竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

1945年8月12日 皇族会議

2023年08月12日 | 日本の歴史
令和5年8月12日(土)
お早うございます。

<1945年8月12日はこんな日だった。>
 8月12日未明、ポツダム宣言を受け入れる意思を表明した日本に対する、連合国の米英中ソ4国からの回答を、サンフランシスコ放送が流し始めた。
日本政府の関心は1点。
連合国側に要請した「国体の護持」、つまり天皇制の維持が認められるかどうかだった。
回答は、これに正面から答えたものではなかった。
午後6時24分に外務省に到着した駐スイス大使館の加瀬俊一公使からの電文には、以下の通り書かれていた。

From the moment on surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.

天皇と連合国最高司令官の関係、具体的にはこの「subject to」をどう解釈するかで、再び激しい議論が戦わされることになる。
外務省は「天皇および日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の『制限下に置かれる』」と翻訳し、受け入れに傾いた。
これに対し陸軍は「隷属する」と、独自の訳文を作成し、大本営や一部の将校らが「これでは国体が護持できない」と、受諾に強く反対する。
午前10時半ごろ、東郷茂徳外相と面会した昭和天皇は「自分はこれに満足である」との意思を伝えた。

午後3時半からの閣議では、陸軍の一部将校から突き上げられた阿南惟幾・陸軍大臣が、受け入れに絶対反対を主張。全面受け入れ案の東郷外相と真正面から対立する。さらに、国体護持について、もう一度連合国側に確認すべきだという案も出て、結論が出ないまま休会となった。


 8月12日午前、昭和天皇は皇族たちを召集させ、この決断を下した理由を説明し、平和目的の達成の為にと協力を求めた。
これに対して梨本宮守正王が代表して、「私ども一同、一致協力して聖旨を補翼します」と奉答した。そこに出席したのは、以下の13名の皇族である。

梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年(明治7年)3月9日 - 1951年(昭和26年)1月1日)は、日本の旧皇族。大日本帝国陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。大韓帝国最後の皇太子である李王垠の岳父。上皇明仁の大叔父にあたる。

[陸軍]
梨本宮守正王(元帥、陸軍大将)
朝香宮鳩彦王(陸軍大将、軍事参議官)
東久邇宮稔彦王(陸軍大将、軍事参議官、のちの首相)
賀陽宮恒憲王(陸軍中将、陸大校長)
李王垠(陸軍中将、軍事参議官、朝鮮人)
閑院宮春仁王(陸軍少将、戦車第四師団長心得)
竹田宮恒徳王(陸軍中佐、第一総軍参謀)
李鍵公(陸軍中佐、陸大教官、朝鮮人、帰化して桃山虔一)
三笠宮崇仁親王(陸軍少佐、航空総軍参謀)
盛厚王(陸軍少佐、第三十六軍参謀)
邦寿王(陸軍大尉、豊橋第一予備士官学校歩兵生徒隊付)

[海軍]
久邇宮朝融王(海軍中将、第二十連合航空隊司令官)
高松宮宣仁親王(海軍大佐、軍令部出仕兼部員)

[秩父宮雍仁親王(陸軍少将)、伏見宮博恭王(元帥、海軍大将)、朝香宮孚彦王(陸軍中佐、岐阜飛行師団参謀)の三名は病気療養中などの理由により欠席]



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1945年8月11日 樺太の戦い | トップ | 1945年8月13日 バーンズ回答... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本の歴史」カテゴリの最新記事