自民党が「教育基本法」の改正を目論んでいる。
法改正の力点は二つ。
一つは教育行政について「国民全体に対し直接に責任を負って」という部分を削除することと、二つ目は「国を愛する心をはぐくむ」という文言を入れること。 まず、最初の国の責任放棄について。
これは日本国憲法の第26条の「教育を受ける権利」と表裏一体のものとなっている。つまり、国民には教育を受ける権利があり、教育行政はその権利の保障に「直接の責任を負っている」ということを明文化したものであり。
この「教育を受ける権利」には、子どもにくだらないことを教えてほしくないという「教育の自由」も含まれている。つまり当事者(子ども、親、教師)に教育内容を選択する包括的な自由裁量権を与えているのである。
だからここから「誤った知識や一方的な観念を植えつけるような内容の教育を行うことを強制してはならない」という思想や「不当な支配に服することなく」という国家的介入の排除という思想が出てくるのである。
今回の「教育基本法」の改正では、この文言(「国民全体に対し直接に責任を負って」)を削除することによって、国民の「教育を受ける権利」をいちじるしく損なう危険がある。 保守反動派はこの文言の削除だけでは飽きたらず、「不当な支配に服することなく」まで削除することを求めているが、まさにこれこそ教育を不当に支配してやろうというということではないのか。とんでもないことだ。
政府自民党は教育の目的そのものを変更して、子どもたちのために有意義で必要な知識や技能を身につけさせるという人間形成の社会人育成の観点からではなく、国家のために有意義な人間を育成するという国家主義教育の観点に移行しようとしている。
だから、徳目をいくつかならべてこれらの徳目を身につけよと子どもを恫喝し脅迫するのである。 そしてこの徳目の中心には「愛国心」がある。 政府自民党は国民の反発を恐れていくつかの妥協案を出している。
その一つが「他国を尊重し」という言葉を入れることであるが、これについても保守反動派は「北朝鮮も尊重するのか」などとバカなことを言っている。
政府自民党は北朝鮮と戦争するために教育基本法を変えようというのか。そもそも「愛国心」などというのは、比較対象の問題であり、日本とブラジルがサッカーの試合をやっているときに、日本を応援しないものは「反日分子だ」ということであろうが。
「反米愛国」「愛国抗日」「愛国反中韓」はセットになっており、小泉純一郎でさえ、日本人で、中国や韓国のように靖国神社の公式参拝に批判するものは、国賊で非国民だなどという非常識なことを国会で平然と語っているではないか。
だから保守反動派にとって左翼は、政府批判派であるがゆえに、「反日分子」なのであろう。こういうくだらないことを子どもたちの世界にまで持ち込もうと言うことであればわれわれは労働者の師弟のために断固として政府自民党の教育基本法改悪を阻止しなければならない。
さらに、最近では、政府自民党の愛国心のあまりにもお粗末さに、すなわち、その実態が近隣諸国との対立を煽るだけの偏狭な民族主義や排外主義でしかないことを隠すために「国」には統治機構は含まれない、ということまで言いだしている。
しかしだ、憲法が規定する統治機構には「内閣の助言と承認のもとで、一定の国事行為を行う」天皇も含まれているのである。
政府自民党の諸君は、まさか戦時中の軍部のように「天皇機関説」は国賊だ、などと言うことは言わないだろう。
もちろん、これさえも単なるごまかしであることは「君が代」の歴史を見れば明白だ。
当初、政府自民党は「君が代」というのは、ボクとキミのキミのことなのだとウソをついて、教育現場に持ち込み、次には、国歌・国旗法案を制定させた。 国歌・国旗法案を制定したときにも政府自民党は君が代・日の丸を「教員や子どもたちに強制はしない」ということを国会で約束をした。
ところが、国旗・国歌法案が制定されると、すべての約束が反故にされた。君が代・日の丸は教育現場に強制的に持ち込まれ、教育現場に無用の混乱と軋轢をもたらした。この中で自殺した校長や教員もおり、君が代を歌わなかったり、日の丸の掲揚に反対したために処分される教員や生徒もでた。政府自民党は国民を欺き、ペテンにかけたのだ。
既成事実を積み上げるために、子どもたちにウソを教え、教職員をだまし、教育現場に国家主義を持ち込み、子どもたちと教職員に大きな良心の呵責をもたらしている。
日本の教育を破壊している諸悪の根元は、実は、政府自民党なのである。