わしやま

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とんがって大人になったね(ハート)

2011-02-28 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

田原俊彦「NINJIN娘」

この曲は1982年10枚目のシングルとしてリリースしたナンバーで、

フジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』挿入歌。アニメーションを交えた田原本人の歌唱シーンは番組内で度々放映された。曲中では同じく『ひらけ!ポンキッキ』で使用されたなぎら健壱の「いっぽんでもニンジン」のフレーズを引用している。

また、『ひらけ!ポンキッキ』の後継番組『ポンキッキーズ』では爆チュー問題がコントの一環としてカバーしている。
オリコンチャートでは2位止まりだったが、TBS『ザ・ベストテン』では前作の「原宿キッス」に引き続き1位となった。
購入者には,赤いナイロン製の袋が特典としてついており,とくにTOSHIの男性ファンがこのレコードを買っても中身が分からないようにという配慮からの特典であったと,TV番組で紹介されていた。

彼の経歴から、

1979年、テレビ朝日『とびだせ!パンポロリン』にて、歌と体操のお兄さんとして出演していたギャングスの松原秀樹の代役出演としてテレビデビュー。

川崎麻世のバックコーラス&ダンスグループ「ピラミッド」を、曽我泰久(現:曾我泰久)、長谷部徹と共に結成。 同年4月 - 7月まで、毎週日曜夜7時から30分間放送していた日本テレビのダンス番組『ミュージックボンボン』にもピラミッドとして出演。この番組には「ジャPAニーズ」も共に出演していた。

同年7月、フォーリーブスのおりも政夫がミュージカル『南太平洋』に出演した際に、1ヶ月間だけ彼の付き人を経験。

同年9月、TBSドラマ『3年B組金八先生』のオーディションに合格。生徒・沢村正治役として俳優デビュー。後に、同じく生徒役だった近藤真彦、野村義男と共に「たのきんトリオ」と呼ばれるようになった。

近藤と野村が「金八」出演時に実際に15歳だったのに対し、田原は18歳(放送中に誕生日を迎え19歳)と、既に高校卒業の年齢だったため、事務所の意向もあり、1歳若く年齢詐称。その年齢とのつじつまを合わせる為、高校も「2年一杯で中退」とせざるを得なかった。この件については、後に歌番組の中で謝罪している。

1980年6月、たのきんトリオの先陣を切り、レイフ・ギャレット(en:Leif Garrett)『ニューヨークシティナイト』のカバー『哀愁でいと』で歌手デビュー、1980年代のトップアイドルとして活躍する。第22回日本レコード大賞・最優秀新人賞、第11回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞などを受賞。その後も『教師びんびん物語』など、多くのドラマに主演するなど、俳優としても活躍した。

1982年、ブロマイド年間売上実績の男性部門でトップ。
ファンによるステージ用の応援コールも生まれた。 代表的なものは「T・O・S・H・I スーパーアイドルLOVE俊ちゃん!」。

『哀愁でいと』から『ジャングルJungle』まで、オリコンシングルの連続TOP10入り37作の記録を持つ。その後の3作はTOP入りを逃すも、『雨が叫んでる』で通算38作目の、かつ現在で最後のTOP10入りとなった。なお、通算で38作のオリコンTOP10入りは、サザンオールスターズの『愛と欲望の日々/LONELY WOMAN』に破られるまで、当時歴代1位の記録だった。
TBS系『ザ・ベストテン』では最多出場記録を持っており、同番組には田原の名前入りの青いソファーが1988年1月7日よりスタジオに設置されていた。このイスは、1987年12月31日の『ザ・ベストテン』放送の際に紹介された。

フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』に初出演したのはデビュー9日後の1980年6月30日放送の回である。

それ以降、原則月1回〜2回のハイペースで出演を続け、番組終了(1990年10月)までの間に158回の出演回数を記録。

番組が『夜のヒットスタジオDELUXE』と改題され、2時間枠に放送時間を拡大したのを機に新設されたマンスリーゲストにも歴代最多の3回(1985年5月、1986年12月、1989年6月)抜擢された。『教師びんびん物語』主演当時には教え子役の子役との共演ともに主題歌でもある『ごめんよ涙』を披露したり、座長公演の最中での出演時にはその舞台でのいでたちで番組に登場したり、渡辺貞夫・久保田利伸などとのセッションを行うなど、パフォーマンスを数多く番組内で披露した。レギュラー放送最終回である1990年9月19日放送では、トリを任されスタジオを駆け回りながら『ジャングル Jungle』を熱唱した。

1980年から1986年まで、『NHK紅白歌合戦』に7年連続出場していた。 しかし1987年、歌手活動よりも俳優業に本腰を入れていたせいもあってか、シングルは『KID』、ドラマ『ラジオびんびん物語』の主題歌『どうする?』等3枚発売されていたものの、落選。

翌1988年に発売された『抱きしめてTONIGHT』がフジテレビ系ドラマ『教師びんびん物語』の高視聴率とリンクしたこともあり、久々の長期的ヒットに発展。紅白に選ばれるが、前年落選の報復をするかのように、本人の希望で出場者発表後に突然の辞退宣言を表明。1989年にも『ごめんよ涙』でヒットしたものの、結局不出場。その後、NHKの番組には一切出演していなかったが1994年、『ふたりのビッグショー』(松田聖子と共演)、2005年には『思い出のメロディー』に出演。

当時Jrだった中居正広は合宿所で、田原が使用中だったシャワールームのドアをうっかり開けてしまい、偶然彼の全裸姿を目撃した時「その股間の立派さに驚いた」と後に語っている。また、当時シブがき隊で活動中だった薬丸裕英が合宿所に遊びに行った折、風呂上りの田原と遭遇してしまうが、その薬丸もやはり「凄い立派なもの」を持っていると語っていた。

ジャニーズ事務所を独立する前年度の1993年には、毎年行われるコンサートツアーが全面的に中止されている。

1994年2月、長女誕生の際の記者会見で、「何事も隠密にやりたかったけど、僕ぐらいビッグになってしまうと……」と語った、いわゆる“ビッグ発言”が物議を醸す。その発言が響いたのか

1995年度の「an・an」の嫌いな男ランキング1位となり、露出が減ってしまう。この「僕ぐらいビッグに…」発言云々は各マスコミから「生意気」などと叩かれた。

1994年3月1日に、ジャニーズ事務所から独立し個人事務所「DOUBLE "T" PROJECT」を設立する。その後事務所を移籍するも地道に歌手活動を続け、毎年新曲を発表しライブやファンイベント、ディナーショーを行っている。

交友関係においては、プロサッカー選手の三浦知良とは10数年来の親友である(田原のファンであった無名時代のカズが静岡のコンサートに遊びに行った事がきっかけ)。1993年、カズがJリーグアウォーズ表彰式で、初代MVPを受賞した際着ていた真赤なタキシードは田原が10周年コンサートツアーで着用した物。またかつてデュエット共演した研ナオコとは非常に仲が良い事で知られる。ただ「広く浅くではなく本当に気の合う人達と狭くても深いお付き合いをしたい」との本人の生き方もあり、芸能界での交友関係は狭い。

1999年以降2001年まで、田原が主演したドラマ『巡査びんびん物語』『教師びんびん物語』が2時間ドラマ枠で放映された。

2004年にNHKで研ナオコとダンディ坂野と『教師びんびん物語』のコントを行った事がある。

2006年6月からインターネットラジオ番組「田原俊彦DOUBLE"T"リラックスタイム」を開始。2009年シーズン4では視聴者数(ユニークユーザー)が25万人を超えている。

2010年4月同番組はシーズン5を迎え、田原俊彦DOUBLE"T"リラックスタイム5と題し、毎週金曜日15時更新、アーカイブ放送も24時間365日常時視聴可能である。

2009年4月にはデビュー30周年を迎え、田原俊彦デビュー30周年記念プロジェクト公式サイトを立ち上げた。

2009年5月27日、23年ぶりとなる自叙伝『職業=田原俊彦』(KKロングセラーズ刊)を出版。

2010年4月22日、LIVE DVD「30th Anniversary TOSHIHIKO TAHARA DOUBLE“T”TOUR 2009」を発売。

「自分=ビッグ」でイメージががた落ちした時、ある予備校でデザイナーの女性の講演会に行った時、田原さんの発言について触れ、感情的に怒る姿を見たとき、よほどのファンだった印象を思い出しました。

そんなアイドルを背負って活動している田原さんも人生半世紀を迎える。。。



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