「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『アッツと驚く為五郎。』 『蓋鹵王』に為った 『加須利君』(市辺忍歯別王)と思われます。

2019-11-06 | 古代史

『アッツと驚く為五郎』と謂う浪曲『石松の代参』のセリフがありますが、古代史の世界では、市辺忍歯別王(履中天皇の子)が、其れに当たります。

 

武内宿禰(258年頃誕生して4世紀中期迄生きた人と想われます。)は、『ゆふいん』で生まれて、古事記では、7男2女を儲けている。とされ、その第8子に『豊後葛城(葛木)』の『襲津彦』がいます。(4世紀初頭に生まれて4世紀中頃~末期に活躍されたものと、考えています。)

 

此の解釈は、『紀氏家牒』逸文では『葛城長柄襲津彦宿禰』と述べられており、『長柄』の解釈は、長い棒状(鶴の首状)に豊後大分鶴崎湾に延びた高台を比喩しております。

此の『長柄』の場所は、地形の状態が大分市葛木を意味しており、『葛城長柄襲津彦宿禰』は豊後の人であります。

日本書紀では、神功皇后・応神天皇時代に新羅・百済に派遣された『葛城長柄襲津彦宿禰』の時代に『七支刀』が、百済から送られてきました。因みに、百済の成立は、346年頃(4世紀前半)とされています。『葛城長柄襲津彦宿禰』が、韓半島に渡って、百済・任那府・新羅(356年の成立)の成立に活躍をしたものと考えています。366年の『羅済同盟』に係わったものとも想われます。

 

百済と倭の関係の、良好な状態が『七支刀』の贈呈をもたらしたものと、考えられます。

 

新羅は、豊後葛城(葛木)氏との関係が深く、古くから『葛城別王』→『葛文王』を新羅へ派遣しています。

 

新羅との関係が上手くいかないと、百済や加羅・任那府(百済と新羅を監視する役割の位置に設けられています処の倭人の集団)と一緒に新羅を討伐します。毎回毎回、海を渡っての攻めは多くはなかった。と、考えています。

 

『葛城長柄襲津彦宿禰』は、

娘に『磐之媛命』を儲けて、『磐之媛命』は『仁徳天皇』(オヲサザキ大鷦鷯天皇。田川で生まれます。)の皇后になり、以下の子を儲けます。

 

 

第17代履中(オオエノイザホワケ大兄去来穂別王、在位6年1月崩御)

大兄去来穂別王はイワレ磐余ワカザクラ稚桜宮で亡くなった。と述べられています。イワレ磐余の場所は、アマテル=瓊瓊杵尊が『ゆふいん高天原』から移動して落ち着いた場所でありますので、福岡県田川郡香春町から赤村に考えられます。

 

住吉仲皇子(スミノエノナカツ墨江之中津王)

住吉仲皇子(墨江之中津王)の存在場所は、福岡県苅田・行橋市~中津市が想像されます。

住吉神はウガヤフキアエズ=開化天皇の事であります。

苅田町馬場に在ります『宇原神社』は、ウガヤフキアエズと豊玉姫・彦穂穂出見尊を祀っています古い歴史を持った神社です。神紋は、彦穂穂出見尊・開化天皇=ウガヤフキアエズの紋であります剣唐花(花菱)です。

 

第18代反正(ミズハワケ瑞歯別王、在位5年1月皇太子を立てずに薨御。)

玉名市江田船山古墳から出土した鏡4枚の文字の解読に挑まれた故百嶋由一郎さまに拠りますと、近江志賀に渡った息子が無事でいる反正天皇への感謝の文面で有った。由。

瑞歯別王の都は『河内丹比』と述べられ、『河内』や『大阪=逢坂』の地名は田川郡香春町に在ります。

 

第19代允恭(オアサズマノワコ雄朝津間稚子宿禰王、在位42年。)

久留米市御井町に『朝妻』があります。『曲水の宴』をしたと思われます遺跡が発見されています。わたくしは、『曲水の宴』をした人物は『雄朝津間稚子宿禰王』で有ったろうと考えています。そうすると、欽明天皇が、斯帰斯麻宮→磯城島宮→唐島(秋永地区)に居たのが、納得する事ができます。

欽明天皇の実の皇子が、用明天皇(田川郡磐余池上宮→磯長秋永地区)です。(敏達=蘇我稲目=法興王は、欽明天皇の子ではありません。)用明の皇子を調べると良く理解できます。

クルメノミコ来目皇子が居られ、磯城→来目→久留米と呼ばれる様に成ったと、考えられます。わたくしは、『来目皇子』はクメとは発音せずにクルメと呼ぶべきであると、考えています。

『来目皇子』が薨去した筑紫の『島郡』とは、糸島の『志摩』郡と考えられていますが、屯営したのは『志摩』かもしれませんが、病気で翌年亡くなった場所は、通常『シマ』と呼ばれた『唐島』の秋永地区であった。とも考えられます。

わたくしは、25000人もの兵員が屯営した場所は、糸島の『志摩』ではなく、唐島の『島郡』で有ったろう。と、考えています。大川市(榎津と当時は呼ばれていたものと考えられます。)で製造した船で磯城から筑後川を下り、有明海から黒潮海流に乗る五島列島~壱岐~対馬コースが考えられます。

『来目皇子』の皇子にはヒタノミコ『日田皇子』がいます。『厩戸皇子』(用明の皇子)が産まれた場所は、うきは市の『大生寺』柏寺が導かれます。柏寺の下に『川原寺』(斉明天皇の亡き骸を中大兄皇子が殯を行った場所)が在った事に為ります。『来目皇子』は、允恭天皇に繋がる磯城出身であった。と考えられます。

 

『応神』~『仁徳』期は、豊前から豊後に架けての海岸には大勢の秦・漢人が遣って着ており、

『仁徳天皇』の『難波高津宮』の場所は、福岡県苅田と思われます。

 

『仁徳』が崩御した時に、住吉仲皇子(墨江之中津王)が王位を奪おうとしたので、大兄去来穂別(履中)は、奸計を用いて、瑞歯別(反正)に、「わたしの次はお前に王位を譲る。」と、約束をする事で、唆し、住吉仲皇子(墨江之中津王)を殺害させます。

 

『履中』(伊弉本別王)は、黒比賣命(葛城葦田宿禰の娘。豊後葛城氏=大分をイメージして下さい)との間に『市辺忍歯別王』を儲けており、此の『市辺忍歯別王』の子に、飯豊青皇女・第23代顕宗(袁祁石巣別王=弘計王)・第24代仁賢(意祁王=億計王=島郎)がいます。しかし、履中の子として青海皇女が居り、飯豊青皇女との関係が詮索されています。

 

允恭の子、第20代安康(第21代雄略の兄)は、即位3年8月避暑に訪れた穴穂部(阿蘇外輪山のカルデラ又は、ゆふいん盆地をイメージして下さい。)で眉輪王から殺害されますが、

古事記では、生前に履中の息子である『市辺忍歯別王』に王位を譲ろうとして、『市辺忍歯別王』は雄略から近淡海(久留米周辺の有明海の海水と筑後川の真水が、潮の満ち引きで混じり合う場所の事)の蚊屋野(伽耶野=草野)で殺されます。

 

(雄略=大泊瀬皇子は、允恭7年(421年?)に福岡県の朝倉で誕生して、允恭42年(456年?)に即位。即位23年で崩御。多分479年とされています。58年の生涯です。雄略の業績は、百済の要請で韓半島へ進出し、高句麗と戦い勝利しました。百済王で有った『ヒユウオウ毗有王』の子である『蓋鹵ガイロ又はコウロ王』の家族を倭の筑紫の加羅島(唐島)で預かった。とされています。)

 

『市辺忍歯別王』の息子の億計=意祁ヲオケ(仁賢)と弘計=袁祁オケ(顕宗)は、雄略(大泊瀬皇子)から殺されない為に、丹波(日田~ゆふいん)→針間(播磨)明石へ逃げた。(安康が亡くなった456年頃の時期)とされ、

 

雄略が亡くなった後の、第22代清寧(白髪大倭根子命)は、父親は雄略です。母親は葛城韓媛命で、允恭33年頃誕生し、雄略の崩御後479年即位します。しかし、僅か即位5年程の483年に崩御します。

播磨に逃げていた億計=意祁(仁賢)と弘計=袁祁(顕宗)は、姉の飯豊青中宮天皇から倭に呼び戻されます。(483年頃)

 

清寧には、后・妃が無くて、つまり、後継者無くて亡くなり、清寧の後の中宮(中継ぎ)として、飯豊青皇女(=葛城韓媛=葛木円ツブラ※の娘。の事と、考えられます。)が天皇に為ります。

 

※    古事記によりますと、

葛城円ツブラは、雄略に追われて来た、眉輪王を匿い、葛城韓媛と領地を5か所差し出し、許しを請いますが、叶わず、眉輪王を殺して自害をした人です。

 

その後、弟の弘計=袁祁(顕宗)が先に王位に就き、兄の億計=意祁(仁賢)がその後に為った。と、謂う事に述べられています。

 

亦、『市辺忍歯別王』を、『播磨國風土記』には、『市辺天皇』スメラミコトと述べられており、

 

『市辺忍歯別王』は天皇に為っていたものと、考えられます。

 

 

わたくしは、『仁賢』が百済から倭の唐島に遣って来た『昆支王』の事である。仁賢の子とされています『武烈王』が、福岡県久留米市竹野タカノゴオリ唐島で育った『武寧王』の事である。と述べていますが、

 

『市辺忍歯別王』が、倭から百済に渡り、第21代『蓋鹵王』に為ったもの。と、判断しています。

 

日本書紀では、『加須利カスリの君』と、親しみを持って、呼ばれています。此れは、倭で暮らして居た、皆に知られた人である。と、判断されます。

 

『雄略』が娶った『葛城韓媛』とは、『飯豊青皇女』(別府市豊岡?出身)の事。であろう。

 

つまり、第22代『清寧天皇』は『飯豊青皇女』の子と考えています。

 

以上の根拠は、

 

1、群馬県の綿貫観音山古墳から出土した銅鏡(獣帯鏡)は、大韓民国、忠清南道公州市・宗山里古墳群の武寧王陵の獣帯鏡と同型鏡(鋳物の型が、同じもの)で、武寧王が倭の唐島に住んでいて、倭の豪族に付与したものと、考えられます。

2、武寧王陵の木棺は、日本の高野槇(韓半島には無い材料)で造られており、日本から運ばれた。と考えられます。

3、512年に、筑紫から軍馬40頭が、任那府経由で百済『武寧王』へ届けられており、軍馬の育成は、竹野郡『唐島』(加羅島)の隣りの『牧』で行われたものと、考える事ができます。

以上から、推測されます事は、462年から501年迄、筑紫の竹野郡加羅島に居た『武寧王』(倭での名前は『斯摩シマ王』です。記・紀では『武烈天皇』)にされています。と考える事が正解でしょう。

 

4、百済第20代『毗有ヒユウ王』の長子とされる、百済21代『蓋鹵ガイロ又はコウロ王』(倭名は加須利君カスリノキミで、在位は455年~475年戦死。457年『鎮東大将軍』の称号を南宋の孝武帝から貰います。)とは、『仁賢』(シマノイラツコ斯麻郎)の父親であります、『市辺忍歯別王』であろう。と考察されます。

 

5、『市辺忍歯別王』は『雄略』から、殺されたのではなくて、百済王の『毗有ヒユウ王』の養子になり、第21代『蓋鹵ガイロ王』と為った。と、考えるべきです。

 

 

6、『蓋鹵王』の息子の『文周王』(475年即位~477年)は、倭の『雄略』の後押しで、第22代として即位しますが、国内の実力者、『解仇カイキュウ』の刺客により、3年で殺害されます。『文周王』の子、第23代『三斤サンキン王』は、僅か13歳で即位しますが、在位3年で死にます。

 

7、『昆支コンキ王』は、日本書紀では『蓋鹵王』の子では無くて、『蓋鹵王』の弟である。と述べられており、此れが本当であれば、『履中』の次男『御馬ミマノミコ皇子』が『仁賢』=昆支王と謂う事に考えられます。

 

 

8、『三斤サンキン王』の後には、筑紫竹野郡加羅島(倭王家、雄略=息長氏=秋永氏の部落)で育った、昆支=仁賢=御馬皇子の子『牟大ムタ又はムダイ』が第24代『東城トウジョウ王』(在位479年~501年、在位22年。)として、筑紫の軍人500人を連れ、百済に赴きます。501年12月に衛士佐平の大臣『苩加』ハッカの刺客に殺害されます。

 

9、502年1月に第25代『武寧王』として、百済に赴いたのが、『牟大』ムタと同じく筑紫の竹野郡加羅島(唐島)で生まれて40歳を迎えた、『蓋鹵王』=『市辺忍歯別王』(加須利君)の子で、倭王に為って8年目の『武烈王』と、その息子『聖明王』です。

 

 

10、      『東城王』=『牟大』ムタと、加羅島(唐島)で一緒に育った『武烈王』(武寧王)は、『東城王』が殺害された報告を受け、直ぐに『牟大』ムタの仇を討つために倭王を投げ捨てて、百済に第25代『武寧王』(嶋君)として渡り、活躍をします。

 

11、      倭王が居なくなり、唐島の秋永氏(息長氏)部落には、適当な人材が見当たらずに、臣下でありました大連の大伴金村や物部麁鹿火、大臣の巨勢男人らが相談をして、息長氏(秋永氏)が、田川・日田・竹野から近江地方に移動しており、京都~近江~福井へ倭王探しに赴きます。

 

 

12、      福井で見つけたのが袁本抒(継体天皇=息長氏=秋永氏)です。

大伴金村や物部麁鹿火、大臣の巨勢男人らは、百済に渡った武烈天皇(武寧王)に報告し、許可を得ます。其の時、武寧王から、袁本抒(継体天皇)へ、大王を引き継ぐ証明の『銅鏡』が贈られます。此れが、袁本抒が『継体』と名付けられた由来である。と、考えています。継体は、516年に九州年号(517~704年)を創ります。そして、国名を『ィ倭』から『タイ大倭→俀と随書に出ています。』にします。(白村江の戦後の670年に、近江に居た天智と藤原氏が、ヤマト日本國を宣言します。)

 

13、      日田上宮王家(豊受大神一族には、曹(操)氏と袁氏の末裔が混じって居たものと、考えられます。曹操と袁氏は『三国志』にも、登場していますが、縁の深い関係があります。袁氏は曹操に討たれます。)は、いったん地方へ移動した者の帰還には冷たく、反対をしました。

 

 

14、      そこで、3人は一計を策し、加須利君(蓋鹵王=市辺忍歯別王=余慶=457年に宋の孝武帝より、鎮東大将軍の爵号を拝命)の弟である昆支王(仁賢=御馬皇子)の娘である『手白香皇女』と福井の『袁本抒』(継体)を結婚させ即位させ、取り持ちを謀り、懐柔をしますが、日田上宮王家の反対は續き、倭王が筑紫に這入れなく、臣下の者は、倭王である継体との連絡等に困り果てて、日田上宮王家への不満が募ります。

 

15、      上宮王家(豊受大神一族です。日田には上宮町が在ります。)の支持母体は、謂う迄もなく、大山橘み一族であります。(月氏で新羅との関係が、日高彦穂穂出見尊・豊玉姫・スサノオ=天日鉾=崇神以来、深い関係です。大山町が在ります。)応神天皇期に大勢の秦氏(漢人)を、(月氏・劉邦=笠縫氏に繋がる大蔵氏=漢人アヤヒトを含みます。)

 

倭に受け入れ、韓半島の高句麗・新羅・百済と倭任那府の関係が、複雑に推移します。

 

履中期以後、特に雄略期が一番です。雄略は、百済王に、『市辺忍歯別』を『蓋鹵王』として送り込み、百済との関係を深めて倭の領土拡大を図りますが、何度も臣下の反逆に遭い、百済の統治に手こずります。

此の雄略期456年から継体期531年までは、倭と百済は、王族が倭から派遣され一体化を成しますが、加羅・任那の倭人は新羅派が多く、新羅王は、倭の豊後葛城氏から派遣された血脈の『法興王』(葛文王)です。527年~531年倭の上宮王家(日田豊受大神一族)が滅んだ後の532年、金官伽耶の任那府は『法興王』の新羅に吸収されてしまいます。

 

つまり、此の時期の中国大陸から倭へ遣って来た人達の韓半島政策は、倭・百済・新羅・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)・任那府を一体化して、高句麗に対しての国力を持つ事で、中国(宋)のお墨付きの権威を求めています。

 

16、      継体は19年後の526年に田川飛鳥宮に這入ります。

 

17、      527年『継体』は、田川飛鳥の『安閑』と、佐賀日隈の『宣化』の協力をもって、日田上宮王家の本体であります、『石井』を攻め滅ぼします。

 

中国語に詳しかった故、百嶋由一郎さまは、『石』と『昔』の中国語での発音は『シイ』で、中国語読みでの意味は、一緒である。と、述べられています。

 

新羅第4代王『昔脱解ジャクダッカイ王』韓国名ソクタレは、多婆那タバナ國(熊本県玉名タマナ=江田船山古墳があります。豪華舶来副葬品が日本一出土しています。)から遣って来た。(韓半島の歴史書『三国史記』では、鵲カササギから昔に略した。と述べられています。)

 

18、      しかし、大山橘み(月氏・新羅派・本当は西アジア系のヘブライ胡人)一族は、『継体』・『安閑』・『宣化』を次々に殺害し、大分の葛城氏から派遣され、新羅王として居た、『法興王』(葛文王40歳)を呼び戻し、『朝倉広庭宮』で生まれた『欽明』(天國排開広庭天皇)の、大連『蘇我稲目』として、歴史に突然登場させます。

 

 

19、      大連『蘇我稲目』は、『欽明』(在位539年~571年の32年間)の死後、572年4月に王に為りますが、日本書紀では、『敏達天皇』として、登場させています。(585年9月崩御。在位14年間です。法興王が、倭に40歳で遣って来たのであれば、498年頃に誕生。86~87歳で崩御したことになります。)

 

 

20、      『敏達天皇』の長男の『押坂彦人大兄皇子』(出生・死亡時期が何れも不詳です。此は、日本書紀が表記したくないものと、感じられます。)が、『蘇我馬子』であろう。日本書紀が噓を述べている。と、考えています。

 

『蘇我馬子』は、欽明13年551年誕生~推古34年626年没の75年間の生涯で有った。とされていますが、わたくしは、推古30年622年2月没(71歳の生涯)であったものと考えております。(法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘に依ります。)

 

21、      『押坂彦人大兄皇子』(蘇我馬子と、考えられます。)が、隋書、西暦600年(倭では、推古8年になります。)の項に「俀王姓阿毎字多利思北孤」と表記された人物であろう。と、考えられます。

 

 

その根拠を申し上げます。

 

『押坂彦人大兄皇子』(蘇我馬子の事と想われます。)が娶っています、『小墾田皇女』は、『敏達天皇』(蘇我稲目の事。)と『推古天皇』(豊後小墾田宮で政務を執った天皇)の間で儲けている事にされていますが、此れは、藤原氏の捏造であり、噓です。

 

 

『馬子』(押坂彦人大兄皇子)は『推古天皇』(小墾田皇女)を娶った。と、考えられます。

 

 

古代では、父親の妻を子が娶る事を公表できない事柄。と、考えられていて、改竄が行われ、正しい歴史が隠されたものと、思われます。亦、モンゴル系渡来人は、父の嫁を息子が娶る風習があった。と思へます。

 

 

 

日本書紀は、故意に改竄が認められる『偽書』であり、信頼に欠けます。此れを基本に國史を組立てる事は出来ません。その多くが、3世紀から4世紀はホツマツタエからの『いいとこどり』の転用と改竄であります。5世紀~8世紀までは、藤原氏の改竄と捏造が目に余ります。

 

従って、日本書紀・古事記に頼っている、現在の近畿説学者の古代への考察は間違っており、『ナンセンス』です。信じてはいけません。(参考には為ります。)

 

 

古代への考察の研究者は、先ずは、『ホツマツタエ』を読み、その後日本書紀・古事記・先代旧事本紀・元興寺伽藍縁起・万葉集・高良玉垂宮神秘書・宇佐公康氏著書・内倉武久氏著書・井上悦文著書・等々への展開を図るのが、真実の歴史への近道です。

 

 

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第2代天照大神(向津姫・瀬織... | トップ | わたくしの考える葛城氏。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

古代史」カテゴリの最新記事