清水じょうしんぶろぐ

わたくし、清水じょうしんのブログです。
問い合わせは、Mailアドレス jyoshin@icloud.com まで。

驚かれる人も多いのではないでしょうか。

2022年01月31日 05時31分55秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、雪模様になっています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

今週から、また、雪が降るようです。

皆さん、気をつけてお過ごし下さい。

交通事故が多発しています。

路面が氷っている可能性がありますので、

車間距離を十分にとって、ゆっくりと車を運転して下さい。

 

いろんなコラボがあるんですね。

流行りそうです。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

牛丼チェーン「すき家」は2月2日から開催する「鬼滅の刃(きめつのやいば)」

コラボキャンペーンについて、1月26日に続報を発表。

「限定オリジナルどんぶり」キャンペーンを実施し、

抽選で「オリジナル金のどんぶり」「オリジナルどんぶり」をプレゼントすることを告知した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

今日は、仏教の少しユニークな話をしたいと思います。

よく仏教とはなんぞや・・・。

と聞かれます。

最初に言えるのは、仏教とは「仏の教え」だと言うことです。

では仏はなにかというと、

仏とは真理に目覚めた人のことであって、目覚めた人の事を佛陀(ブッダ)と言うわけです。

それでは佛陀(ブッダ)と言えば誰かと言うと、

今から2500年前にインドでお生まれになったお釈迦様のことです。

お釈迦様の本名はゴータマ・シッダールタといいます。

 

よく、佛陀(ブッダ)のことを、お釈迦様といいますが、

「釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)」とは、釈迦族に生まれ、悟りを開いた聖者という意味があります。

つまり、佛陀(ブッダ)とは、お釈迦様のことです。

 

皆さんは「天才バカボン」と言う漫画をご存知でしょうか。

 

 

「西から登ったお日様が東へ沈む」と言う歌で有名です。

実はこのバカボンも「世尊」だというとビックリされるでしょう。

 

いわゆる煩悩を離れ、非常に優れた目覚めた人をサンスクリット語で「バカボン」といいます。

それを音訳すると「薄迦梵」(バガボン)になります。

この「薄迦梵」(バガボン)の意味をとって訳したのが「世尊」なのです。

これは、赤塚不二夫さんより公式で発表されています。

バカボンのパパの「これでいいのだ〜。」は、

「 あるがまま、ありのままを受け入れる。」

と言う悟りの境地に通じています。

また、いつも道を掃除している「レレレのおじさん」も、

「真に払い除くべきものは、実は自分の心の中の塵(ちり)であり埃(ほこり)である。」と

悟りを開いたお釈迦様の弟子で「チューラパンタカ」がモデルだと言う説もあるようです。

何気なく子どもの頃に見ていた、漫画が実は、仏教と深いつながりがあったとは、

驚かれる人も多いのではないでしょうか。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


怒りを出さなくする事も可能なのです。

2022年01月30日 07時06分32秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、曇っています。

最近、青空と太陽を見ていないような気がします。

気をつけてお出かけ下さい。

 

最近こんな記事を見つけました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Twitterに投稿された動画「にんげんっていいな」だと思ったら

「残酷な天使のテーゼ」だったが、「涙出るほど笑った」「思いついた人、天才」と話題になり、

30万件以上の“いいね”を集めています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらにあります。

「にんげんっていいな」だと思ったら「残酷な天使のテーゼ」だった

面白いです。三回も見てしまいました。

 

さて、今日も、仏教のたとえ話をご紹介します。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この世の中には3種類の人間がいる。

岩に刻んだ文字のような人と、砂に書いた文字のような人と、水に書いた文字のような人である。

 

岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、

その怒りを長く続け、怒りが、刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。

 

砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、

その怒りが、砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。

 

水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、

流れて形にならないように、他人の悪口や不快な言葉を聞いても、

少しも心に跡を留めることもなく、温和な気の満ちている人のことをいう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パーリ「増支部経典」

 

「怒り」という感情は、私たち人間に、必ずあるといわれています。

ここには、3種類の人間のモデルが描かれています。

 

 

岩に書いたような人とは、その怒りが、ずっと消えることなく、心に持ち続けている人です。

砂に書いたような人とは、怒りは残っているが、波が来たり、風が吹いたりすると、すっと消えて無くなるような人のことです。

水に書いたような人とは、そもそも、怒ることが無い人のことです。

 

同じ場面でも、人によって「怒り」の比重が違うように、

小さな出来事でも、岩に書いたように、ずっと心にとどめる人がいます。

これは「憎しみ」に変化する心なのです。

 

 

先日、高校生が電車の中で、タバコを吸っている男性に対して、注意したところ、

大変な暴行を受けたという、ニュースがありました。

 

タバコを注意された男性は、おそらく「岩に書いたような人」なのではないでしょうか。

怒りをコントロールすることができなくて、振り回されています。

 

 

怒りは、なかなかコントロールができないやっかいな感情です。

人間だから、怒りがあるのは仕方がないとか、怒りがあるからこそ人間なんだ。という人がいますが、

これは、間違っています。

 

「怒り」は、コントロール出来るものであり、

怒りを出さなくする事も可能なのです。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


入口は、無限にあります。

2022年01月29日 05時31分34秒 | 近況報告

皆さん、おはようございます。

三徳山は、曇っています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

今日も、仏教のたとえ話をご紹介します。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここに、一人の人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思いました。

この河のこちらの岸は危ないが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏(いかだ)を作り、

その筏(いかだ)によって向こう岸に安らかに着くことができた。

そこで「この筏(いかだ)は、私を安らかにこちらの岸へ渡してくれた。

大変に役に立った筏(いかだ)である。

だからこの筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持っていこう。」と思ったのである。

このとき、この人は筏(いかだ)に対して、しなくてはならないことをしたといわれるであろうが、そうではない。

この比喩は、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。

まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私たちは、あることないことに付け、自分が正しいと思ってしまうと、

他人に間違いを指摘されても耳を貸さなくなってしまいます。

自分の見解は自分自身の見解であり、それが正しいものかどうかは分かりません。

しかし、私たちは、相手が間違っていると思い込み、たとえ、自分自身が間違っていても、それを認めようとしません。

しかも、それを他人から指摘を受けるとなおさら、認めようとしないのが人間なのです。

 

なぜなら、自分が正しいと信じる、その見解は、自分自身だからです。

それを否定されると、自分自身が否定されることと同じなのですから、

認めようとしないのは、当然の結果なのです。

自分自身が否定されると、生きていくこともむずかしくなります。

自分自身を守るためには、自分の見解が間違っていてはいけないのです。

これを「執着」といいます。

 

先ほどの、「筏(いかだ)」のたとえは、筏に執着したあまり、正しい判断ができなかったというたとえなのです。

世の中は、自分の見解が正しいという人が多いので、「戦争」や「紛争」が絶えないのだと思います。

他者の見解に耳をかたむけて、自分の見解が間違っていたのであれば、

すぐに軌道修正すれば良いのですが、なかなか、過ちを認めないのが人間なのです。

 

自分自身もそうですが、「執着」を捨てることは、非常に難しい事です。

並大抵のことではありません。

 

筏のたとえでいうと「この筏は、私を安全に向こう岸に渡らせてくれた。

役目は終わったのだから、筏を捨てて、旅を続けよう。」と思わなければなりません。

 

筏の役割は終わったのです。

この筏に執着することなく捨ててしまうことが正しい行いだと、このたとえ話は教えています。

 

いつまでも、ものが捨てられない人がいるようで、「ゴミ屋敷」の様なところで生活している人がいます。

「使うので。」という理由ですが、このような人は、使うのがもったいなくていつまでも使うことができません。

だから、いつまでも自分のそばに置いておきます。「執着」そのものです。

 

お釈迦様は言われました。

「たとえ、私の教えであっても、捨てるべき時には躊躇なく捨てなさい。」

仏教の基本である、「教え」さえも、捨てるべき時は捨てなさい。とお釈迦様は言っています。

こんな事を言えるのは、仏教だけです。

一神教である「キリスト教」「イスラム教」では、神は絶対的存在ですので、

この教えしか信じません。だから対立が起きるのだと思います。

 

仏教は、「正しい行いができる教え」なのです。

是非、このような教えを遠ざけることなく関心を持ってみられたらどうでしょうか。

 

佛像が好きな人も多くあります。こんなところから仏教を学ぶ人がいます。

「ご朱印ガール」がはやり、若い女性が「御朱印帳」を持ってこられます。

意味が分からなくても、字を書いてもらうだけで喜んで帰られます。

入口は、無限にあります。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


必ず、いつかその時がやって来ます。

2022年01月28日 05時10分57秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、曇っています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

今日は、大雲院ご住職、田尻光照師の本葬儀が、

10:00〜大雲院で行われます。

施主は、円護寺住職の田尻光淳師です。

 

人は、遅かれ早かれ必ず死んでいきます。

それは、必ず訪れるものとわかっているのに、

なかなか理解ができないのが人間です。

 

人間は、一人では生まれてくることはできません。

必ず、父と母がいなければ生まれてこないのです。

 

お釈迦様は、親への恩がいかほどのものかを、具体的にいくつもあげね

その恩に報いること、感謝することの大切さを「父母恩重経」というお経で、

説いています。

 

「父母の恩重きこと、天の極まりなきが如し」と説かれています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その中で

父には慈しみの恩あり、母には悲(あわ)れみの恩がある。

人がこの世に生まれるのは、前世の業を原因として、父と母の縁によるのである。

気を父の胤にうけ、肉体を母の胎内にあずけるのである。

この因縁をもつゆえに、悲母の子を思う心は世間に比べるものはなく、

その恩は未だこの世に生まれぬ先にも及んでいるのである。


わけて説明するなら、以下の十種の恩徳があるのである。


1.懐胎守護(かいたいしゅご)の恩

始めて子を体内に受けてから十ヶ月の間、苦悩の休む時がないために、他の何もほしがる心も生まれず、ただ一心に安産ができることを思うのみである。

2.臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩

出産時には、陣痛による苦しみは耐え難いものである。父も心配から身や心がおののき恐れ、祖父母や親族の人々も皆心を痛めて母と子の身を案ずるのである。

3.生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩

出産後は、父母の喜びは限りない。それまでの苦しみを忘れ、母は、子が声をあげて泣き出したときに、自分もはじめて生まれてきたような喜びに染まるのである。

4.乳哺養育(にゅうほよういく)の恩

花のような顔色だった母親が、子供に乳をやり、育てる中で数年間で憔悴しきってしまう。

5.廻乾就湿(かいかんじつしつ)の恩

水のような霜の夜も、氷のような雪の暁にも、乾いた所に子を寝かせ、湿った所に自ら寝る。

6.洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩

子がふところや衣服に尿するも、自らの手にて洗いすすぎ、臭穢をいとわない。

7.嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩

親は不味いものを食べ、美味しいものは子に食べさせる。

8.為造悪業(いぞうあくごう)の恩

子供のためには、止むを得ず、悪業をし、悪しきところに落ちるのも甘んじる。

9.遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩

子供が遠くへ行ったら、帰ってくるまで四六時中心配する。

10.究竟憐愍(くつきょうれんみん)の恩

自分が生きている間は、この苦しみを一身に引き受けようとし、死後も、子を護りたいと願う。

これらの父母の恩の重いことは、天に極まりがないようなものである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Wikipediaより。

 

私たちは、自分の死がいつ来るのか分かりません。

自分のことなのに、これだけは知ることができないのです。

そして、その「死」は、絶対に避けられないものなのです。

必ず、いつかその時がやって来ます。

 

「生まれてきたから、あとは死んでゆくだけだ。ただそれだけのことだ。」

とお釈迦様は言われました。

 

「人間の生死は、海の波のようだ。」ただ自然に、

波のように「来ては引いていく。」そのようなものだ。

そんな言葉をどこかで聞いた気がします。

 

私たちは、いつなくなるのか、どのように死んでいくのかは、

絶対に分かりません。

しかし、その時が来るまで、「人間としてよく生きる。」ことはできるのです。

 

大雲院ご住職、田尻光照師のご逝去を受け止めて、

そこに、人としての生き方を習うことができたら良いと思います。

 

ご冥福を心からお祈りいたします。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


心からご冥福をお祈りいたします。

2022年01月27日 05時25分36秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、曇っています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

鳥取市立川町にある、天台宗の古刹である、大雲院のご住職が亡くなられました。

葬儀は、明日2022年1月28日(金)、10:00から、大雲院本堂で行われます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大雲院(鳥取東照宮・樗谿神社:別当寺院)概要: 

乾向山大雲院東隆寺は鳥取県鳥取市立川町4丁目に境内を構えている天台宗の寺院です。

大雲院の創建は慶安3年(1650)、鳥取藩主池田光仲が樗谿神社(現在の鳥取東照宮)の別当寺院として開いたのが始まりとされます。

光仲は幼少期に鳥取藩主となった為、成人になるまで江戸で待機を命じられ、19歳になり初めて持城である鳥取城に入りました。

その為、光仲の権威の強化を図る必要性があり曽祖父である徳川家康の分霊を日光東照宮(栃木県日光市)から勧請しました。

開山は上野寛永寺の公海大層正の弟子実成院公侃(松平石見守輝澄の6男、池田光仲の従兄弟)で、東照宮の祭祀を司るだけでなく歴代徳川将軍の位牌所や池田家歴代の祈願所にもなりました。

当初は淳光院と称していましたが文化11年(1814)に現在の寺号である大雲院に改称、池田家から寺領500石を安堵される等庇護された結果寺運も隆盛し境内には七堂伽藍が建ち並び内坊4ヶ寺を擁する大寺院として発展し領内の中心的な寺院となりました。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により東照宮から独立し、さらに鳥取藩が廃藩になると庇護者を失い衰微し、末寺であった霊光院の境内(現在地)に移っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大雲院のご住職である田尻光照師は、非常に勤勉な方で、

いろいろなところに講師に出かけておられたり、

長年にわたり天台宗の人権委員もされていました。

心からご冥福をお祈りいたします。

 

一番左が、田尻光照師です。

2011年12月1日、天台宗全国一斉托鉢を三朝温泉で行ったときの写真です。

 

以前から、病気入院を繰り返しておられたと聞いていました。

必ずや元気になられると思っていましたのに、大変残念です。

今後は、大雲院護持のために山陰教区一丸となり、協力していきます。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


苦しみから解放することを目的に教えを説いています。

2022年01月26日 05時28分37秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、曇っています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

さて、新型コロナウイルスの感染者数が全国で爆発的に広がっています。

鳥取県でもクラスターが発生したところもあり、保育園や学校が休校になったりしています。

ついに鳥取県でも、全エリアで「特別警報」が発令されました。

経済活動が自粛する中、一段と厳しい規制になっていくようです。

 

26日の日本海新聞です。

 

消防署や警察署、役場など、クラスターが発生すると、人数も制限され、

社会活動に影響が大きいと考えられます。

いろいろな、事を想定して行かなくてはいけない時期になっていると思われます。

 

鳥取県はまだ「まん延防止等重点措置」が適用されていませんが、不要不急の外出は控えたいものです。

もうすぐ、受験シーズンです。

受験が終われば、卒業シーズンになります。

人生で一度しかない、このビッグイベントを、是非とも普通にやらせてあげたいと思います。

 

昨日、「お経」について書きましたが、お経には、たくさんのたとえ話があります。

それを、少しづつ、紹介したいと思います。

 

まずは、「毒矢のたとえ」として、よく知られている話です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

例えば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。

親戚や友人が集まり、急いで医者を呼び毒矢を抜いて、毒の手当てをしようとする。

ところがその時、その人が、「しばらく矢を抜くのを待て。誰がこの矢を射たのか、それを知りたい。

男か、女か、どんな家のものか、また弓は何であったか、

大弓か小弓か、木の弓か竹の弓か。

弦は何であったか、藤蔓か、筋か、

羽根は何か、それらが全てわかるまで矢を抜くのは待て。」

と言ったらどうであろうか。

言うまでもなく、それらのことがわかってしまわないうちに、

毒が全身に回って死んでしまうに違いない。

この場合に、まずしなければならない事は、まず矢を抜き、

毒が全身に回らないように手当てをすることである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私たちが生きて行くには、いろいろな知識が必用です。

また、好奇心や関心を持ったりする事も大事です。

人間は、すぐに「なぜか」という疑問を持ち、答えを出そうとします。

もちろん、それによって知識が深まり、視野が広がります。

人生も豊になることでしょう。

 

しかし、私たちは、この世の中のことを全て知ることは到底不可能なのです。

知らないことが無限にあります。

また、もともと答えが出ない問いもあります。

たとえは゜「宇宙は、無限なのか?有限なのか?」到底答えが出ないものです。

 

例えば、弟子がお釈迦様に「霊魂は見えますか?」と問いました。

お釈迦様は「説かない。」と言われました。

「目に見えないものは説けない。」ということだと思います。

 

そこで、私たち人間は、答えが見つからないもの(過去のことや、欲望・生きること)に執着することで、

苦しみが生まれ、悩み続けます。

最初から「全て答えを知ることができない事が当たり前」と、思っていれば気楽なものです。

「全ての物を知ることはできないし、全ての物を手に入れることはできない。」

この当たり前のことで、私たちは悩み苦しみます。

 

つまり、 宇宙が永遠であろうとなかろうと、

無限であろうとなかろうと、

生と老と病と死、憂い、悲しみ、苦しみ、悩みは、

いくら答えを出そうと頑張っても、現実として確かにあるのですから、逃れることはできません。

 

人間なのですから、「欲望」「悲しみ」「苦しみ」「悩み」があるのは当たり前なのです。

そのことで「答えを出そうとする」事が苦しみなのです。

「答えなんか出ないよね。」「仕方がないよね。」「当たり前なんだからね。」と

現実を、しっかり受け止めると、「諦(あきら)める」ということができるのです。

 

だから、お釈迦様は、苦しみから解放することを目的に教えを説いています。

 

この続きは、また明日にでも書きたいと思います。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


生きる力を与えてくれるのも、「お経」なのです。

2022年01月25日 05時06分40秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、曇っています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

さて、女性活躍時代と言われて、ずいぶんと立つのですが、

鳥取県で、初めての女性首長が誕生しました。

欧米では、女性首長も当たり前の時代ですが、

昨日の日本海新聞で「鳥取県初」という言葉に、少しビックリしました。

 

 

そういえば、議会議長も、都会では多く就任されているようですが、

鳥取県では、まだまだ難しいようです。

福本琴浦町長の今後のご活躍をお祈りしています。

 

さて、昨日の「お経」の続きです。

「毎日、般若心経を唱えているが、意味が分からなくても大丈夫でしょうか。」

という質問です。

これは、非常に難しい質問です。

 

お経には意味があり、それを理解して唱えることが大事なのですが、

意味が分からなくても、繰り返しお唱えすることで、

何らかの「力」を頂いています。力が湧いてきて、気持ちも良くなり、

「スー」とします。

意味が分からなくても、このような効果があるのは確かです。

 

私は、お経は、なかなか内容を理解することは難しいと考えています。

つまり、お釈迦様が「こう生きると幸せになれるよ。」といった仏様の言葉なので、

私たち煩悩の塊である人間が、簡単には理解できない内容になっているからです。

 

たとえ、内容が理解できたとしても、それを実行したりする事は、

非常に難しい事なのです。だから、仏様に近づくために、日々努力をするわけです。

 

私の祖母は、毎晩、寝る前に布団の上で般若心経を唱えていました。

意味が分かっているのかどうかは分かりませんが、安心していたと思います。

 

何度も唱えることで、なんとなく意味が分かってくることもあります。

般若心経の現代訳は、いろいろなところから本が出版されていますので、

それを参考にするのもいいと思います。

 

 

般若心経は「空」という思想を説いている物です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ほんとうには、人の体や心が感じることや、考えることはすべて存在しないのだ。

それらを知らないことから起こる、悩み苦しみも存在しない。

しかし、老いも死も避けることはできず、悩み苦しみは尽きることがない。

それらをすべて解決などできないし、その方法を知ることもできない。

そこで、すべてのことにこだわりを持たず、

欲望から離れることでこそ、悟りを得て涅槃へと至ることができるのだ。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

という様な意味ですが、現代ではいろいろな言葉で表現されています。

 

また、お経には「故人を偲ぶ」という意味があります。

お経をお唱えすることで、故人を思い出し、前向きに生きていけるような気がします。

そして、お経は心の拠り所であり、心を癒やすことのできる唯一の物になります。

もちろん、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランもその類いです。

 

 

普段から「宗教なんて信じない。」と言われていた人が、

年をとってから急に、霊場の札打ちに出かけられたりすることがあります。

般若心経も、すらすらと言えるようになって、ビックリしたことがあります。

 

そんな生きる力を与えてくれるのも、「お経」なのです。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


お経は、怖いものではありません。

2022年01月24日 05時20分16秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、曇っています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

鳥取県初の女性首長が誕生しました。

当初は、無投票だと言われていた、琴浦町長選挙でした。

小松弘明町長も、少し安心していたところがあったのかもしれません。

600票近い差が出ました。

福本新町長のご活躍を、心からお祈りいたします。

 

同時に町議会議員選挙もありました。

やはり新人の皆さんが強いですね。

6名の新人が、当選しました。

今後のご活躍をお祈りいたします。

 

さて、話は変わりますが、岸田首相がもアメリカのバイデン大統領とテレビ会談をしたことが、

話題になっています。

日米関係の親密さが垣間見られた電話会談でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

岸田首相は21日深夜のバイデン米大統領とのテレビ会談で、

個人的な信頼関係の構築に手応えを得た。自ら掲げる経済政策で意気投合するなど会話が弾んだためだ。

中国や北朝鮮への対応、地球規模の課題などで日米の連携が一層必要とされる中、

バイデン氏との本格的な会談を待ち望んだ首相にとって順調な滑り出しとなった。

 

 

両首脳の気脈が通じたのは、「新しい資本主義」に話題が及んだ時だ。

首相が、成長と分配の好循環を目指し、

格差や分断など資本主義が生み出した弊害に向き合うと持論を説明すると、

バイデン氏は「私の大統領選公約を読んだのかと思った」と笑顔を見せた。

話し足りない様子で「直接会って話したいものだ」とも続けたという。

中産階級を重視するバイデン氏にも首相の主張が響いたようだ。

首相は会談後、「大統領から強く支持するとの発言があった」と記者団に語った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

根底には「対中国戦略」が両国にあります。

北京オリンピックも近づいてきました。

 

今日から、「お経」について考えてみたいと思います。

皆さんは「お経」というと、どういったイメージがあるでしょうか・・・・。

怪談話の中には、よくお経が出てくるので「怖い」といったイメージを持たれる方もいるようです。

「お経」で有名なのは「般若心経」とか、「妙法蓮華経」といったものでしょう。

お経は、祈りをする為の道具でもあります。

「願い」を成就することの祈りを「祈願」といいます。

 

仏教は、「幸せに生きるための教え」です。

又は、「楽に生きるための教え」とも言えるでしょう。

 

そして、その方法について説いているのが「お経」です。

ですので、お経は、幸せに生きる生き方が書いてある物なのです。

お経は、怖いものではありません。

よくあるのが「毎日、般若心経を唱えているが、意味が分からなくても大丈夫でしょうか。」

という質問です。

 

この事については、明日、続きを書きたいと思います。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


「住み続けたい町」という言葉がありました。

2022年01月22日 06時57分06秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、曇っています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

今日から、しばらく雪が落ち着きそうですが、

三徳山は、大雪になりました。

 

雪かきも、疲れました。

腕も痛いし、腰も痛い。

なんとかしようと思っても、自然には勝てません。

 

今日は、三徳山の雪を見ていただこうと思います。

恐ろしいぐらいです。

 

 

 

 

 

 

少し暖かくなれば、良いのですが・・・・。

朝から雪かきでした。

 

日本海新聞の一面に「高齢化率過去最高」という記事がありました。

 

 

山間集落では、49.8%という数字でした。

深刻な数字です。このままでは、村がなくなってしまう可能性が大きいと考えます。

三朝町の奥部集落では、高齢化率80%以上のところもあります。

集落に、2軒〜3軒の集落もあり、今後の維持は難しくなっています。

 

特に、冬場は豪雪になり、通勤通学、また買い物ができなくなります。

若い方が町の便利のよいところへ出てしまうのは仕方がないことです。

 

今後、ますますこのような集落か増えるでしょう。

高齢者の方は、住み慣れた場所で住みたいという気持ちがあります。

「住み続けたい町」という言葉がありました。

 

行政を含め、地域で支え合っていかなくてはなりません。

困ったときは、声を掛け合い、できる範囲で助け合っていかなければなりません。

個人でできることは限られています。また、負担も大きいでしょう

 

今後は、地域で支え合うといったシステムを作り上げるべきだと思います。

多くの住民がいる近隣の集落が、支え合う中心となって、

高齢化率の高い集落で生活している方の生活面で、困っていることを、

地域で支えることができるシステムを構築することが大切だと思います。

行政は、そういうところに予算を付けて、後押しをしてほしいと考えます。

 

 

夏の参議院議員選挙の「特定枠」の候補者の公募が締め切られました。

県議会議員の藤井一博氏と、現職の竹内功氏の2名です。

 

今後どのように、候補者が決定するのか・・・。

注目をしていきたいと思います。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。


だからこそ、「祈り」が必用なのだと思います。

2022年01月21日 05時04分11秒 | 近況報告

皆さんおはようございます。

三徳山は、曇っています。

気をつけてお出かけ下さい。

 

皆さん、元旦や三が日に、神社等に「初詣」に行かれたと思います。

昨年から、「新型コロナウイルスの影響」で、神社の境内も、

感染防止のために、いろいろと様変わりをしているようです。

まぁ、それは良いとして、皆さん、初詣をしたときに「お願い事」を言われていませんか?

 

神社でしたら、さい銭を投げて「2拝2拍手1拝」をして、その後に、

手を合わせてお願い事や、祈りをされている人が多くおられます。

 

手を合わせることを「合掌(がっしょう)」といいます。

仏教では 「右手が清浄を表し(仏)、左手は不浄を表し(煩悩)、

合掌は対立する2つのものを合体させるというインド古来の意味を持っています。

通説では、人間の体の部位で一番離れているのは実は右手と左手で、

両手を大きく広げればそれが実感できます。

一番遠くにある右手と左手が、合わさることで、

私たちは、そこに「祈り」という行為ができるのだと思います。

 

 

両方の手が一番離れていると言うのは、人間の未熟さの象徴とも取れると思います。

祈るときに両手を合わせるのは海外の東西を問わずキリスト教でもイスラム教でも 同じです。

つまり、合掌は万国共通です。

 

 

しかし、初詣の時の「祈願」と、「祈り」は、明らかに違っています。

「願い」とは、「あれが食べたい。」とか、「時計がほしい。」とか、

なんとかなるものが「願い」だと思います。

 

一方で「祈願」とは「受験に合格したい。」「商売が上手くいくようにしたい。」

「交通事故に合わないようにしたい。」など未来のことで、

努力はするが、自分ではどうすることもできないところで、

神仏の力をお借りしたい。と言うことだと思います。

 

 

また、「コロナ終息」「世界平和」「戦争がなくなるように。」というような、

自分の力ではどうしようもできない事を、何かの力を信じて「お祈り」する事もあります。

 

また、亡くなった方に「ご冥福を心からお祈りいたします。」というような「祈り」もあります。

本来の「祈り」というものは、自分のことばかりではなく、

また、自分ではどうしようもできないようなことや、

災害や戦争、飢饉、人権、貧困などなど、人々のために「お祈り」をする事だと思っています。

 

 

もちろん、自分のことでもかまいません。

「祈り」をする人は、必ず自分だけではなくその中に、

家族の幸せ等の祈りが、必ず入っているものなのです。

 

「利他の精神」が「祈り」であり、

祈るときに、自分の心の中にある「仏様」や「神様」と繋がっているのです。

 

 

私たち、人間は欲望の塊です。

「自分さえ良ければいい」という心が必ずあるものなのです。

しかし、その、「自分さえ良ければいい。」という心が、

自分にもあると気づいて生きている人と、そうでない人では、

人生が違ってきます。

 

いろいろな思いや、過ちがあるのが人間なのです。

だからこそ、「祈り」が必用なのだと思います。

 

では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。

ツイテル。ツイテル。

ありがとう。感謝。感謝。

喜べば、喜び事が、喜んで、喜び連れて、喜びに来る。