労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

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2008-04-03 00:48:13 | Weblog
 われわれに何かを言いたい人もいるでしょうからコメントの受付を再開することにしました。

 ただし蓮池薫氏と拉致問題についてのコメントは無条件に削除します。

チベット問題について

2008-04-03 00:39:41 | Weblog
 どういうつもりかは知りませんが、われわれにチベット問題についての見解を執拗に求めている人がいます。
 
 それこそ「どういうことでしょうか?」と聞き返したいほどですが、ここはおだやかに見解を簡単に述べたいと思います。
 
 はじめにわれわれ赤星マルクス研究会は結成以来一貫して現代中国のことを「中国資本主義」と呼んできました。
 
 われわれが旧ソ連や東欧諸国のようなスターリン主義体制の国々を「国家資本主義」(国家と資本主義が癒着、結合しているという意味での国家資本主義)と呼んでいたことと比べてみれば明らかだと思いますが、われわれは現在の中国はどのような「スターリン主義」とも「社会主義」とも無縁な普通の資本主義国家であるという意味で「中国資本主義」、すなわち、国家資本主義(スターリン体制)とも区別された純然たる資本主義社会として中国を規定しています。
 
 これは中国の現代史から見ても、現在の中国の社会体制(土地や財産の私的所有が認められ、労働者を搾取する私企業が国の主要な社会構成体をなしている現代中国の体制)からしても妥当であると考えています。毛沢東の中国革命は当初から農民革命として存在しており、その結果登場した“中国社会主義”は革命最初から小ブルジョア的な性格を色濃くもっており、本来の意味での、つまり“労働者の政治”としての社会主義とはあまり関係のない政治体制でした。
 
 その中国が文化大革命の否定者である小平のもとで小ブルジョア的な農民国家から純然たる資本主義国家へと転換したことは何の不思議もありません。われわれはすでに1980年代に起こった“天安門事件”の時に、中国共産党の一党支配(中国の労働者にとって資本の支配とは何よりも中国共産党の支配を意味していました)に反対した労働者(“天安門事件”の本当の主人公は学生ではなく、労働者たちでした)を中国共産党が虫けらのように殺害したことにたいして、中国共産党は中国の労働者階級の許すべからざる敵であり、労働者階級の怒りによって打倒されなければならない存在であると規定しています。
 
 そこでチベット問題ですが、こういうことは中国が発達しつつある資本主義であることから避けられないものです。この点、ソ連の国家資本主義が崩壊する過程でいくつもの国民国家が誕生していったこととは区別されるべきでしょう。
 
 たとえば世界で最もはやく資本主義的生産様式が発達したイギリスでは、クロムウェルがアイルランドを占領してイギリスの領域に強制的に組み入れており、アメリカで資本主義が本格的に発達した19世紀後半はアメリカインディアンの殉難の歴史でもあります。日本でも明治維新後二度にわたって“琉球処分”と呼ばれる琉球王国に対する徹底的な解体と破壊が行われ、アイヌは内地との同化を強制されたり、千島列島のアイヌ人が色丹島に強制移住されています。(つまり日本資本主義は辺境地帯に“異民族”が居住しているのは好ましくないと考えたのです。)
 
 アメリカ資本主義にとってもこの問題は“ウンディド・ニー”(傷ついたひざ=1890年にウンデッド・ニーでスー族にたいしてアメリカの騎兵隊が機関銃を無差別に乱射して数百人の子どもや女性、老人を含むインディアンを皆殺しにした事件)であり続けている。アメリカでは1973年にインディアンが奪われた自分たちの土地を求めてウンディド・ニーで占拠事件を起こしたとき、アメリカ人(土着のインディアンこそ真のアメリカ人で現在“アメリカ人”を自称している人々はよそから来た征服者にすぎないのだが)は恐怖におびえた。
 
 このように資本主義はどこにおいても古い社会を無慈悲にも滅ぼして自らの領域国家をうち立ててきたのだが、われわれはそれでも資本主義の進歩性(マルクスは資本主義の文明化作用と呼んでいる)を認めてきた。資本主義のもとで生産力が飛躍的に高まり、社会主義の物質的な条件を準備するという点で、それは歴史の必然性の領域の話であり、そういうものとしてわれわれはそれを承認してきた。
 
 これ(資本主義の文明化作用を認めるか否かという問題)は、われわれ赤星マルクス研究会とわれわれの“本家”であるマルクス主義同志会の大きな違いである。
 
 チベット問題について言えば、ラサまで鉄道が引かれ、チベットが中国資本主義の領域に引き込まれていったときから、こういうことになることははじめから分かりきっていた。資本主義は古い世界を徹底的に討ち滅ぼした廃墟の上にうちたてられる生産様式であり、その廃墟の下には、何百万人、何千万人の“非業の死”とげた人の遺体が眠っているのである。
 
 もちろん、近年ではこのような資本主義の必然の支配が貫徹するだけではなく、それとは違った発展の可能性も存在するようになっている。
 
 それはイランで見られたように、資本主義の急速な発展により没落の危機に瀕した人々が、宗教の世界に救いをもとめ、古い社会を代表する宗教勢力を中心にして、資本主義を推し進めようとする勢力を打倒してしまう道である。
 
 この場合に誕生するのは反動的な宗教国家であるが、もちろん、反動的な宗教国家が誕生したからといって、資本主義から完全に離脱することは不可能である以上、反動的な宗教国家は下部構造として、国家によって規制された資本主義、つまり国家資本主義をもたざるをえない。
 
 つまりイランの労働者は資本主義による抑圧のほかに、宗教勢力による支配・抑圧という二重の桎梏をもたざるをえないが、このような国として“仏教的社会主義”を自称するミャンマーを挙げることもできるだろう。
 
 だからイラン、ミャンマーに次いで、反動的な宗教的独裁国家としてのチベットの誕生というシナリオも当然ありうるだろうが、この地域のブータンやネパールやミャンマーやカンボジアがこのような反動的な宗教国家からの離脱を模索しつつある地域の発展段階を考えると、仏教王国チベット王国の誕生にどれだけ現実性があるのか疑問点も多い。