労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

茶番だそうで・・・

2008-10-06 08:05:11 | Weblog
 マルクス主義同志会が『海つばめ』の最新号(1079号)で、

 「マルクスが言ったように、歴史的な大事件は、『一度目は悲劇として、二度目は喜劇として起こる』ということを、である。

 一九二九年に始まる世界恐慌は、ドイツのファシズムや日本の天皇制軍国主義を生みだし、また世界中に新しい帝国主義と侵略戦争等々を、そしてとどのつまりは、死者だけでも何千万人、何億人も出すという、世界的な規模の大戦争を引き起こした、つまり限りない人類の不幸と惨禍に、大悲劇につながった、しかし今回やってくる世界的な恐慌は、茶番として終わるであろうし、世界の労働者階級の闘いによって茶番として終わらせなくてはならないのである。」(『海つばめ』、第1079号)

 といっている。

 たしかに、

 「こうした需要と供給の不一致(マルクス主義同志会は商品に内在する対立をこのようにとらえている)は単なる可能性であって、平常の資本主義的生産においては現れない。もちろん、部分的には――すなわち個々の商品とか、あれこれの産業部門とかでは――いくらでも存在しうるであろうが、一般的なものとしては出現しない。商品は売れないかもしれないが実際には(通常には)売られるのである。需要と供給の不一致、すなわち商品が生産されすぎ、供給されすぎる――同じことだが、買う人が少なすぎる、つまり需要が過少である――といったことは、一般的にはありえない。恒常的な恐慌といったことは資本主義において現実ではないし、ありえないことで、商品は市場に飲み込まれ、順調に売られていき、それらが売れないことこそ異常なこと、特殊なこととして現れる。」(『プロメテウス』、第29号、P38)

 このようなこと(商品は売れないかも知れないが売れる、需要と供給は一致する、ということ、一般的な供給過剰、すなわち全面的な恐慌はありえない、ということ)が事実であれば、恐慌というものはそもそも存在しえないであろう。

 だから、マルクス主義同志会は、

 「資本主義的恐慌はかつてマルクスも喝破したように、無政府的な資本の運動の中で膨張した経済を“均衡化”する、「暴力的な」手段であり、経済的過程であって、資本主義にとってはまさに“市場メカニズム”の作用そのもの、その貫徹そのものである。恐慌を恐慌として徹底して貫徹させてこそ、市場原理主義の立場であって、まさに十九世紀のブルジョアジーはこの立場に断固として立っていたのである。」(『海つばめ』、第1079号)と恐慌待望論まで口にすることができるのである。

 たしかに、「恐慌」なるものが、単なる需給関係の調整であるのであれば、恐慌は単なる茶番であろう。

 ところで、19世紀の恐慌をおそれない“英雄的な”ブルジョアジーというのは誰のことであろうか、それはもちろんリカードである。そしてここでマルクス主義同志会がマルクスの見解として紹介しているのはリカードのことなのである。(マルクス主義同志会は、リカードのことを、いつもカール・マルクスと呼んでいる)

 そのリカードが、商品は売られるために作られるのだから、商品がうれないということはありえない、すべての商品が売れなくなるという全般的、もしくは一般的な恐慌など存在しない、存在しないものを恐れる必要はない、といったのは、リカードが全般的な過剰生産を知らなかったからである。

 ヨーロッパにおいて、本格的な過剰生産を伴う恐慌が起こったのは1825年であったが、それは彼が死んだ後のことだった。

 さて、この恐慌=茶番説をどのように考えるべきか?