大学の建築の教授ですがテレビ出演あり。

全国に志村という名前は結構あって、特に山梨県、東京西部、神奈川に多いようです。

では、秋田県由利本荘市の志村はどこの流れなのでしょうか。

秋田県では志村の姓は珍しく、本荘周辺にしか現れません。

私の祖先は、江戸時代は地元の藩(六郷藩)の下級武士です。

二戸の志村家が藩の分限帳に記載されています。

私の祖先初代源内は宝永七年(1711年)、六郷藩の分限帳に登場するのですが、

それ以前の志村家の跡を追いかけると…

どうも山形市の北部漆山地区志村の出身ではないかと思われるのです。

六郷藩の前は、最上の家臣楯岡豊前守満茂が本荘に城を築き本城氏を名乗るわけですが、

その領地四万五千石、大家臣団が山形から移り住むことになりました。

その時の城下絵図に 家臣の志村の屋敷跡が二カ所

絵図の書かれたのは1610年代と思われます。

これが本荘に初めて志村の名前が登場した記録になります。

本城氏の家来としての志村…その一族はどのようなものだったのでしょう。

…続く