前回に引き続き、『宇宙戦艦ヤマト』のお話です。
だから今回はカテゴリーも、「映画・ドラマ」です。
『ヤマト』第一作の名場面といえば、ガミラス星の決戦の後、静まり
返った艦上で古代と雪が語るシーンでしょう。
ちょっと長いですが、以下、引用します。
雪、泣きながら「私たちはなんていうことをしてしまったの?
私にはもう神様の姿が見えない。」
古代「俺たちは小さい頃から、人と争って勝つことを教えられて
育ってきた。学校に入る時も、社会に出てからも、人と競争し
勝つことを要求される。しかし勝つ者がいれば負ける者もいるんだ。
負けた者はどうなる。負けた者は幸せになる権利はないと言うのか。
今日まで俺はそれを考えたことが無かった。俺は悲しい。それが
悔しい。ガミラスの人たちは地球に移住したがっていた。この星は
いずれにせよおしまいだったんだ。地球の人もガミラスの人も幸せに
生きたいという気持ちに変わりは無い。なのに我々は戦ってしまった。
我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うこと
だった。勝利か・・・(手にした小銃を床に叩きつけ)糞でも食らえ!」
古代、しばらく天を仰いだ後、雪の肩に手を置き
「雪。行こう、イスカンダルへ。他にどうしようもないじゃないか」
ここだけを取り出すと、とてもいいお話に思えてしまいます。
しかし、佐藤健志氏がその昔、『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』
という本で書いてましたが、物語とは全く相容れない、実にふざけた
セリフであったりするんです。
この場面、地球を出てから次々とガミラス軍を打ち破ったヤマトが、
ついに敵の本拠地に乗り込み、殲滅してしまった後なのです。
敵を滅ぼしつくしてしまった後で「愛し合うべきだった」なんて
言ったって、遅いのです。聖書にも「敵を愛し、迫害する者のために
祈りなさい」とありますが、ローマ帝国の支配下にあり、社会的・
宗教的に差別を受けていた人々に対して語ったイエスの言葉とは
重みが全然違います。
作品のテーマが、「地球人類のための戦い」ですから、そこに取って
付けたような宇宙博愛精神を持ち込んでも、筋が通りません。
地球に救いの手を差し伸べたイスカンダル星のスターシャも、自分は
滅び行く星と運命を共にしようとしますが、ヤマトに対しては「未来は
自分たちの手で掴み取らねばなりません」と、戦いをけしかけてたり
するのです。とても「平和」の星とは思えません。
さらに言うと、戦艦大和が復活し、横文字の帝国に単身戦いを挑んで
撃破するという展開は、一見日本のアメリカに対するリベンジのよう
ですが、よくよく見るとガミラスのほうが、かつての日本軍のように
描かれています。そのガミラスに古代が理解を示すことで、「日本も
悪くはなかったんだ。戦争ではなく共存(=大東亜共栄圏?)すべき
だっただけだ」と開き直っているようにも思えてくるから不思議です。
やはり『ヤマト』はナショナリズムの塊だったのかな・・・?
この後、『ヤマト』シリーズは「宇宙の平和を乱す侵略者との戦い」
(『さらば~』&『パート2』)「友情のための戦い」(『新たなる旅立ち』)
「地球を侵略・人類絶滅の危機から救う戦い」(『永遠に』『パート3』
『完結編』)といった具合に、何だかんだ言って結局戦い続けるわけ
です。古代と雪のこの時の思いは、どこに行ってしまったのでしょう?
それとも、ガミラスは「侵略者」ではなかった、というのでしょうか?
だとしたら、ここにも「かつて日本がしたことは『侵略』ではない」と
歴史を美化しようとする主張が見え隠れしてきます。
まやかしのヒューマニズムは過ちを覆い隠してしまうのです。
だから今回はカテゴリーも、「映画・ドラマ」です。
『ヤマト』第一作の名場面といえば、ガミラス星の決戦の後、静まり
返った艦上で古代と雪が語るシーンでしょう。
ちょっと長いですが、以下、引用します。
雪、泣きながら「私たちはなんていうことをしてしまったの?
私にはもう神様の姿が見えない。」
古代「俺たちは小さい頃から、人と争って勝つことを教えられて
育ってきた。学校に入る時も、社会に出てからも、人と競争し
勝つことを要求される。しかし勝つ者がいれば負ける者もいるんだ。
負けた者はどうなる。負けた者は幸せになる権利はないと言うのか。
今日まで俺はそれを考えたことが無かった。俺は悲しい。それが
悔しい。ガミラスの人たちは地球に移住したがっていた。この星は
いずれにせよおしまいだったんだ。地球の人もガミラスの人も幸せに
生きたいという気持ちに変わりは無い。なのに我々は戦ってしまった。
我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うこと
だった。勝利か・・・(手にした小銃を床に叩きつけ)糞でも食らえ!」
古代、しばらく天を仰いだ後、雪の肩に手を置き
「雪。行こう、イスカンダルへ。他にどうしようもないじゃないか」
ここだけを取り出すと、とてもいいお話に思えてしまいます。
しかし、佐藤健志氏がその昔、『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』
という本で書いてましたが、物語とは全く相容れない、実にふざけた
セリフであったりするんです。
この場面、地球を出てから次々とガミラス軍を打ち破ったヤマトが、
ついに敵の本拠地に乗り込み、殲滅してしまった後なのです。
敵を滅ぼしつくしてしまった後で「愛し合うべきだった」なんて
言ったって、遅いのです。聖書にも「敵を愛し、迫害する者のために
祈りなさい」とありますが、ローマ帝国の支配下にあり、社会的・
宗教的に差別を受けていた人々に対して語ったイエスの言葉とは
重みが全然違います。
作品のテーマが、「地球人類のための戦い」ですから、そこに取って
付けたような宇宙博愛精神を持ち込んでも、筋が通りません。
地球に救いの手を差し伸べたイスカンダル星のスターシャも、自分は
滅び行く星と運命を共にしようとしますが、ヤマトに対しては「未来は
自分たちの手で掴み取らねばなりません」と、戦いをけしかけてたり
するのです。とても「平和」の星とは思えません。
さらに言うと、戦艦大和が復活し、横文字の帝国に単身戦いを挑んで
撃破するという展開は、一見日本のアメリカに対するリベンジのよう
ですが、よくよく見るとガミラスのほうが、かつての日本軍のように
描かれています。そのガミラスに古代が理解を示すことで、「日本も
悪くはなかったんだ。戦争ではなく共存(=大東亜共栄圏?)すべき
だっただけだ」と開き直っているようにも思えてくるから不思議です。
やはり『ヤマト』はナショナリズムの塊だったのかな・・・?
この後、『ヤマト』シリーズは「宇宙の平和を乱す侵略者との戦い」
(『さらば~』&『パート2』)「友情のための戦い」(『新たなる旅立ち』)
「地球を侵略・人類絶滅の危機から救う戦い」(『永遠に』『パート3』
『完結編』)といった具合に、何だかんだ言って結局戦い続けるわけ
です。古代と雪のこの時の思いは、どこに行ってしまったのでしょう?
それとも、ガミラスは「侵略者」ではなかった、というのでしょうか?
だとしたら、ここにも「かつて日本がしたことは『侵略』ではない」と
歴史を美化しようとする主張が見え隠れしてきます。
まやかしのヒューマニズムは過ちを覆い隠してしまうのです。