「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

神武天皇は崇神天皇と同一人物であり、東征の本質が解明されました。

2015-04-11 | 古代史

宇佐公康氏『伝が語る古代史』に依ると、神武天皇の墓所は『安芸(国東安岐)の市来島宮(八幡奈多宮)の傍の弥山(みせん)に埋葬した』の伝承と、わたくしの考察での崇神天皇の墓所(小熊山古墳)の位置が合致しており、此れは神武天皇と崇神天皇が『同一人物』である証拠と考える事ができます。

と、謂う事であれば、『神武東征』は『崇神東征』である考える事が出来ます。

崇神天皇は、博多湾から安曇族と伴に北九州苅田市富久町(とみひさまち)(3世紀造営の石塚山古墳あり)に居た登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)と戦った。と考える事が出来ます。

(崇神時代の)当時、此処苅田から勝山黒田に居た那賀須泥毘古(長髄彦)とは、わたくしの説での考察では、崇神天皇の兄弟であります『彦坐王』(彦湯産隅命)=孝霊天皇であります。

記・紀で述べられています『東征』とは、『彦坐王』(彦湯産隅命)(=景行天皇)の事を倭(九州)から近畿へ追い遣る戦いであった。と捉える事が出来ます。

神武は戦いでは長髄彦には勝てず、古事記では宇摩志麻遅が長髄彦を殺して終決した事になっていますが、長髄彦は安日長髄彦(あびながずねひこ)とも考えられており、生き延びた。との伝承があるようです。

『彦坐王』(彦湯産隅命)=長髄彦(=景行天皇)は近畿纏向に渡り、景行天皇として大彦命の後の大王になったものと想われます。

 

わたくしは、神武東征は『彦坐王』(彦湯産隅命)(=景行天皇)が以前に棲んで居た勝山黒田の地『やまと』を日葉酢姫が産んだ兄弟四人で、長髄彦から奪還した第12代景行天皇の時代の熊襲退治の事跡であろう。と述べて、神武は四男の若木入日子命の事と考えていましたが、之は間違いで、記・紀の神武東征の記述の本質は、崇神時代(3世紀中頃)の『彦坐王』(=景行天皇)との戦(倭の大乱第2幕)である。と結論着ける事に訂正致します。

 

 

 

 


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神武天皇は実在 (いちヒムカイト)
2018-10-27 23:20:07
神武天皇はヒムカイトの王であり、ヒッタイトの王である、
日本刀の制作技術はヒッタイトの最高軍事機密であり、神話、衣装、髪型、菊?の紋章、新嘗祭り、日本語、これらのすべてがそのあかしであり、BC660というのも漢字以前の文字により記録されていたはずである。これらの詳細な記録が喪失したのは大化の改新時、蘇我氏による国史焼却による。
3世紀では遅すぎる。卑弥呼はヒメミコからきており、後継者イトとなるのも、「いつきのヒメミコ:斎王」であり元首ではない。外国人に日本の内情が1度や2度きて理解しろというのがむりである。19世紀のアメリカ人でさえ将軍を天皇だと思っていたのだから。
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