労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

訂正と補足

2008-04-28 01:20:02 | Weblog
 前回、レーニンの学歴詐称の記事で若干の間違いと不正確な点がありましたので訂正します。
 
 最初に、レーニンが退学になった大学を「サマラ」といいましたが、これはカザン大学の間違いです。これはレーニンが17才の時のことです。
 
 この間、レーニンは「勉学を続けるため」とか「病気を治療する」という理由で国外旅行(つまり政治亡命)を警保局から拒否されています。(つまりレーニンの行動はロシアの秘密警察によって規制されていたので、警保局の許可なしに何かをするというのは事実上不可能でした。)
 
 1890年、彼が20才の時、ようやくペテルスブルク大学法学部の国家検定試験を受ける許可を得ます。レーニンは91年の春期と秋期の二回この国家試験を受けて合格し、92年に弁護士の資格をえます。(レーニンがこの国家試験を受けなかった、または不合格であったのであれば、問題でしょうが、彼が国家試験を受け、その試験に合格していることは秘密警察も確認しているので間違いはないでしょう。)
 
 そこで問題となるのが、この国家試験の内容ですが、これを現在の司法試験のようなものであると考えると、レーニンがペテルスブルク大学の卒業証書をもっているのはいかにも変な話です。彼はペテルスブルク大学に入学もしていないし、通学もしていないし、卒業式にも参加していないのですから卒業証書をもっているはずがありません。
 
 レーニン全集の第1巻の巻尾の年表によると、92年1月14日「ペテルスブルク学務区管理局から優等の大学卒業証書を受ける」と書いてありますが、もちろん卒業証書には優等、下等の区別などありません。それに卒業証書は基本的に大学が発行するもので文部省の「学務区管理局」が発行するものではありません。
 
 しかし同じ月の1月30日には「サマラ管区裁判所の決定によって弁護士補名簿に登録される」とあります。
 
 つまり、レーニンから弁護士になりたいという申請があって、裁判所がその申請を妥当なものとして受け入れたのですが、その裁判所への申請書類に大学の卒業証書が必要だった可能性があります。
 
 それで再度、「ペテルスブルク学務区管理局から優等の大学卒業証書を受ける」ということの意味ですが、レーニンがもっていたペテルスブルク大学の卒業証書を発送したのが国家試験を主催した「学務区管理局」であるとしたら、「それが正規の卒業証書」ではなかったことの説明にはなるのではないでしょうか。
 
 つまり、文部省の「学務区管理局」は正規の大学卒業者の卒業証書とそうでない人の卒業証書を区別する必要を感じていたわけで、一見してその区別と意味が分かるような卒業証書を合格者に配布していたということでしょう。

いずれにせよ、こういうことをゴチャゴチャと掘り返すことは、あまり意味があることとは思えませんので、これぐらいにしておきます。