小泉意味不明語の解読
わが日本国の首相殿は何語をしゃべっているんだろうか。
よその国の元首に「あなたの言っていることは、わが国の国民は誰一人として理解でませんよ。」などとバカにされて笑われている始末だ。
そこで、愛国心あふれる日本国民としては、世界に向かってその意味をきちんと説明する必要があるのだが、これが案外骨が折れるのである。
最初に、「心ならずも戦場におもむかれ戦死した方々を追悼し」という言葉であるが、「心ならずも(意志に反して)」という言葉はどこにかかるのだろうか?
これは二通りの解釈が可能である。
一つは戦死したことが「心ならずも(意志に反して)」という解釈である。
つまり、戦死するつもりはなかったが、戦死してしまった、という解釈である。しかし、これは歴史的な事実に反している。1938年のノモンハン事件の時、日本軍は初めて、戦車と砲撃を中心とする近代戦に直面し、ほぼ壊滅した。前方を砲撃で壊滅させられ、背後を戦車部隊に回られて壊滅させられ、突撃部隊は機関銃の一斉射撃でなぎ倒された。
日本の軍部は当時すでに「白兵銃剣主義」(銃剣をもって突撃し接近戦に持ち込む)が近代的装備で武装した軍隊にはまったく無力であることを知りながら戦争に突入し、陸軍はこの「白兵銃剣主義」に固執し続けた。
同じことはガダルカナルや多くの太平洋の島々でも繰り返され、「南方」に派遣されると言うことは戦死すると言うこととほぼ同じ意味であることぐらい多くの日本兵はすでに知っていたのである。
だから日本兵が「心ならずも(意志に反して)」戦死してしまったという言い方はまったく当てはまらない。
二つ目は、戦場に送られることが「心ならずも(意志に反して)」という解釈である。
これはまったく正しい。多くの日本兵は労働者、農民の出身者で、彼らは赤紙一枚で強制的に徴兵された人々である。当時の彼らには徴兵を拒否することはできなかった。だから彼らは涙をのんで家族と別れ、絶望的な戦地に赴かざるをえなかったのである。
そして日本の軍部はこのように日本兵が小銃を買うよりも安い値段で手に入ったから、彼らに銃剣をもって突撃することを繰り返させたのである。「一将功なって万骨枯る」とはいうが、「心ならずも」国家によって強制的に枯れた万骨にされてしまった者の怨みを小泉純一郎はどこまで分かっているというのか。
そういう点では彼らは日本軍国主義の直接的な犠牲者である。当時の支配階級と天皇と日本軍部は、何百万人の労働者と農民に無意味な死を強要し、そうすることによって滅びたのである。
つぎの「現在の日本の平和はこれらの人々の尊い犠牲の上に築かれている」というのはさっぱり分からない。
日本は戦争に勝ったのか?
激しい闘いがあり、多くの人々が戦死してかろうじて勝利した場合、現在の平和は戦死した人が犠牲をいとわず戦ったからであり、勝利の栄誉はすべて彼らのものである、という場合、こういう言い方も妥当であろう。
しかし、日本の平和は日本軍国主義が破滅したことによってもたらされたことほど明確な事実はなかろう。日本が「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏したから日本とアジアと太平洋に平和が訪れたのである。
この場合、小泉純一郎は「お前たちが戦死してくれたおかげで、日本は戦争に負けて平和が訪れた、ありがとう。」というのか、それは戦死者を弔っているのではなく、愚弄しているだけであろう。
最後の「二度と戦争をしないという不戦の誓いをこめて靖国神社に参拝している」というのはもっと理解しがたい。
太平洋戦争の戦死者を弔う「不戦の誓い」というのであれば、「許してください、過ちは二度と繰り返しませんから」しかないであろう。これは戦渦の犠牲になったアジアの人々に対してだけではない、大きな犠牲を強要した日本の労働者・農民に対してもである。
こういう人々を「英霊」などというのは許しがたい。「国のために殉じた」だと、寝ぼけるな、平和に暮らしている労働者・農民を、恐怖と強制と暴力で狩り立て、絶望の戦場に送り込んで、ある者は餓死させ、ある者は病死させ、ある者は戦死させるというのは国家による犯罪行為そのものではないか、それを今になってあの人々は自分の意志で戦場に赴いたのだと言い張るのか、それは自分の犯罪を覆い隠すためのウソであり、あの戦争を美化するもの以外の何ものでもないではないか。
もう一度言う。日本が「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏したから日本とアジアと太平洋に平和が訪れたのである。小泉純一郎は太平洋戦争の当事国の首相なのだから、このことの意味をきちんと理解できなければ、世界の中どころか、日本の中でも、笑いもののままだ。