前回のブログ以降、頭に混乱が生じました。暫く彦狭島から離れます。今回は安曇氏のお話です。
日本人のルーツは海人族とされ、海を渡って来ている人々であるとされています。その代表格でありますのが、志賀之島にある『綿津見(海)神社』の宮司を代々受け継いでおられます阿曇さまや家具で有名な大川市にあります神功皇后所縁の『風浪宮』の宮司の阿曇さまであります。この阿(安)曇族は渡海技術に優れた集団であったものと考えられています。全国に痕跡を残しており、山形県温海町・福島県熱海町・新潟県関川村安角・富山市安住町・石川県志賀町安津見・静岡県熱海市・岐阜市厚見・愛知県の渥美半島の『渥美』・滋賀県高島市安曇川町・兵庫県一宮町安積・米子市安曇、等長野県に在る『安曇野』も安曇族が住み着いて名付けられたとされ、最近は各地の安曇氏を集めての『全国安曇氏サミット(金印シンポジウム)』なるものを開催して安曇氏のルーツ探しが行われています様ですが、
わたくしの説での考えでは、『安曇』のルーツの本拠地は間違い無く『安心院(安曇)で在ったろう。』と為ります。
天孫族本体が最初に上陸をしたと考えられる地点は苅田町から中津~宇佐国東~別府湾大分辺りと考えられ、特に国東半島の奈多宮は比賣大神が上陸した地である。とされ、この比賣大神は多祁里比賣命のことであり、安心院に在る三女神社や妻垣神社と関係を考えられ、之は、高天原(由布院)に居られた『天之御中主神』・『天照大神』・『高御産巣日神』・『天三降命』とも繋がり、亦、宗像神社・志賀海神社・風浪宮に繋がり、理に適います。
天孫族は豊前~豊後に上陸後、斥候を使って、倭の各地の様を調査し、外洋を航海出来る造船条件(木材の確保・木材運搬の河川・潮の満干の大きな潟の確保)の揃った地を探し、これに適した大川市『言奴気子(榎津)』にて、外洋船の建造をしていたものと考えられます。此処が風浪宮の事で、神功皇后が征新羅後、少童尊(住吉三神)を祀る為、訪れた場所と謂われています。近くの八女市から矢部川のクリークが風浪宮(榎津)まであり、造船の為の木材を運搬するために、早くから土木工事をしたものと考えられます。しかし、此処には『隈さま』に代表される少数派の『狗呉族』が以前から棲んでおり、大層、天孫族は気を使っていたものと考えられます。
亦、北九州の遠賀川周辺でも造船を行っていたものと考えられ、弥生時代と思われる箱式石棺の中や周辺から鉄族の『鑓鉋(やりかんな)』が数多く出土しています。遠賀川中流の彦山川今任近くには『伊加利(いかり)』の地名も残っており、遠賀川を利用しての木材運搬と造船が下流域にて盛んに行われていたものと考えられます。
志賀海神社は倭への入国税関と言って過言無く、通過する船は此処にて検閲を受けていたものと考えられます。天孫族はこの地を確保する事で交易(鉄・銅・綿・絹・家畜・奴卑等)の利権を確保し、入国者・物の選別をしたものと考えられます。
安曇族の本体は安心院(宇佐)に在った事は謂うまでもありません。
論拠は、近くに在る『母なる山』と崇められています『八面山(はちめんざん)』別名、箭山(ややま)であります。
この地から、大型外洋の造船に適した大川市の『榎津』や北九州遠賀川~宗像周辺に移動した安曇族の一部は『八面山』を偲び、八女(八面)の地名を名付けたものと考えられます。その後、安曇族は北陸・近畿・東海・関東等、全国に散らばります。
長野の安曇野では『八面大王説話』が伝承され、このお方は『八女の大王(やめのおおきみ)』の事であろうと考えられています様ですが、宇佐安心院出身の『八面大王』であった。とも可能性を考えなければならないでしょう。
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