竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

1945年8月7日の出来事

2023年08月07日 | 日本の歴史
令和5年8月7日(月)
お早うございます。

昨日、78年前の1945年8月6日は広島に原子爆弾が投下された日です。

8月6日午前0時、南太平洋、マリアナ諸島のテニアン島で、アメリカ軍第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、乗員休憩室で、26人の飛行士に訓示した。
「いま我々が落とそうとしている爆弾は、これまでの爆弾とは違うものだということをよく覚えておいてほしい」ここでもティベッツ大佐は機密保持のため「原子」や「核」という言葉は、一度も使わなかった。
言ったのは、この爆弾が「非常に強力」で「戦争を終結させる力を持っている」ことだけだった。
従軍牧師ウィリアム・ダウニーが、今回のために特別に作った祈りの言葉を唱えた。
「全能の神よ。彼らをお守りくださるように祈ります。そしてあなたのお力に助けられて、彼らが戦争を早く終わらせることができますように」
乗組員への説明会は15分で終わった。
マリアナ諸島や沖縄、硫黄島から飛び立ったアメリカ軍のB-29はこの日も、佐賀市や兵庫県西宮市、前橋市などに爆弾の雨を降らせていた。
午前1時37分、3機の気象偵察機が広島、小倉、長崎を目指し、テニアン島を離陸した。

原子爆弾リトルボーイ(実物)


リトルボーイの構造。赤がウラン235。弾尾側にある黄色い火薬が爆発すると、円筒状のウランが弾頭側へ移動し、円柱状のウランにかぶさって一体化するように描写されている。

昨日は、午前8時から広島市平和公園で行われる平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、岸田総理大臣のほか、アメリカやウクライナといったおよそ110の国の大使などが参列いたしました。ことしは4年ぶりに、新型コロナウイルスの対策で設置が見送られてきた先着の一般参列者席が設けられました。
昨日は、午前8時から広島市の平和記念公園で、「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれました。
松井一実市長は平和宣言で、先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)に言及し、核軍縮文書が肯定した核抑止論について「破綻していることを直視し、為政者に脱却を促すことが重要だ」と主張いたしました。


そして、今日の8月7日は何の日、
78年前の1945年8月7日は、豊川海軍工廠が空襲され、女子挺身隊員・国民学校児童ら2477人が死亡した日です。

工廠への空襲は1944年(昭和19年)11月1日の偵察に始まり、1945年(昭和20年)に入り小規模なものが度々あったが大規模空襲は無かった。
しかし1945年(昭和20年)8月7日10時30分、サイパン、テニアン、グアムから飛来したB-29爆撃機124機の爆撃を受け、30分間に500ポンド(250kg)爆弾3,256発(約800トン)が投下され工廠は壊滅した。
 この空襲により、およそ2,500名が犠牲となった。
詳細な犠牲者数は文献により相違があり、『被爆四十周年 嗚呼豊川海軍工廠』によると2,544名、『豊川海軍工廠の記録』によると一般人141名も犠牲となり合計2,670名、大島信雄の調査によると2,818名という。
豊川市史編纂室の調べによると上記人数には8月7日以外の犠牲者も含まれており、再度集計し直した結果、合計2,667名となっている。
勤労動員されていた中学生、女学生、高等科生徒からも多数の犠牲者が出、男193名、女259名、計452名にのぼった。
この空襲の際に空襲警報、総員待避の命令が出たかどうかが現在でも議論となっている。
広島や長崎などと一緒に原子爆弾投下候補地に入っていた。
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