皆さんおはようございます。
三徳山は、良い天気になっています。
是非、お参り下さい。
今年は、慈覚大師円仁(794~864)の千百五十年御遠忌法要が主として行われています。
このことについて、天台宗長昌寺住職 野本覚成師が、
天台宗「祖師先徳鑽仰大法会」執行に寄せて ― 慈覚大師山陰伝説という題で「中外日報」に寄稿されていました。
内容は、次の通りです。
天台宗は今年4月1日、10年間にわたって4人の祖師を鑽仰する「祖師先徳鑽仰大法会」を開闢した。その大法会で千百五十年御遠忌法要が行われる慈覚大師円仁(794~864)は、中国滞在留学から日本に帰国して以後に、本格的な宗教活動が始まっている。承和14(847)年9月19日に日本に帰国できて、しばらくは比叡山に居住し、やがて帰国6年後の854年に天台座主(3世)に61歳で補任される。僧侶としての本格的活動はこれ以後71歳没までだと考えねばならない。
円仁には、中国留学中に仏教弾圧の戦乱体験など10年間を記した『入唐求法巡礼行記』全4巻がある。円仁の代表著作として知られている。しかし、これは日記である。仏教書ではない。円仁は苦難のヒッピー旅行をし、それを詳細に日記したことが円仁の僧侶としての価値を高めたわけではないと思う。現代の日記評価は求道者円仁の意図にそぐわないであろう。むしろ僧侶としての活動内容は、天台座主就任以後にあると思われる。一般社会がそれを軽視し、苦難の旅行者としてのみ価値があるように扱うのを、私は是としたくない。
仏教書としての著作は多くはないが重要な3書目、『顕揚大戒論』8巻・『蘇悉地羯羅経略疏』7巻・『金剛頂大教王経疏』7巻。さらに求法目録が2書目。それに『巡礼記』4巻である。その『巡礼記』ですら近年までほぼ失われて、書写本は国宝の1本が宗外に伝わっているのみである。歴史的には、慈覚門徒か寺門門徒かと、宗内の勢力紛争の筆頭に名が出てくることから見れば、その旅行記も評価されてこなかった。それから見れば、『巡礼記』注目はしぶしぶ歓迎しなければならないか。しかし、円頓戒・蘇悉地経・金剛頂経が重視された平安当時の状況や教学内容を、その著作から読み取るのが教団や僧侶の責務だと思う。
慈覚大師には、全国で現在615箇寺以上の開基・中興・由緒寺院があることが確認されている。天台宗だけに限らない600以上の寺院が、慈覚大師に由緒あると伝えているのである。この数は現在の天台宗寺院数に当てると約18%にも相当する。これは寺院アンケートによる自主回答調査だから、絶対正確数ではない。正確ではないにも拘わらず、全国にこのように多いのはなぜであろうか。しかもその半数以上は、関東・東北地方である。慈覚大師の生地が栃木県とはいえ、比叡山を遠く離れた関東地方に多い。もちろん天台宗寺院全部が、慈覚大師の恩恵にある事を否定する者はいない。ただ寺院縁起に登場するか否かに限っての話である。
天台宗山陰教区(鳥取県・島根県・山口県)には、20箇寺に慈覚大師が寺院縁起に出てくる。現在60箇寺の33%である。天台座主在任期間は71歳までの10年間である。しかし縁起の内その年代明記するものは、円仁の生前から没後の年代にわたり、広くバラバラに開基・中興されており、留学中の寺院開創伝説さえもある。なぜだろう、明記された年代も信用できない事になる。これは不思議な事である。
宗教的に伝承を重視すれば「宗教的真実」として慈覚大師開基が言えるのだが、一方で歴史学的事実を重視する「科学的真実」では事実ではない事になる。これは、人が一生の間に開創のみで278箇寺もの寺院を建築できるか、という物理的疑問すなわち合理性を明らかにしなければならないことにもなる。私は、実際に円仁和尚が寺院建築に携わったことは、ほぼないと考えている。しかし、慈覚大師がその寺に関わった事は歴史的真実であるとも考えている。
その開基・中興などに慈覚大師が登場するのは、寺院を護るためや、開創するに当たって、慈覚大師の縁起を必要とした時代背景や、社会情勢があった事を物語っているのである。また、慈覚大師が登場するにしても、さほど明白な記述ではなく、曖昧な語り口である事が多い。寺院縁起撰述の多くは、寺院ができた時より後に遡って語られるのであろう。つまりその寺院の沿革に、慈覚大師が必要となった時代・社会があった事が裏側に語られているのだ。その慈覚大師は、山門慈覚門流の所属を意味し(寺門や真言ではない)、天皇を護持する天台宗寺院であると強調し、表面に宣伝する必要があった過去がその寺院にはあったのである。慈覚大師の霊力・法力・知名度に頼った歴史があった。それは地方豪族の武力衝突から寺院を護るためや、寺領を確保する目的があった等のことが、厳かなる慈覚大師の登場となると考えられる。つまり、隠された寺院歴史が「慈覚大師の寺院縁起」として現れているのだろう。だからこそ寺院縁起は、矛盾があっても廃棄してはならない縁起なのである。その寺院の「歴史的真実」なのであり、すなわち寺を護持しようとする「宗教的真実」を語っていると言えよう。
例えば、次の三徳山三仏寺は、鳥取県にある有名な寺院である。特に国宝「投入堂」は、記念五百円コインや切手や写真集にあって格段に有名である。けれども三仏寺縁起の慈覚大師は、山麓の本堂にあって、奥の院の「投入堂」にはない。これを無関係かどうか議論する必要はない。天台宗の門流を証明するための慈覚大師の登場だから、本堂にも投入堂にも必要な大師様なのである。
「……次に仁王五十四代、仁明天王嘉祥二年(八四九)。慈覚大師、緑苔崔粲を凌いで、親しく権現に謁したてまつり、神勅に依りて刹柱を建て、釈迦・弥陀・大日三仏の尊像を安置し給う。是れ則ち本地垂迹の霊徳を示し、両部宗合の神道を呈す。本迹思い難く内外冥契し、仏神混和して感応道交せり。……」(三仏寺「梵鐘勧化状」、原文は漢文)
三仏寺の寺名は慈覚大師にあると縁起にあるが、慈覚大師由来の尊像三仏は現存していない。また嘉祥2年は、比叡山に待望の曼荼羅が完成した年で、来山の可能性はあるものの関東にもこの年代の開創伝説が多いから、曼荼羅開眼をよそに全てに赴かれた事にしなければならない。
大日寺(鳥取県倉吉市)は、平安時代は大規模な寺院で、最古の瓦経(重文)が東京・京都・奈良の各国立博物館に残っている。ここは承和8(841)年慈覚大師開基・永延2(988)年恵心僧都中興とあるが、開基年代は円仁和尚の長安滞在中である。「承和八年酉年慈覚大師顕密弘通ノ為ニ桜山大日寺上院中院安養院ノ三大寺ヲ創建シヌ」とあるのみで詳細とはいいがたいが、発祥が明記されている。
伯耆大山(国立公園)山中の大山寺には、重要文化財の阿弥陀堂がある。この堂は慈覚大師建立と伝承される。年代は明記がないものの、常行三昧行法や五台山念仏は慈覚大師が将来されたという伝承から、阿弥陀堂の建立者は慈覚大師だと伝えられたのだろう。大山寺開創は養老2(718)年、奈良時代の金蓮上人で、慈覚大師によって天台宗になったと説明されている。
いずれも内容は異なるが、天台宗を振興しようとする意気込みで語り伝えられているのである。要は現代の寺院活動に、それらの宗教的縁起の意気込みが見いだせるかどうかが、慈覚大師千百五十年御遠忌法要、ひいては祖師先徳鑽仰大法会の行事の要点とならねばならないように思う。求道心の欠損を再生する法要が望ましいように思う。
非常に興味深い内容です。山陰にもたくさん御縁があるお寺があります。
6月29日(土)は、比叡山根本中堂で、「山陰教区法要」が開催されます。
300名近い檀信徒の皆さんと一緒に、比叡山に登りたいと思います。
今日は、鳥取市において「山陰教区第一部の部会」が開催されます。
6月29日の教区法要についても、話し合いがされる予定です。
では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。
ツイテル。ツイテル。
ありがとう。感謝。感謝。
三徳山は、良い天気になっています。
是非、お参り下さい。
今年は、慈覚大師円仁(794~864)の千百五十年御遠忌法要が主として行われています。
このことについて、天台宗長昌寺住職 野本覚成師が、
天台宗「祖師先徳鑽仰大法会」執行に寄せて ― 慈覚大師山陰伝説という題で「中外日報」に寄稿されていました。
内容は、次の通りです。
天台宗は今年4月1日、10年間にわたって4人の祖師を鑽仰する「祖師先徳鑽仰大法会」を開闢した。その大法会で千百五十年御遠忌法要が行われる慈覚大師円仁(794~864)は、中国滞在留学から日本に帰国して以後に、本格的な宗教活動が始まっている。承和14(847)年9月19日に日本に帰国できて、しばらくは比叡山に居住し、やがて帰国6年後の854年に天台座主(3世)に61歳で補任される。僧侶としての本格的活動はこれ以後71歳没までだと考えねばならない。
円仁には、中国留学中に仏教弾圧の戦乱体験など10年間を記した『入唐求法巡礼行記』全4巻がある。円仁の代表著作として知られている。しかし、これは日記である。仏教書ではない。円仁は苦難のヒッピー旅行をし、それを詳細に日記したことが円仁の僧侶としての価値を高めたわけではないと思う。現代の日記評価は求道者円仁の意図にそぐわないであろう。むしろ僧侶としての活動内容は、天台座主就任以後にあると思われる。一般社会がそれを軽視し、苦難の旅行者としてのみ価値があるように扱うのを、私は是としたくない。
仏教書としての著作は多くはないが重要な3書目、『顕揚大戒論』8巻・『蘇悉地羯羅経略疏』7巻・『金剛頂大教王経疏』7巻。さらに求法目録が2書目。それに『巡礼記』4巻である。その『巡礼記』ですら近年までほぼ失われて、書写本は国宝の1本が宗外に伝わっているのみである。歴史的には、慈覚門徒か寺門門徒かと、宗内の勢力紛争の筆頭に名が出てくることから見れば、その旅行記も評価されてこなかった。それから見れば、『巡礼記』注目はしぶしぶ歓迎しなければならないか。しかし、円頓戒・蘇悉地経・金剛頂経が重視された平安当時の状況や教学内容を、その著作から読み取るのが教団や僧侶の責務だと思う。
慈覚大師には、全国で現在615箇寺以上の開基・中興・由緒寺院があることが確認されている。天台宗だけに限らない600以上の寺院が、慈覚大師に由緒あると伝えているのである。この数は現在の天台宗寺院数に当てると約18%にも相当する。これは寺院アンケートによる自主回答調査だから、絶対正確数ではない。正確ではないにも拘わらず、全国にこのように多いのはなぜであろうか。しかもその半数以上は、関東・東北地方である。慈覚大師の生地が栃木県とはいえ、比叡山を遠く離れた関東地方に多い。もちろん天台宗寺院全部が、慈覚大師の恩恵にある事を否定する者はいない。ただ寺院縁起に登場するか否かに限っての話である。
天台宗山陰教区(鳥取県・島根県・山口県)には、20箇寺に慈覚大師が寺院縁起に出てくる。現在60箇寺の33%である。天台座主在任期間は71歳までの10年間である。しかし縁起の内その年代明記するものは、円仁の生前から没後の年代にわたり、広くバラバラに開基・中興されており、留学中の寺院開創伝説さえもある。なぜだろう、明記された年代も信用できない事になる。これは不思議な事である。
宗教的に伝承を重視すれば「宗教的真実」として慈覚大師開基が言えるのだが、一方で歴史学的事実を重視する「科学的真実」では事実ではない事になる。これは、人が一生の間に開創のみで278箇寺もの寺院を建築できるか、という物理的疑問すなわち合理性を明らかにしなければならないことにもなる。私は、実際に円仁和尚が寺院建築に携わったことは、ほぼないと考えている。しかし、慈覚大師がその寺に関わった事は歴史的真実であるとも考えている。
その開基・中興などに慈覚大師が登場するのは、寺院を護るためや、開創するに当たって、慈覚大師の縁起を必要とした時代背景や、社会情勢があった事を物語っているのである。また、慈覚大師が登場するにしても、さほど明白な記述ではなく、曖昧な語り口である事が多い。寺院縁起撰述の多くは、寺院ができた時より後に遡って語られるのであろう。つまりその寺院の沿革に、慈覚大師が必要となった時代・社会があった事が裏側に語られているのだ。その慈覚大師は、山門慈覚門流の所属を意味し(寺門や真言ではない)、天皇を護持する天台宗寺院であると強調し、表面に宣伝する必要があった過去がその寺院にはあったのである。慈覚大師の霊力・法力・知名度に頼った歴史があった。それは地方豪族の武力衝突から寺院を護るためや、寺領を確保する目的があった等のことが、厳かなる慈覚大師の登場となると考えられる。つまり、隠された寺院歴史が「慈覚大師の寺院縁起」として現れているのだろう。だからこそ寺院縁起は、矛盾があっても廃棄してはならない縁起なのである。その寺院の「歴史的真実」なのであり、すなわち寺を護持しようとする「宗教的真実」を語っていると言えよう。
例えば、次の三徳山三仏寺は、鳥取県にある有名な寺院である。特に国宝「投入堂」は、記念五百円コインや切手や写真集にあって格段に有名である。けれども三仏寺縁起の慈覚大師は、山麓の本堂にあって、奥の院の「投入堂」にはない。これを無関係かどうか議論する必要はない。天台宗の門流を証明するための慈覚大師の登場だから、本堂にも投入堂にも必要な大師様なのである。
「……次に仁王五十四代、仁明天王嘉祥二年(八四九)。慈覚大師、緑苔崔粲を凌いで、親しく権現に謁したてまつり、神勅に依りて刹柱を建て、釈迦・弥陀・大日三仏の尊像を安置し給う。是れ則ち本地垂迹の霊徳を示し、両部宗合の神道を呈す。本迹思い難く内外冥契し、仏神混和して感応道交せり。……」(三仏寺「梵鐘勧化状」、原文は漢文)
三仏寺の寺名は慈覚大師にあると縁起にあるが、慈覚大師由来の尊像三仏は現存していない。また嘉祥2年は、比叡山に待望の曼荼羅が完成した年で、来山の可能性はあるものの関東にもこの年代の開創伝説が多いから、曼荼羅開眼をよそに全てに赴かれた事にしなければならない。
大日寺(鳥取県倉吉市)は、平安時代は大規模な寺院で、最古の瓦経(重文)が東京・京都・奈良の各国立博物館に残っている。ここは承和8(841)年慈覚大師開基・永延2(988)年恵心僧都中興とあるが、開基年代は円仁和尚の長安滞在中である。「承和八年酉年慈覚大師顕密弘通ノ為ニ桜山大日寺上院中院安養院ノ三大寺ヲ創建シヌ」とあるのみで詳細とはいいがたいが、発祥が明記されている。
伯耆大山(国立公園)山中の大山寺には、重要文化財の阿弥陀堂がある。この堂は慈覚大師建立と伝承される。年代は明記がないものの、常行三昧行法や五台山念仏は慈覚大師が将来されたという伝承から、阿弥陀堂の建立者は慈覚大師だと伝えられたのだろう。大山寺開創は養老2(718)年、奈良時代の金蓮上人で、慈覚大師によって天台宗になったと説明されている。
いずれも内容は異なるが、天台宗を振興しようとする意気込みで語り伝えられているのである。要は現代の寺院活動に、それらの宗教的縁起の意気込みが見いだせるかどうかが、慈覚大師千百五十年御遠忌法要、ひいては祖師先徳鑽仰大法会の行事の要点とならねばならないように思う。求道心の欠損を再生する法要が望ましいように思う。
非常に興味深い内容です。山陰にもたくさん御縁があるお寺があります。
6月29日(土)は、比叡山根本中堂で、「山陰教区法要」が開催されます。
300名近い檀信徒の皆さんと一緒に、比叡山に登りたいと思います。
今日は、鳥取市において「山陰教区第一部の部会」が開催されます。
6月29日の教区法要についても、話し合いがされる予定です。
では、明日も、あなたにとって良い日でありますように。
ツイテル。ツイテル。
ありがとう。感謝。感謝。