志村建設専務の日々坦々

つれづれなるままに…

祖先 由利本荘の志村の出処 15 江戸時代以前

2022-12-26 15:35:20 | 志村の由来

酒田3万石を最上義光公から拝領、亀ヶ崎城主となってから

志村光安は、酒田城下の整備や社寺仏閣の整備などをおこない

慶長16年(西暦1611年)に没した。

その後継ぎは、最上家のお家騒動で暗殺。

その子孫も最上家の没落とともに、酒田を離れたという。

出身地とされる山形市の漆山志村には、子孫は居ない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89

歴史に彗星のように現れて、消えていった志村一族。

では、本荘の志村家との関係をどのように考えると良いのであろう。

 

(写真は本荘城復元大手門、大手門から街を見る、門を出た右側に志村七左衛門の屋敷があった)

私は志村光安の一族の誰かが、最上の重臣であった楯岡豊前の守満茂の家臣として任用されたと推測。

知行地を加増された武将が、勢いのある武将の親族を家臣を採用する例は多くあるようです。

ところが、もともと楯岡氏の家臣だったのではないか?という話が出てきました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AF%E5%B2%A1%E6%B0%8

確かに楯岡氏も最上一族

これは、志村光安の末裔という人からの手紙にあります。

それによると本荘の志村一族は漆山志村の一族とは鎌倉・室町の時代に分かれて、楯岡氏に仕えたのではないかとの話。

確かに同じ出羽の国の話で、最上義光が山形を平定する前は群雄割拠の時代。

これは、江戸時代以前の話ですので精査する必要がありますね。

先祖の話、まだまだ先がありそうです。


祖先 由利本荘の志村の出処 14 山形市長谷堂城址 6

2022-11-13 16:42:44 | 志村の由来

これは 慶長出羽合戦 長谷堂城合戦図です。江戸時代中期に描かれました。

右下の小山で志村光安が陣を張っています。

城から上杉軍に打って出ている部隊がいますね。

この辺の経緯は 武蔵の五遁のブログに詳しく書かれています。

第一話 http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1674.html

第二話 http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1675.html

第三話 http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1677.html

興味がありましたら、覗いてみてください。

千余の軍勢で防衛戦だけではなく、二万の上杉軍に夜襲をかけたりの機動戦を展開します。

一進一退の攻防戦が続いた半月後、戦況は大きく変化します。

慶長5年西暦1600年9月15日 関ケ原の合戦で豊臣方(西軍)の敗戦。

その報が入ると、西軍だった上杉軍は長谷堂城包囲を解き撤退を開始します。

絶体絶命と思われる長谷堂城での攻防戦が終わって、志村光安はのち酒田の亀ヶ崎城3万石城主となります。

志村一族はこの戦に参加していたと思われます。祖先も光安の手足となって働いていたことでしょう。


祖先 由利本荘の志村の出処 13 山形市長谷堂城址 5

2022-09-18 16:15:19 | 志村の由来

山頂広場を南側に下ります。

この辺は樹木が切り払われており、当時の山容がわかります。

斜面を掘削して平場と急斜面を連続させています。

急斜面からは敵が進入できないようにし、自軍兵は平場で待ち伏せ、

登城口を攻めあがる敵を横からも攻撃できる態勢となっています。

平山城の長谷堂城は敵が領地に進入してきたときの籠城戦を前提として造られているようで、

案内板を見ると、日頃の行政は堀で囲われた平地の武家屋敷で行われていたようですね。

出城として天守閣や登城門がないのは当然として、長期の籠城にも耐えれなかったでしょう。

それが「北の関ケ原の戦い」と言われるほどの戦果をあげた理由は、

志村伊豆の守のはじめとした武士団の機動力を生かした戦術がありました。


祖先 由利本荘の志村の出処 12 山形市長谷堂城址 4

2022-07-11 17:53:06 | 志村の由来

本丸の広場には「長谷堂城址」の新しい石碑があります。

 裏には志村光安直系の子孫 横尾氏の名前がありました。

北の方から山形市街地を望みます。すぐ目の前です。当時は山形城(霞城)も見えたでしょう。

長谷堂城が落ちたら、上杉勢は一気に城下町に入り最上の居城に攻め込むことになります。

これが上杉・最上の陣構えです。最上の本隊は直江軍に阻まれ、須川を越えられません。

実際は最上も4千程の軍勢と言われてますので、

須川に防衛ラインを引くのが手いっぱいだったのでしょう。

しかし直江軍は2万の大軍と言えども、長谷堂城を攻略しなければ前に進めません。

今は緑豊かな城山ですが当時は巨大な土塁、禿山だった様子がわかります。

ここに志村光安は千余の軍勢で、直江軍と対峙してのです。必死です。


祖先 由利本荘の志村の出処 11 山形市長谷堂城址 3

2022-07-09 14:46:06 | 志村の由来

ここで登城路は左に亀の甲羅を周ります。そこには防御ライン3の曲輪があります。

そこから本丸への急斜面を登ると、4の横矢掛りが…側面の曲輪からの攻撃があります。

ここで、本丸から降りてくる人とすれ違いました。

挨拶をかわすと、「20年前にも長谷堂城に来たことがある」という男性。

古城めぐりが趣味で観光化されていない古戦場は、昔の面影を感じられて良いとの事。

お名前を聞くと…なんと伊達さん。宮城の亘から来たそうです。

宮城出身のサンドイッチマンの伊達みきおさんも伊達政宗の子孫だそうですが、

この戦いでは伊達政宗は3000名の軍勢を最上氏支援で派遣…奇遇な出会いでした。

本丸直前の防衛ライン 5虎口を越えて、本丸広場につきました。

出発から20分ほどの山城トレッキングです。 … 続く


祖先 由利本荘の志村の出処 10 山形市長谷堂城址 2

2022-07-09 11:45:58 | 志村の由来

現在地は右下広場、案内図に従い八幡崎口から進みます。 

亀の頭の部分、比較的緩やかな登りです。八幡神社部分は郭になっていて、

登城路はその下を巻いてゆきます。

 1の案内帯曲輪群、

亀の首の側面にあたる部分の階段状の防御ラインです。

長谷堂城攻防戦のときは、この曲輪の真正面、水堀を挟んで西側の丘に

上杉軍の中核部隊1万8千程の直江兼続軍勢が布陣したそうです。

守る軍勢は1200名程、10倍以上の戦力差があります。

この10数段のひな壇みたいな曲輪は、少ない人数を多く見せたのではないでしょうか。

 2 亀の甲羅の入り口の土塁

防衛上重要な場所ですが、小さな城なので石垣はありません。

もっともここまで攻め込まれたら多勢に無勢、あっという間に落城でしょう。

ではどうやって2週間もちこたえたのでしょうか … 続く


祖先 由利本荘の志村の出処 9 山形市長谷堂城址 1

2022-07-03 17:18:38 | 志村の由来

山形市郊外南西に少し走ると、長谷堂城址があります。

山形市漆山志村地区から車で30分もかかりません。

亀形の頭の部分に大きな駐車場。案内板があります。

 

地図で見ると城山と書かれている小山ですね。

頭の部分に八幡神社、お尻の部分に観音堂があります。

案内板に 長谷堂城跡公園のパンフレットがありました。

この山で、北の関ケ原と言われた天下分け目の合戦が行われたこと、城主

志村伊豆の守光安(あきやす)をはじめとした志村一族の存亡をかけた戦いがあったと思うと

感慨ぶかいものがあります。では亀の頭の部分、左下から本丸に登ってみましょう。


祖先 由利本荘の志村の出処 8 山形市漆山志村

2022-07-03 11:22:52 | 志村の由来

武士は出処地名を名字にする例が多いと聞きます。

東北で志村と言うとこの場所でしょうか。

秋田県由利本荘市の私の家(本荘駅東)から3時間程のところ、

最上領内 山形市の漆山志村です。志村光安の出生地と言われています。

山形市街地北の田園地帯です。そこへ行ってみました。

地図でゆくと、志村の文字の左下に神社のマーク。通称志村稲荷神社です。

 

小さな児童公園、そして志村集会所があります。稲荷神社の境内地だったのでしょう。

 

志村稲荷神社は小さいですが、漆山にある大きな稲荷神社から420年程前に分社して設立。

ちょうど関ケ原の合戦の頃ですね。長谷堂城の攻防戦に勝利した事と関係があるのでしょうか。

現在志村地区には、志村を名乗る人は住んでいません。

最上の知行の拡大に伴い、志村一族はこの地から酒田へまた由利本荘へ移住していったのでしょう。


祖先 由利本荘の志村の出処 7 志村伊豆守光安 4

2022-06-11 17:19:05 | 志村の由来

志村伊豆守光安は 1611年に没する。その後継ぎの息子光惟は

最上騒動に巻き込まれ1617年に暗殺されます。

その弟が前出の志村八左エ門であるが、最上の改易・没落で一家は離散します。

 青原寺収蔵の光安の鎧兜

 明治建立の光安追壊碑

その子孫の存在は定かではないが、東根の有名な造り酒屋の主人の話では

志村から横尾姓になりその血を継いでいるそうです。

藩がなくなれば、家老といっても浪人になるか、生活の為帰農するかなどの

選択に迫られたのでしょう。

秋田の本荘の地でも本城氏が転出し、家臣であった志村も一時路頭に迷ったに違いありません。

しかし、六郷氏が1万石から2万石に加増されて入居。

その際、任用され数十年後分限帳に載るような立場になったとも考えられます。

最上本城氏の家臣の志村、六郷氏の家臣の志村

それぞれ2家が記録に残っているのは偶然ではないでしょう。

また、志村一族の中には戦国時代城主まで勤め歴史を動かす人もいたという、

志村姓の私にとっては嬉しい話ですね。


祖先 由利本荘の志村の出処 6 家紋

2022-06-08 09:40:50 | 志村の由来

今迄 志村という名前からその由来を考えてきましたが、

もう一つ家紋から追ってみたいと思います。

 これがわが家の家紋、

書き直してみると左側 「反り亀甲に揃い二つ引き」です。

 

左側は江戸時代の家紋なので、きれいに整えられていますが、

戦国時代は旗印なので、元は書きやすい右側のような形だったのではないでしょうか。

六角形の亀甲文様は亀の甲羅の文様で、縁起が良いので良く醤油メーカーのマークとなっていますが、

書いてみると反り亀甲は、とがってる上下が頭と尾、そして4本脚で亀そのものの姿のように思えます。

ここでこの文様を読み解きますと…

写真にある最上の家紋が 「二つ引き両」です。

戦国武将らしくシンプルで書きやすいですね。

もしかして、この「二つ引き両」を最上の家来として取り入れているのではないでしょうか。

更に反り亀甲は、志村伊豆守光安に縁の深い「亀が城」

および「亀ヶ崎城」の亀を意味しているのでは…思われます。

同じ家紋を調べてみてもどこにもありません。志村伊豆守光安の家紋も記録にはありません。

「反り亀甲に揃い二つ引き」志村家の記録に残るこの文様が 

志村の出処の手掛かりの一つになることは、確実でしょう。