「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

川原宮を考える。武烈天皇・天智天皇の正体。(武烈天皇は武寧王に為った。天智天皇は武寧王の末裔。と考えられる。)

2019-02-02 | 古代史

日本書紀に拠りますと、

 

斉明天皇は斉明7年7月24日(661年8月24日)朝倉広庭宮にて、崩御されますが、遺体を奈良県明日香村の川原寺迄運んで、其処で、斉明7年11月7日モガリ殯をした。と述べられています。

 

わたくしの解釈では、殯の場所が違います。

 

舒明天皇{田村皇子(押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子の子)の事で、聖徳太子(=厩戸皇子=用明天皇と穴穂部間人皇女の儲けた子)の子の山背大兄王と天皇位を争った人。蘇我蝦夷の推挙で628年推古天皇崩御後、629年即位します。}と皇極天皇(寶皇女=天豊財重日足姫630年=37歳で皇后になります。後の斉明天皇です。)は、田川赤村の岡本宮で過ごし、(福永晋三さまが、解明、発表されました。)

 

舒明天皇崩御(641年=寶皇女48歳の時)後、642年1月15日(642年2月19日)に皇極天皇として、田川赤村の岡本宮で即位しました。

 

即位して14日後の、皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。

 

皇極元年4月8日(642年5月12日)には追放された百済の王族、『ギョウキ翹岐』が、従者を伴って来日します。

 

皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・寶皇女50歳の時)に田川飛鳥板蓋宮(赤村から香春町よりの宮殿跡地出土の場所が考えられます。)へ遷都します。

 

皇極2年11月1日(643年12月16日)、山背大兄王が蘇我入鹿に襲われ、11月11日には自害に追い込まれます。

 

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日、寶皇女52歳の時)田川飛鳥板蓋宮板葺殿にて『オッシ乙巳の変』が起きます。

 

 

中大兄皇子は、皇極天皇が626年(33歳時)に産んだとされ、『乙巳の変』での年齢は中大兄19歳であります。妹にハシヒト間人皇女(第36代孝徳天皇の皇后)と、弟に大海人(天武天皇)が産まれた。事にされています。

 

が、しかし、

中大兄皇子の『中』とは、2番目を意味しており、1番目は(蘇我入鹿に殺された、山背大兄王=上宮王家の欽明→用明→厩戸皇子の血脈者)誰であったのかと、疑念が生じており、娘のハシヒトノヒメミコ間人皇女を弟(孝徳天皇=軽皇子)の嫁にしております。これもまた、尋常では無くて、異常であります。

 

天武天皇に至っては、天智天皇の弟ではない。と述べる研究者が多くおられ、(兄から弟の天武へ、4人の娘、大田皇女、ウノノササラ鸕野讃良皇女、新田部皇女、大江皇女を嫁がせていること。天智天皇と天武天皇の年齢差を考慮すれば、これは、明らかに不自然で、説明できない。)とされています。

 

最近では殆どの研究者が此の説を支持しておられ、天智天皇と天武天皇は、兄弟では無くて、天武が天智天皇(=中大兄皇子=ギョウキ翹岐)を殺した。説が優勢です。

 

当時としては遅い、37歳で皇后に成った皇極天皇が、中大兄皇子・ハシヒトノヒメミコ間人皇女・大海人皇子(天武天皇)を、産んだのかが、疑問視されています。

 

 

秦氏(波多=幡)の先祖とされる弓月君は、応神天皇の時代、百二十県の民を率いて百済から倭に渡ってきて帰化した渡来人です。匈奴・烏孫(兎孫)・月氏に繋がっています。

 

上宮王家とは、日田~ゆふいんの豊受大神一族の末裔の事で(日=太陽を祀り神とする民の事です。)、

 

ゆふいん(豊受大神・伊邪那美)~田川飛鳥(アマテル=ホアカリ=饒速日命=瓊瓊杵尊)~日田(豊受大神・耶蘇杵・高木神・白山姫・彦火火出見尊=孝元天皇)~うきは市(大山祇命・橘氏・平群氏・蘇我氏は、月氏=拝火神の民、である渡来人(大半が応神期に渡来)です。~田主丸町(タカノ竹野)(天鈿女=ミズハノメ=豊玉姫に繋がる息長氏=秋永氏の本拠地で、此処、唐島で、百済25代武寧王(斯麻王=倭では『武烈天皇』と記されています。

このお方は『宋書』の謂う、倭の五王の『武』ではなく、倭王『武』は雄略天皇と考えています。西暦462年誕生。)と第26代聖明王が誕生し、育っています。

 

武寧王、又は聖明王の末裔が、タカノ高野(竹野)の新笠=秦氏の援助で平安京が成立、平安遷都した第50代桓武天皇(737年~806年、即位は781年、父は光仁天皇。)の生母です。

 

武寧王(倭王『第25代武烈天皇』)は(501年)40歳の時に、『倭王』として百済に渡ります。その時に、聖明王も一緒に渡ります。

 

宋書に拠りますと、5世紀の時代、百済と倭は、王家が姻戚関係を結んでいた統一国家状態であった。と解釈されます。

 

501年に倭王が突然に、百済に渡り、倭に王がいなくなり、福井県に居た息長氏(第26代継体天皇になるヲホド袁本抒を大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、倭(九州から山陰・近畿地方迄の領域)に、迎える事にします。

 

ヲホド袁本抒は、『武烈天皇』(武寧王になった人)の義理の姉(昆支の娘)で有ります『手白香皇女=欽明の母』を507年4月2日皇后に迎える事で即位しますが、『上宮王家』の反対があり、19年後の526年田川飛鳥宮に入り、

翌527年、田川勾金の『安閑』と佐賀和泉の『宣化』の協力を得て、田川飛鳥宮入りに妨害していた『上宮王家』の日田石井地区(ガランドヤ古墳・穴観音古墳等が残っています。)を攻め滅ぼそう。とします。

 

記紀では『磐井=石井の乱』として記述しています。

 

しかし、『安閑』・『宣化』の息長氏は継体後、直ぐに暗殺され、継体天皇(近江息長氏)も531年に朝倉で亡くなり(これもまた暗殺?)、三島の『合』に葬られます。(内倉武久さまが解明されました。)

 

上宮王家(ヲホド袁本抒=近江息長氏)の血を引く、欽明天皇が即位し、安定します。

 

此の、竹野郡唐島で育った武寧王(倭王としては『第25代武烈天皇(泊瀬列城宮に居た人)』の事です。百済に帰った後、502年『梁の武帝』から『征東大将軍』の位を得ます。)・聖明王の末裔が百済王族の『ギョウキ翹岐』と考える事ができます。

 

『翹岐』は、倭王の息長氏(秋永氏)の血脈を継承していたものと、考えられます。

 

『上宮王家』の『聖徳太子=厩戸皇子』(うきは市の『橘寺』=柏寺=大生寺=五台山大聖寺近くの厩所で産まれた。用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれている。と、記されています。)の子である、斑鳩に居た『山背大兄王』を643年に襲い、自殺に追い込んだ『蘇我入鹿』を許し難い事と捉え、従者『藤原鎌足』と伴に田川飛鳥宮板葺殿での行為に及んだものと考えられます。

その時に、『中大兄皇子』(翹岐)は「韓人殺鞍作臣吾心痛矣」

 

「韓人(からひと)である翹岐が、鞍作(入鹿の事)を心痛めて、殺しました。」

 

と、皇極天皇に奏上します。

 

つまり、豊受大神一族が代々続いていた『上宮王家』(欽明→用明→厩戸皇子→山背大兄王の正当皇統)が滅んだ事に、心を痛めて、鞍作(司馬氏)の蘇我入鹿に天誅を行なった。となります。

 

 

『翹岐』はその後、『中大兄皇子』と日本書紀に記載され、『天智天皇』とされた。ものと、考えられます。

 

654年弟の第36代孝徳天皇(軽皇子)崩御後に、歴史上初の重祚(皇極天皇→斉明天皇)が、中大兄皇子(翹岐)が実務を取り仕切って、飛鳥宮板葺殿で行われます。斉明天皇元年655年1月3日62歳時ですが、その年の冬に飛鳥宮板葺殿は火災で焼失し、斉明天皇は『川原宮』へ一時遷都をします。

 

『川原宮』の場所は『うきは市』を流れます、筑後川支流の『隈の上川』傍の『川原町』であろう。と考えています。後に中大兄皇子(翹岐)が『川原寺』にします。

※ 『川原寺』(僧寺)と『橘寺=柏寺』(尼寺)は一本道で繋がっています。後に、藤原氏が奈良に同様の配置で『川原寺』(僧寺)・『橘寺=柏寺』(尼寺)を造ります。

 

663年の『白村江の戦い』以後に、多分667~668年頃『川原寺』は、奈良県に移築されます。

 

わたくしは、前回のブログで朝倉広庭宮が在ったのは、『うきは市中島地区』であろう。普門寺は、当時は川原寺と呼ばれていたと思われます。其処が『斯鬼斯麻宮』の事であろう。と述べていましたが、現地調査をしました処、普門寺が川原寺と呼ばれたのではなく、川原寺は別の場所であります『うきは市』川原町』に在った。と、考えを改めました。

 

『川原』は全国津々浦々に存在しているので、研究者たちから、根拠を要求される。と思います。

 

川原宮(川原寺)の根拠は、『隈の上川』に架かる2橋の名前です。国道210号バイパスを跨いで、『上御所橋』と『下御所橋』があります。

『御所』とは、『天皇』もしくは『上皇』が居られる場所を指します。

 

此れは、斉明天皇が居を構えたと考えられます『川原宮』を意味している。とも考えられ、

 

つまり、斉明天皇が亡くなり、殯をした場所は、奈良県の川原寺では無くて、うきは市の『川原寺』であった。

 

と、解釈する事ができます。

 

しかし、日本書紀では、

 

斉明天皇7年(661年)7月24日朝倉広庭宮にて崩御後の記述は、

    • 8月1日 - 皇太子(中大兄皇子)が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮(泊瀬)に到着。2か月と6日後の
    • 10月7日 - 天皇の喪が帰りの海路に出航。16日間かけての
    • 10月23日 – 斉明天皇の喪が難波津に着く。2週間後の
    • 11月7日 - 飛鳥の川原で、殯りをした。9日まで発哀。

とあり、この記述を如何判断するか。が、求められます。

 

全体を見て、感じられます事は、『飛鳥の川原』は倭(九州)から、遠く離れた近畿奈良に存在している。(様に記入されている。)と感じられます。

 

しかし、よく検討をしますと、疑念を抱かせます記述があります。

 

つまり、斉明天皇が7月24日に亡くなり、8月1日に中大兄皇子が泊瀬(磐瀬)宮に着いた。と述べられている事です。

 

中大兄皇子が、近畿の飛鳥宮から6日~7日で遣って来るのは、不可能・不可思議な記述であります。如何やって連絡を執ったのでしょうか。

 

此の問題で、唯一の解答が得られますのは、田川の飛鳥宮近くの『難波津』で、中大兄皇子が船に乗って出発して、有明海から、又は太宰府の水城水門を通って、筑後川を遡って朝倉の泊瀬(磐瀬)宮に着いた。と考えるのが常識でしょう。

 

此の記述は、噓を書く事を強要された、編纂者の良心的な反抗と、捉えられます。

 

日本書紀の記述を信じれば、田川飛鳥の『川原』で殯をした。と謂うことになります。

 

『川原』は『香春』とも解釈できます。斉明天皇の人生の大半は、赤村~香春~大任で過ごしています。

 

しかし、中大兄皇子が泊瀬(磐瀬)の広庭宮に2か月と6日も滞在したと述べられており、これもまた不可思議な理解不能な行いです。通常は速やかに遺体を連れ帰り、殯を行います。

 

やはり、うきは市の『川原宮御所』で殯を執り行った。可能性が高い。との結論が付けられます。

 

『川原宮御所』近くの『月の岡古墳』は、如何も『雄略天皇陵』、『日の岡古墳』が『欽明天皇陵』の匂いがします。

 

ひょっとすると、此処が『川原宮御所』で有った。とも考えられます。

 

 

 

 


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