Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

冬至

2005年12月22日 23時36分15秒 | キリスト教
今日は一年で一番昼間の時間が短い冬至です。
我が家でも南瓜を食べました。
(実は南瓜が私の一番好きな野菜だったりする)
寒さのピークはもう少し後になりますが、冬至を境に昼間の時間が
長くなっていくことから、農耕民族を中心に、冬至を一年の始まりと
する暦が採用されるようになりました。
12月25日がクリスマスとなったのも、ローマ帝国の太陽崇拝の祭と
キリスト教が結びついたことによります。
太陽崇拝はアニミズムの中でも最もポピュラーなものの一つでしょう
が、冬の夜が長い高緯度地帯ではとりわけ、冬至が重要視されて
いました。「不滅の太陽」の「復活」というわけです。
キリスト教がローマの国教となる4世紀頃には、皇帝崇拝も、かつて
のような大迫害も無くなっていましたが、太陽崇拝は依然、民衆の
間に広まっていました。
そうした民衆の歓心を買いたい(反発を恐れた)コンスタンティヌス帝
をはじめとする当時の為政者たちの思惑と、太陽崇拝者をキリスト
教徒に改宗させたい教会側の思惑が一致して、太陽崇拝のキリスト
教化(あるいは両者の統合)がなされたのです。
よく、クリスマスはイエス=キリストの誕生日だと言われますが、実の
ところイエスがいつ生まれたのかは、分かっていません。聖書にも
生まれた年を推定する手がかりはありますが、時期については何も
書かれていません。
そもそも、12月25日がクリスマスと定められるまで、クリスチャンの
間でクリスマスは祝われていなかったであろうと考えられています。
それがなぜ祝われるようになったのかといいますと、鍵は太陽崇拝
です。
「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」
「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」
というヨハネ福音書1章の聖句に示されたイエス=キリストこそ、真の
太陽、真の神である、とクリスチャンたちは太陽崇拝を聖書的視点で
読み替えていったのです。(こういう作業を「文化脈化」と言うらしい)
キリスト教を批判する人たちは、異教文化を取り込むのは「堕落」
「背教」だと言いますが、こういう積極的側面もあるのです。
(もっとも、政治的妥協の産物という面も否定はできませんが。
ある出来事を神の「御心」と受け取るか、「赦し」と取るかの区別が
難しいように、一概に正しいとか間違ってるとは言えません。)

Christmasは、キリストとミサを合わせた語だと言われていますが、
ミサはラテン語のミッシオ(派遣)から来ている言葉だという説が
あります。クリスマスには「キリストを礼拝する」だけでなく「キリストが
人々に送られた」という意味があるのです。
しかもイエス=キリストは、単なる神からの使者ではなく「神の御子」
であり、クリスマスとは「神が人となる」=「受肉」の記念でもあります。
神ご自身が、人間の苦しみを身をもって味わわれ、全ての人の罪の
報いを引き受けて下さったのです。
これが、クリスチャンがやみの中に見出す光です。そしてその光は
決して消えることが無く、輝きを増していくのです。